チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年5月5日
一瞥・チベットの歴史展
ダラムサラの「チベット・ミュージアム」では一昨日から「Glimpses on History of Tibet(一瞥・チベットの歴史展)」が開かれている。「Glimpses(一瞥、ちょっと見るだけ)」と名付けられているように、この展示会は大それたものでなくチベットの有史以前から現在までの歴史を25枚のパネルに簡単にまとめ、一般の人に分り易く短時間でチベットの歴史に対するイメージ持ってもらうためのものである。
全てのパネルをネットでも見る事ができる>http://p.tl/d8vh
話はずれるが、このミュージアム、私が設計したものだが、最初「チベット・ジェノサイド・ミュージアム」という名前のはずだった。私的には名前が変わって残念だなと思ってる。
以下、あまり目につく事のない有史以前のチベットに関する資料写真を中心に紹介する。
その他、目についた所だけ紹介する。さらに関心のある方はネットを眺めてほしい。
解説も一瞥程度。
チベット人とはその起源を共通の神話に求める人々の集まりとも定義できる、らしい。「観音菩薩の化身である雄猿と森の羅刹女の間に6人の子どもが生まれた。これがチベット人の始まりだ」というのがその神話。本当にはまだ、その人種的起源は明らかにされていない。
写真は、そのずっと、ずっと以前ゴンドワナ大陸が約1億年前に分裂し、その一部(ほぼ今のインド半島にあたる部分)が北上、テチス海(古地中海)を形成した後、さらに北上しアジア大陸に衝突。海ごとこれを押上げチベット高原が出現したという図。
緑印:旧石器時代。赤印:細石器(旧石器後期/中石器)時代。青印:新石器時代。
今で言うチャンタン高原から時代が下がるに従い、次第にラサ、コンボ、チャムド、青海湖周辺に集まって来ているのが分る。
チャムドの半地下住居遺跡の図。
約4000年前。
今とあんまり変わらないような、、、日本の縄文遺跡の住居と違い陸屋根。すでに雨は少なかったようだ。
これから先は皆さんにも馴染み深い部分。
これはソンツェンガンポ王に始まる吐蕃王国の周辺諸国征服遠征年代図。
東は西安、北はトルファン、西はサマルカンド、北パキスタン、南はブッダガヤまで攻め落としている。
トンミサンボータの世界。
彼が直接チベット文字のモデルとしたと言われるグプタ文字をはじめ、その頃の北インド、東トルキスタン各地の文字が比較できる表。
ポン教学者の中には、チベット文字に先立ちシャンシュン文字というものが存在したと主張する者もいるが、今のところその証拠になる石柱とか岩とか教典とかは発見されていない、らしい。
仏教再興期、11~12世紀の西チベットやラダックの壁画。
カシミールやネパールの影響が濃く現れている。
この時代、リンチェンサンポが多くの教典を翻訳し、アティーシャが西チベットのグゲ王朝に招かれインド最後の仏教が直接チベットに伝えられた。
マルパもインドに行き教典を持ち帰り翻訳。ミラレパを育てる。
時代は飛んで、これはダライ・ラマ13世が持ち込んだというチベット初の自動車。
1913年、清朝が滅んだ後独立を宣言し、モンゴルと手を結ぶ事により、お互いの独立を守ろうとした。
ダライ・ラマ13世がモンゴルのジェツンダンパとの間に交わした「友好条約」。
このときブリヤートモンゴル人僧侶・外交官ドルジーエフが裏でしっかり働いたと言われている。
同じ1913年イギリスは中国とチベットの代表をシムラに呼び、国境線確定の会議を開いた。1914年に中国側はチベットに完全自治権を許すことに反対し会議を下りた。結果、この協定は二国間協定となった。
写真はこのとき決定されたチベットと英領インドとの国境線「マクマホン・ライン」を示す地図。
この国境線が現在のインドのアルナチャル州と中国との国境線になっている。が、中国はこれを認めていない。
同じ頃、中国とチベットの国境線を決めようという動きがあった。が、これは主張が違い過ぎ決定には至らなかった。
赤い線がチベットの主張。青い線が中国の主張。
1958年、中国の侵略に抵抗するために結成された「チュシ・ガントゥック」隊。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)