チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年4月19日
ウーセル・ブログ「ジェクンド住民が語る震災1年」
原文:http://p.tl/-5M8
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん
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ジェクンド地震から1年になった。胡錦涛は孤児学校の黒板に「新しい学校もできる!新しい家もできる!」と書いた。その言葉は今も耳に残っているかのようだ。黒板はとうに専用車で省博物館に運ばれて保存されている。では、新しい学校と新しい家は?
ジェクンドにはもう3年以上行っていない。今でも記憶の中では、花が咲き乱れる夏の草原にさまざまな遊牧テントが並び、各教派のゴンパが取り巻き、多くの成就者が雲のように集まる宝の土地だ。今でも忠実なチベタン・マスチフが家庭を守り、美しいマニ石が祀られている大地……。しかし、私にも分かっている。異郷に長らく亡命しているダワ・ツェリンが震災後、沈痛に書き記しているように。「生まれ育った故郷はもう地震で破壊され、夢にまで見たあの草原はもう貯水池でつぶされた。どこに行けばよく知る故郷を見つけられるのだろう?」
現地のチベット人が詳しく教えてくれた近況によると、復興はとても難しいようで、天災と人災が二重の打撃をつくり出している。政府の再建計画の青写真は頻繁に変わり、チャング(禅古)村が赤い屋根の簡易住宅でモデル地区になっているのを除くと、大多数の被災者は依然としてテントに住み、不自由な暮らしを送っている。この1年、ジェクンドで外部に伝えることが許されないタブーがあると知った。一つ目は土地と住宅にかかわること。二つ目は学校と生徒にかかわること。三つ目は法会などの仏事にかかわることだ。
土地権益をどう処理するかが最も突出した問題だ。震災以前は1ムーの土地の市場価格は数十万元から数百万元だった。しかし震災後になると、中国各地で官と商が協力して多くの社会問題を起こしているように、ジェクンドも地上げの不運に見舞われた。1ムーの土地の補償価格はたったの3.5~9.8万元で、震災前とかけ離れた価格のため、住民を納得させることができない。また、再建する住宅は各戸の面積がた
ったの80平方メートルで、その上、元々の場所に建てるのではなく、遠くに移転する必要がある。現地のチベット人はこう嘆いた。「最初、胡主席と温総理は『みんなに食べる物があり、飲む水があり、住む場所があるようにする』ことが絶対必要だと言っていた。でも、食べさせられたり飲まされたりしなくていいから、元々の土地を返してくれ」
土地権益を勝ち取るため、大小の請願が発生し続け、追い散らされたり、逮捕されたりした。役人は特別警察を引き連れ、「天は国家のものだ、土地も国家のものだ」と脅して回った。チベット人は「それなら私たちは何なんだ?」と反問した。ちょうど数日前、3日連続で数千人のチベット人が州政府前に集まり、「自分の土地は自分のものだ」「住宅用地の使用権を返せ」「公平公正に問題を解決しろ」などの漢語スローガンを掲げた。その結果、夜中に特警に30~40人が捕まった。チベット人は涙を流し、国家が本当に強盗になったと言った。
目下、ジェクンドには小学校しかないことも知った。震災孤児8605人を含むすべての中高生は複数の省市に行き、3~5年勉強するという。家長らは子どもが地元で学び、チベット文化の教育を受けられるよう望んだが、「内地に行かないなら学校に行くことは許さない」と役人に警告された。去年、震災後にこの規定を実行した時、チベット人の知識分子が呼びかけていたのを覚えている。「チベット語教育の盲点地区だったジェクンドは震災後、より深刻な盲点地区になるだろう。損失を防ぐため、アムドやウツァン、カムの教育界の同胞は急いで社会各界に協力を求め、被災地から移ってきた生徒を省内6州に送って勉強させるべきだ。西寧や双語教育のないほかの場所に決して残してはいけない」。遺憾なことに、どうにもならなかった。
無数の生命をのみ込んでしまうが、地震は天災だ。しかし、政府側が発表した死亡者数と民間の統計の差は数倍にもなる。背後に隠されているものは何なのだろうか?実際、「遊牧民定住プロジェクト」「環境保護のための移民」「社会主義新農村」を名目に私服を肥やす役人がどこにでもいることを現地人は知っている。こうしたプロジェクトはすべて「おから工事」になることも知っている。同様に、地震で最も被害を受けた校舎や教室も似たような「おから工事」だった。
死者は既に去った。生存者にすれば、1周年に際し、亡くなった霊のために盛大な法会を開くのは伝統であり、人情の常だ。しかし、この最低限の要求も禁止され、各ゴンパはそれぞれの法会だけを開き、集まることはできなかった。あるいは、アムドやウツァン、カムの各地から来た僧侶が震災救援で示した力量を当局は恐れ、その影響力を人目に触れさせたくないのかもしれない。
2011年4月13日 北京にて
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)