チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年4月17日
青海草原に消えた亡霊 その3(完結編)
写真:アムドの草原(撮影・黄河影人、二枚目も)
論考最後の言葉:
「今では半世紀が過ぎ、目の前に無味乾燥な数字が残されているだけだ。これらの数字のすべての「1」は1人の生命だ。この一つ一つの「1」が数千数万になり、青海高原の草むらの下、静かに消えたのだ。」
昨日の続き。
「青海草原に消えた亡霊」原文:http://p.tl/vE1h
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん
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『青海チベット人人口』の数字はどう改竄されたか】
『青海チベット人人口』の1950年のチベット人人口と増加率を基に、1953年の全省のチベット人人口を46万7574人と推定したことは冒頭に書いた。また1953年と1964年の各州市でのチベット人分布データを基にして、青海各州のチベット人人口を推測できる。この数字から、1953~1964年の各自治州の人口減少幅は驚愕すべきものだということが分かる。
まさにこれが原因となり、青海省国勢調査弁公室の「青海チベット人人口」は1953年の全省のチベット人人口を25万1959人とした。『果洛州志』も1953年の人口データを同じように減らした。この数字とほかの人口データは合致しようがなく、データ改竄を破綻させた。この改竄は計算上、1953~1964年の人口を激減ではなく、増加させた。「腰斬」された1953年の人口の秘密はここにあったのだ。
『果洛州志』編集者と青海省国勢調査弁公室は、わずかな部分をいじれば全体に影響が出るなどとは思いもよらなかったのだろう。すきもなく変えたいのなら、あらゆる統計データに相応の修正を施さなければならず、人口を「腰斬」するような簡単なものではない。思うままに手を加えれば必ず破綻だらけになる。
『玉樹州志』は1958~1962年の戦争で「殲滅」された「反逆者」の人数を計7万6725人と書いている。これは1959年のチベット人人口15万3270人の50.06%に相当する。もし『青海チベット人人口』のあの「腰斬」後の人口に基づいて計算するなら、1953年の玉樹州の人口は7万7628人で、4年のうちに7万6725人を「殲滅」された後、なんと3年後の1964年にまだ10万人近くいることになる!
『果洛州志』には、1958年の「反逆者」のデータがある。「1958年8月……果洛州で反乱を扇動したり、参加するよう脅迫した戸数は1万673戸、人数は4万4523人に達した」(423ページ)。『果洛州志』に載っている1958年の人口データは「非農業人口」を除いて4万8219人としている。女性やお年寄り、子どもを含むほぼ全員が「反乱」したとも言える。これは常識的に考えておかしい。
この「反乱に参加した」人数は次のことを間接的に証明している。同書に記載された1953年の5万4662人というチベット人人口は、既に大幅に小さくされた結果だということだ。そして、『青海チベット人人口』の中で、全省のチベット人人口25万1959人に基づいて推定した果洛州のチベット人人口3万3259人は、人為的に捏造されたものだということだ。政治処理(懲罰と後の名誉回復、賠償)にもかかわるのだから、1958年に「反乱に参加した」総数の統計は信頼できる数字でなければならない。この数字を基にすれば、1953年の果洛州のチベット人総数について最も真実に近いのは、『中国人口青海分冊』の10万前後という数字だというのが常識にかなう結論だ。
『青海人口』の最終ページで、馮浩華は注釈の文章を書いている。
「本書の第2校の作業中、【1949~1955年の果洛州総人口調整に関する青海省公安庁と青海省統計局の決定】を突然知った。省政府は既に同意、批准している。果洛州の人口データを調整したため、過去に発表されていた1949~1955年の全省総人口と1950~1953年の全省のチベット人人口について相応の調整が加わっている。だから、公安庁と省統計局が修正した人口データに基づき、本書が元々使っていた過去の人口データは【調整された最新データで修正した】。特にここで説明しておく」(『青海人口』350ページ)
【人口性別比の謎】
馮浩華の『青海人口』は玉樹、果洛両州の3回の人口統計の男女比データを示している(31ページ)。
果洛:1953年=100.60:100 1964年=【88.89:100】 1982年=99.35:100
玉樹:1953年=100.95:100 1964年=【80.21:100】 1982年=92.51:100
1962年2月2日の新華社の内部参考読み物に、「青海遊牧地区の女性の要求」というタイトルの文章がある。【「果洛州と玉樹州の多くの場所では、若者や壮年の男女比が1対7以上で、1対10以上の場所もある」】
二つの州で遊牧民の青年や壮年男性はどこに行ったのか?「反乱鎮圧」に関する資料と統計データから分かるのは、「共産党反対」や「国による統一買い付けと統一販売」「合作化」反対という理由によって、彼らが1958~1961年、人民解放軍の歩兵や騎兵、砲兵、空軍による現代的な作戦で「殲滅」されたということだ。死傷や行方不明のほか、少なくとも3万人以上が刑罰と「集団訓練」を受けさせられ、期間中に相当数の死者を出した。ある集落では、解放軍が若者や壮年をすべて捕まえ、多くの人が行方不明になった。ごくわずかの期間で果洛州と玉樹州の男女比は1対7、1対10以上にまでなった。この数字の背後にあるのは、集落にはもう青年や壮年男性がいなくなり、絶滅に瀕していたという事実だ。現地のチベット人が経験した生命の損失は、この世のものとは思えないほど悲惨だと言っても過言ではない。
今では半世紀が過ぎ、目の前に無味乾燥な数字が残されているだけだ。これらの数字のすべての「1」は1人の生命だ。この一つ一つの「1」が数千数万になり、青海高原の草むらの下、静かに消えたのだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)