チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2011年4月15日

青海草原に消えた亡霊・その1

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2009040714582631158アムド、ンガバでは今、キルティ僧院が危険に晒されている。12日には僧侶たちを守ろうと、門前に地元のチベット人たち数百人が集まり座り込んだ。これを排除しようと武装警官隊は彼らに殴り掛かり、また警察犬をけしかけたという。13日付けRFA中文版http://p.tl/yaxAによれば「2人の老人が警察犬に噛まれ死亡した」とある。

この地域に限ったことではないが、特にこのンガバの辺りは50年代終わりに中国軍が侵攻して来た後、凄惨な虐殺に遭っている。過去の人口統計を基にこの虐殺を間接的に証明する論考が中国語で最近発表された。

今日は「青海草原に消えた亡霊」と題されたこの論考の前半部分の日本語訳を掲載すると共に、この地域で最近チベット人僧侶により行われたインタビューの一部を紹介する。

「青海草原に消えた亡霊」原文:http://p.tl/vE1h
前半翻訳:@uralungtaさん

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 私はかつて、アキャ・リンポチェからこんな話をうかがったことがある。文革後、青海省(アムド)のチベット人老幹部タシ・ワンチュクは再三再、鄧小平に対し1958年のアムドの「反乱鎮圧」の冤罪者の名誉回復を求めた。タシ・ワンチュクの強い求めにより、青海省政府は各州県の関係資料を調査することになり、ごく秘密裏に、当時の「反乱鎮圧」について再審査を行った。そこで資料から露見した事実は、その場にいた担当者を驚愕で凍りつかせる内容だった――1958
年の鎮圧は、少数民族への累々たる“血の債務(人民殺害の大罪)”だったのだ。資料は再び厳重に封印し直すことが命じられた。「太陽が西から昇ることでもない限り、(あの資料が)一般民衆の目に触れることはないだろう」


 前世紀の50年代末、青海省のチベット人は結局のところどのような事態に遭遇したのか。信頼に足る資料は非常に見つけにくく、蜘蛛の糸、虫の足跡を辿るようなわずかな手掛かりから真相を見つけ出さねばならない。

 通常の状態であれば、人口統計は社会の最も安定したデータの一つといえる。なぜなら、人口変動は集団行動の結果であり、1人2人が変えようと思っても変えられるものではないためだ。そのうえ、人口統計データは大多数がいわゆる「政府によるデータ」であり、(国勢調査など)全面調査、抽出調査、もしくは税収など推測データを伴うものであっても、つまるところは通常すべて政府の公的資料に依拠している。中国当局は、1953年と1964年に2度の国勢調査を実施している。1950年代のチベット地域の歴史を研究するなかで、青海省の玉樹チベット族自治州(玉樹は州都ジェクンドの中国名)と果洛チベット族自治州(果洛はチベット語「ゴロク」の音訳表記。アムドの一地域名)のチベット人人口の数字に、私は関心を惹きつけられた。

 公に出版された何種類かの人口統計資料を探し出し、比較検討のためそのうち3冊を選んだ。一つは、1987年に青海省計画生育(一人っ子政策)宣伝センターが出版した“関係者向け書籍”の『青海人口』(著者・馮浩華)。二つ目は、1989年に中国財政経済出版社が出版した『中国人口青海分冊』(馮浩華は編集委員の一人に含まれている)。三つ目は、中国統計出版社が1994年に出版し『青海チベット人人口(青海藏族人口)』(青海省国勢調査弁公室編)。

 一般的にいえば、この種の資料は、後から出版されるものほど校正を重ねてより正確になる。なぜなら、誤差や計算ミス、誤植はつきものであり、出版物は常に以前のミスを訂正するからだ。また、政府の専門機関である弁公室が発表したデータこそ、根拠とするに比較的権威のある数字でなければならない。こう考えると、青海省国勢調査事務所が出版した『青海チベット人人口(青海藏族人口)』こそ最も信頼できるデータになるべきといえよう。しかし、この3冊の専門書のい
くつかのデータを比較すると、決してそうともいえない事実が発覚するのだ。

【1953年人口データの謎】

 人口データの誤りを検証する方法の一つは、各種類の人口データの間に相関性があるかどうかを見ることだ。例えば、総人口と人口増加率は、相互につながるものでなければならない。コンピューターソフトによる統計がまだ一般的でなかった時代には、一つの数字をごまかそうとすると、必ず統計データ上で一致しない改竄の痕跡を残してしまう。

 1953年は私の考察の起点である。その年、青海省にはつまるところどれだけのチベット人がいたのか。青海省国勢調査弁公室は我々に言う――「建国後、1950年から今に至るまで、歴年の人口統計データはすべて正確に揃っている」「1950年、全省の人口は151万8305人、このうちチベット人人口は43万5335人で、全省総人口の28.62%を占めた。1957年には51万3415人に増え、年平均の増加率は2.41%で
あった」(『青海チベット人人口』17ページ)。このデータからは、1953年のチベット人人口が(増加率から逆算して)だいたい46万7574人前後であったことが容易に推測される。

 しかし、この本の第2章ではもう一つ、1953年のチベット人人口の数字が明らかにされている。「1953年の第1回国勢調査で、青海省のチベット人の人口は25万1959人であり、全国のチベット人人口の9%を占めた」(『青海チベット人人口』22ページ)。このデータは、上述で導き出した数よりも21万5615人少なく、ほぼ半分だ。これが正常な統計データの誤差と解釈するには無理があることは明らかだ。

続く。

——————————————–

以下に紹介するインタビューは2009年9月に僧リンチェン・サンポにより行われ、亡命側に持ち出されたものだ。
この証言インタビューについては以下の過去ブログを参照:http://p.tl/Mgm9

日本語に起こした部分はこの中、女性のセルサ・ノルブさんの証言である。彼女の話はyoutube上では以下に貼った一つ前の8:04辺りから始まっている。

http://www.youtube.com/watch?v=YK-66Nigg5M&feature=related

5/9 8:04より

セルサ・ノルボさんの証言

R.S.(リンチェン・サンポ):ノルボさん、ご両親がまだ存命中であった1958年以前の生活はいかがでしたか?
また、中国共産党がやって来た後、どのような困難や苦しみを味わいましたか?

ノルボ:私はその時10歳でした。両親もまだ生きていました。
生活に困った事は一度もありませんでした。とても幸せな生活を送っていました。
ですが、中国共産党がやって来て、父は監獄に送られました。
その後、父は二度と帰って来ませんでした。中国の監獄で死んだのです。
母と祖父・祖母は餓死しました。共産党は叔父を殺しました。
そして私は10歳で孤児になったのです。

11歳の頃、私は辛い思いをしました。その結果、今私は足が立たず障害者です。
父は監獄で死に、叔父の多くも逮捕されその後死にました。
両親が死に、私は孤児となり、彷徨い続けました。
残された、私たち6人の兄弟姉妹の面倒を見てくれる人は居ませんでした。
ヤルペとプンツォは6歳か7歳でした。叔父の子どもたちは5歳か6歳でした。
2人が10歳ほどでした。
家も無くなり、私たちはあちこち彷徨いました。
苦しみ多く、生きるためにもがいていました。

ダライ・ラマ法王にお会いしたいと強く思っています。

R.S.:ダライ・ラマ法王がまだチベットにいらっしゃっていた頃、あなたたちは自由に暮らしていたというのは本当でしょうか?

ノルボ:本当ですとも。両親も生きていて、その頃は自由がありました。
食料もあり、着る服もありました。これらを取り上げる者はいませんでした。
1958年、私が10歳の時、中国共産党が突然私たちの土地に現れたのです。

6/9(上に貼った映像部分) 始めから。

父はその頃、トンキャップ・ゴンマ僧院でドルマのお経を上げていました。
村に中国軍が入って来た時、父は他のチベット人と共に抵抗しました。
その後逮捕され、殺されました。
母も父が抵抗したという事で罰せられました。
母は生きるために藁や灌木を食べていました。でも結局死んでしまいました。

R.S.:その頃、ディチュ川とマチュ川が死体で一杯になり、塞き止められたと聞きましたが、本当でしょうか?

ノルボ:本当です。マチュはその時、塞き止められた。
3つの大きな穴が掘られた。夫々の穴に数百体の遺体が埋められました。

R.S.:アキョン・ゴンマだけでそんなに多くの人が殺されたのならチベット全体ではどれほどになるでしょうか?
さらに、息子は死んだ父親の遺体の上、父親は死んだ息子の上で踊る事を強要されたと聞きましたが本当でしょうか?

ノルボ:本当です。もう亡くなってしまいましたがセルウという1人の女性を知っている。
オマニペメフン。彼女は地獄に生まれ変わったと人々は言っています。
彼女が父親の遺体の上で踊る事を強要されたからだそうです。
彼らはそれを強要されただけなのに。
そう、全ては強要されただけなのです。そうするしかなかったのだ。
みんなは彼女は生まれ変わって、今地獄にいるという。
彼女はラン・ゴンマの人だ。

中国共産党は私の父と叔父を逮捕し、殺した。
私はその時10歳だった。母も餓死してしまった。

R.S.:ディチュ川とマチュ川は世界でも有名な川だ。
下流の多くの人たちが農作物を作るのに利用している。
もしも、あなたが言うように、それらの川が塞き止められる程の人が殺されたとするならば、きっと生き残ったのは1/4ほどだけじゃないかと思うが。

ノルボ:そうだよ。人の死体で川が塞き止められた。3つの大きな穴掘られ、夫々に数百体の遺体が投げ込まれたのです。
沢山の人が餓死した。食べるものがなかったのです。
人々は生きるためにもみ、藁や灌木を食べていた。でも結局死んでしまいました。

私の究極の願いはダライ・ラマ法王にお会いすることですが、年老いた私は遠くまで行くことができないのです。
朝起きる時も、夜床に入る時も私はいつもダライ・ラマ法王のことを祈っています。
中国共産党に殺された両親のためにもダライ・ラマ法王に何か供養したいと思うが、貧しい私には供養する何もないのです。
これが、私の心の苦しみです。

R.S.:今回私の会った人はまだ少ないが、あなたも話すべき沢山の困難を覚えておられる。
私は臆病者で遠くまで旅することはできないが、もしもチベット中を廻るならどれほどの困難を知らされるかと思う。

ノルボ:もちろんみんなたいへんだった。僅かの料理人と店を持っている者以外はみんな餓死寸前までいった。

R.S.:他に何か言う事はあるか?

ノルボ:デモの母親も殴り殺されたのです。
彼女はあまりにひどく殴られ内蔵まで出てしまったという。
母も藁や灌木を食べるしかなくて死んでしまった。

R.S.:他には?

ノルボ:他にはもう言う事はない。私の望みはダライ・ラマ法王が祖国チベットに戻られることです。
そうなれば、私も法王にお会いする事ができる。遠くまでは行くことができないから。

R.S.:あなたは世界中の人たちが私たちの問題を支持し、助けてくれる事を願いますか?

ノルボ:もちろんです。

R.S.:では、長生きして下さい。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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