チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2011年4月11日

ウーセル・ブログ「ガンデン・ゴンパを廃墟のままに」その2

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Ⅴ-02-2昨日の続き、今回で完結。

原文:http://p.tl/VOUz
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん

————————————————-

写真は王力雄の提供、1991年10月7日に撮影されたラサのガンデン・ゴンパ。

謹んでこの文章を1959年3月10日の52周年記念とする。

◎ガンデン・ゴンパを廃墟のままに
文/ウーセル

3.
 しかし、「かつてツォンカパ大師のミイラを秘蔵していた喜びの地は、未曾有の文化大革命で瞬く間に破壊され、略奪された」。これは十数年前、私が書いた文章の一節だ。

 「山のふもとの村人たちは大喜びして梁を壊し、瓦をはがし、新居を建てるため担いで家に帰った。内地やラサから来た造反派にそんな度胸はなかった。彼らには仏像を破壊し、経典を燃やす使命があった。ゲルク派の開祖ツォンカパのミイラを祀った宝塔も鋤や鍬で破壊された。結跏趺坐の姿で髪の毛を脚まで伸ばし、微笑を浮かべたミイラはまるで生きているようで、民衆は驚きのあまり後ずさりした。しかし、ミイラの顔色はすぐに変わり、法座から転げ落ちた。ある高齢の僧侶は危険を恐れず突進し、僧衣で包んだが、棒でめった打ちにされて殺されそうになった。ミイラも燃やされて頭蓋骨しか残らなかった。今では修復された塔の中に供えられている。30年以上過ぎ、ガンデン・ゴンパの膨大な廃墟は依然として人々を驚かせる。一方、火事場泥棒を働いたふもとの村は重い報いを受け、素晴らしい風水に恵まれながらも貧しさと病の悪運から抜け出せなかった。当然のことだ」(ウーセル「西蔵筆記」より)


 人から聞いた話とはいえ、ガンデン・ゴンパが廃墟になった過程は書いた通りで、基本的に事実だと思っていた。しかし、破壊を始めた人間について、私は少し見落としていて、現地の住民だと誤解していた。後にチベットでの文化大革命の状況を調べるため、父の撮影した寺院破壊、僧侶弾圧の写真を持ち、青春を革命で消耗し尽くした70人以上の年長者を取材した。逃れられない記憶を何度も聞くうちに、ようやく真相が分かった。当時、北京で「偉大な領袖、毛主席」に面会したダワというあだ名のチベット人紅衛兵がいた。彼はガンデン・ゴンパがどう破壊されたのかを知っていた。

 「破壊前のガンデン・ゴンパは食料倉庫で、当時ラサの各組織の食料はあそこに取りに行く必要があって、部隊が警備していた。国の買い付け部門が金銀財宝を持っていった後、部隊は仏像を壊した。兵士は仏像の腕を縄で縛って引き倒し、金や銀、銅、鉄などを車に載せてすべて持ち去った。最後に残ったのは何だ?残ったのは木材といったもので、タクツェやルンドゥプ、メルド・グンカル、トゥールン・デチェンなどいくつかの県から来た人間が持ち帰った。ふもとの村人も残り物を担いでいった。でも、最後にガンデン破壊の濡れ衣を着せられたのはふもとの農民たちだった」

 「ある時会った運転手はガンデン・ゴンパのふもとのカントゥという村の人間だった。彼は当時まだ小さくて、村の子どもとゴンパに遊びに行った。いろんな道具が一面に散らばっていて、たくさんの兵士が石でたたいて遊んでいるのを見た。でも彼らが持っていくのは許してもらえなかった。地元住民がガンデン・ゴンパを壊したって話になるとは思ってもみなかったと彼は話していた」(ウーセル「西蔵記憶」より)

 より多くの秘密はより多くの努力と縁があってようやく知ることができる。もちろん、記録文献などの多くの証拠を見つけ出せれば、どれだけの事を言えるだろう?私は幸いにもこうした証拠を見つけ出した。

 「今では、壮大なガンデン・ゴンパは文革が始まってすぐ破壊され、狂気じみた紅衛兵と近くの農民が主犯だと多くの人が考えている。しかし、1985年の内部資料により事実は違うと分かった。これは『三支両軍』(文革中に解放軍が実施した左派などへの支援、一部地域の軍事管制、学生への軍事訓練)期間中に軍が犯した過ちについて、チベット自治区とチベット軍区が共同で調査した資料で、次のような記述がある。

 『内外に知られる国家重点保護単位、ガンデン・ゴンパは意外にも自治区革命委員会の成立後に破壊され、文物は散逸し、政治的に回復しがたい損失をひき起こした。今までこの調査結果はなく、当時のラサ軍分区の左派支援リーダーにたどり着くと、それ以上調べられなかった。当時のタクツェ県武装部政治委員は革命委員会主任で、分区副司令員の李希然は市革命委員会財経組のトップだった』

 なぜ調べられなかったのか?軍隊は明らかにできないどんな事をしたのか?これもまた間違いなく確定できない事柄で、チベット人はただ、苦い薬を飲んでも苦さを説明できない聾(ろう)者になるしかなかった」(ウーセル「殺劫」より)

 人々を狂わせたあの時代、若い父母の守る自宅で、私は産衣にくるまれて片言を言っていた。そう遠くない東の山では、無数の銃の暗い影の下、荘厳で壮麗なゴンパが災いに遭い、数百年守られてきた貴重な経典が火に投げ込まれ、数十日間燃え続けた。炎は人々の顔を照らし、人間性を露わにした。ある者は悲しみのあまり死んでしまいたいと思い、ある者はこらえて黙り込んだが、明らかに貪欲な者もいた。業よ、業よ、すべての生命がそれぞれ受けるだろう報いをこうした時に与えるのか。滅多にないことに、すべてがともに存在し、瞬間の証人を務めていた。ただ、信仰者にすれば、最高の修行の時ではないだろうか?ここガンデン・ゴンパは「恵まれた革命の地であり、地獄の光景でもあった」(Svetlana Boym 「The Future of Nostalgia」より)

4.
 ほかにも、禁じられた文章と記録映像による物語がある。文革終了後、中国のチベット政策に変化が起こり、権力を握った鄧小平によって意味ありげな政治的シグナルが出された。ギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ法王)は1979年から代表団(中国側は「参観団」と呼んだ)をチベットに3回派遣し、アムドとカム、ウツァンの状況を視察させた。実際、この視察は人の世の喜びや悲しみ、永遠の別れに満ちた物語で、たとえば「雪の国からの亡命」(ジョン・F・アベドン)の関連する部分を読んだり、多くの記録映像の一場面を見たりするたびに心が痛み、悲しみで涙がこぼれる。このうちガンデン・ゴンパにかかわる記録は、1980年7月にラサに来た第3次参観団のもので、次のように書かれている。

 「ここにはかつて100以上の大建築がそびえていたが、今残っているのは崩れ、ひび割れた長い壁だ。ガンデン・ゴンパはまるで爆破されて廃墟になったかのようだ。テンジン・テトンは『壊されたとは聞いていたが、この情景はどんな言葉でも言い表せない……12年前ではなく、500年前に破壊に遭ったように見える』と話した」

 故郷に戻った亡命者の驚きは止まらなかった。明らかにこの膨大な廃墟は、彼らが見ることのなかった革命の嵐のすさまじさを示す証拠だった。この廃墟だけではない。チベット各地の無数の廃墟は失われた故郷、精神道場の物語を静かに語りかける。チベット人が洗脳され、労働改造され、裏切りと密告を奨励されたこと。恐怖の中の逃亡、解放軍の逮捕、公判と集団処刑、切られた舌、見分けようのなくなった顔、たまらずに慈悲を失った心……。帰郷した者が悲しんだだけではなく、ここで生まれ育った同胞も同じだった。

 テンジン・テトンはこう話した。「私たちは到着すると、まったく自分を抑えることができなかった。皆は先を争ってふもとに走り、泣き叫んだ。十数歳の子どもたちは私たちの上着をきつく握っていた。彼らも同じように泣き、深く傷ついていて、どうしても手を放そうとしなかった。そばにいた人は『そんなに泣かないで』と声をかけたが、自分まで続けて泣き始めた。山の上を指差して言った。『見てくれ、あれが私たちのガンデン・ゴンパだ、あいつらがどう壊したかを見てくれ!』」

 この時、ガンデン・ゴンパだけでなく、チベット全土でゴンパ修復の機運が高まっていた。私の取材にダワは言った。

 「手押し車があれば1日15元を稼げるが、1日2.5元のゴンパ修復の仕事を望む人がいた。無償で誠心誠意働く人も、全財産を寄付する人もいた。チベットのゴンパはこうして復興できた。基本的には信徒自身の寄付で修復された。国は申し訳なく感じてようやく少しのお金を出し、後になって大々的に宣伝し、最後にはまるで国に修復されたかのようになっていった」

 ガンデン・ゴンパがどう生まれ変わったのかを官製メディアの記者が紹介した記事をネットで見つけた。「戦乱、自然災害と『10年の文革』などの原因で、ガンデン・ゴンパは大変な破壊を受けた。……1978年以降、国は大規模な修復を始め、僧侶も資金を集めて修復を後押しした」(http://p.tl/AsZ1)。記事はまた、当局がどれだけの金額を割り振ったかという詳細な数字を挙げていた。

 読んでみると、破壊は拒否しようのない2要素によるものとなっており、いわゆる「国」はこの上なく気前の良い大恩人だ。しかし、「旧チベット」が問答無用で「解放」される前、全土にあった6000以上のゴンパは革命の進行によってわずか十数寺だけになった。今では大多数のゴンパが修復されているが、かつての規模には遥かに及ばない。指摘しておきたいのは、「国」が修復のために差し出したものは、チベット人自身が差し出したものとはまったく比べようがないということだ。破壊後に生まれ変わったすべてのゴンパには、チベット人の敬虔な汗と懺悔の涙が注がれている。この土地の衆生が六道輪廻とよこしまな権力に立ち向かった信念が刻まれているのだ。

 ただ、少しだけ異議がある。ほかのゴンパは修復すべきだが、ガンデン・ゴンパは修復しなくていいと思う。廃墟と化したガンデン・ゴンパこそは生々しい文革記念館なのだから。災難を蒙った多くのゴンパと同じように文革スローガンや毛沢東語録、塑像などの遺跡がある。振り返るに忍びなく、僧俗が取り除き、塗り潰すのは理解できるが、やはり保存しておくべきだ。

 信徒か観光客か、武器を持った特殊要員かにかかわらず、訪れる人々が目にするのを見てみたい。崩れ落ちた壁は延々と山の上に続き、生い茂っていた林はまばらになり、雑草も育たず、鳥の鳴き声はここで何が起きたかを伝えるかのようだ。ユダヤ人を強制収容所に送り込んだドイツの鉄道駅に今は列車もなく、プラットフォーム上に輸送人数と輸送日時の数字だけがあるように、明らかに「これは最も突出した記念だ。記念碑を建てるのではなく、機能のない空間を残して修復や再建を超越する。ここでは、歴史は博物館に入れられるのではなく、風雨に打たれるがままにされる」(Svetlana Boym「The Future of Nostalgia」より)。

 そう、風雨に打たれて、崩れた壁も瓦解して消えたとしても、廃墟こそどんな修復でも取って代われないものなのだ。もし憂慮があるとすれば、廃墟の緩やかな消失をすべてが消え去った証拠と見なし、再建だけをゴンパが永遠に存在する証だと考えることだ。これはまさに一種の執着だ。仏法の観点から言えば、廃墟は死と同じで、まさしく人の世の無常を一番はっきりと諭してくれるものだ。美学の観点から言えば、見渡す限りの廃墟は装飾をきわめた斬新な建物よりもずっとずっと美しい。あるいは、修復が必要だとしても、中心の仏殿とツォンカパのミイラを祀っていた霊塔だけでいいし、周囲の廃墟を元に戻す必要はない。ふんだんな財宝で一部分だけを修復し、過去かそれ以上の無比の輝きをつくり出す。輝きと破壊された廃墟が入り乱れて共存し、チベットの歴史になかった驚愕の記念館になるだろう。

 チベットにはそんな記念館が必要だ。

5.
 初めてガンデン・ゴンパに行ったのは1994年夏で、記憶はもう薄れている。ペンクラブの文人と団らんの場所を変えるためだけに行ったはずだ。ふもとで遊んでいるうちに車に乗り損ねてしまい、至る所に生えている見知らぬ植物の間を徒歩で上るしかなかった。

 まだ修復されていない廃墟はまったく私を驚かせず、楽しい集まりの背景にまでなった。アルバムを開いて当時の写真を探すのは、忘れっぽい自分に当時を思い出させるためだ。写真はほかの人のカメラで撮っていて、友人たちと一緒に写した4枚だけが残っている。廃墟と再建された殿宇を背景に、ゴンパとは無関係に笑顔はとてもまぶしい。廃墟は見えていても、どうして廃墟になったのかは見えていなかったのかもしれない。

 改めて写真を見直すと、私たちの背後のずっと遠くに巡礼者がいる。もちろん私と同じ民族だ。彼らに言わせれば、ガンデン・ゴンパは今回の巡礼の目的地であり、行楽の背景にするありきたりの場所ではない。だから彼らはカタとバターを持ち、子どもとお年寄りを連れ、頭を低く下げ、半ば欠け半ば新しくなったお堂の間を歩いていた。とても重い包みを背負って山の上を目指す人もいる。修復のために駆けつけたばかりなのだろうか?

 あの時、私と彼らはどれだけ違っていたことか。私は28歳になったばかりだった。深い傷を負ったガンデン・ゴンパを初めて訪れながら、その傷にまったく心を動かされず、にぎやかに笑い、小躍りしていた。あの時、私はどれだけ無知で良心が欠けていたことか。

 後に何回か行き、少しずつ変化が起きた。ある時、母と叔母に付き添い、父のために灯明をともしに出かけた。父を失った悲しみと痛みは欠落したゴンパで慰められた。私はこの時、初めて廃墟が見えたような気がした。私の欠落とゴンパの欠落が奇妙に重なり合い、悲しみを抱く私はゴンパの悲しみを見ることができるようになったようだ。

 壊れた壁の下に座り、黙って涙を流した。壁にもたれて休憩しようと思ったが、崩れるのではないかと少し心配になった。それでも涙が止まらなくなると、ゆっくりと無意識のうちに壁にもたれかかった。父を亡くした孤独感はこうすることで和らげられた。廃墟の中で、たくさんの孤独な人影が互いに慰め合っているかのようだった。

 またある時、ラサを離れようとしている友人と車に乗り、巡礼路を1周するために出かけた。新しい霊塔の前でこんな話をした。「今、何が中に祀ってあるのか、誰か知ってるのかな?ツォンカパ大師のミイラはもう焼かれたんだから」「空っぽこそ仏法の本質かもね」。街に戻ると、人を不安にさせる出来事がガンデン・ゴンパでちょうど起きたと聞いた。後に私は「チベットの秘密」と題する長い詩にその出来事を書いた(詩集「雪域的白」に収録)。

 知人のロタンには、人もうらやむ仕事と前途があったが、徹夜で飲んだ騒いだ後、車で一人ガンデン・ゴンパに向かった。山頂でルンタをまいた時、あの致命的なスローガンを叫び、ゴンパ駐在の警察にすぐ逮捕された。党書記は「酒を飲んで本音を口にした」とコメントした。1年後、拘束歴のある無職の遊民がラサの街頭にまた増えた。

 この出来事はいわゆる「3・14」前に起きた。いわゆる「致命的なスローガン」は「プー・ランツェン」(チベット独立)だ。この数行の詩句を読み返し、考えずにはいられなかった。もしまたガンデン・ゴンパに行ったら、廃墟の痕跡がどれだけあるか分からなくなったお堂の間から、チベット暦土鼠年の3月と4月のある日に起きた一幕は見えるのだろうか?「鼠年雪獅吼」(ウーセル著)という文字による記念館の中に、ガンデンに関する記録がある。

 「3月12日午後、タクツェ県のガンデン・ゴンパの僧侶がゴンパ内で抗議活動を行い、大量の軍と警察に包囲された」

 「3月13日、ガンデン・ゴンパは当局に閉鎖された。ラサの有名な三大ゴンパなどは当局に閉鎖され、すべての僧侶は外出できず、デプン、セラ、ガンデンの各ゴンパに通じる道は封鎖され、車両通行が禁じられた」

 「4月10日、共産党統戦部副部長の朱維群はガンデン・ゴンパに行き、『駐在する工作グループ人員と一線勤務の武装警察を慰問した』と報じられた」

 「4月17日、木曜日の午後、大量の軍と警察がガンデン・ゴンパで多くの僧侶を逮捕した。僧侶はトゥールン・デチェン県のレンガ工場付近に監禁されたとい
う」

…………

(この文章は2011年初頭に執筆。まもなく出版される「チベット、この数年」から引用した)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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