チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年3月23日
ウーセルさんブログ「炎の中で自らを犠牲にしたプンツォ:2つの証言、いくつかの思い出」
16日に焼身自殺した僧プンツォについて、ウーセルさんが20日のブログに2つの証言とともに記事を書かれている。
それを雲南太郎(@yuntaitai)さんが翻訳して下さった。
原文:http://woeser.middle-way.net/2011/03/blog-post_20.html
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◎炎の中で自らを犠牲にしたプンツォ:2つの証言、いくつかの思い出……
1枚目の写真……亡命チベット人がロウソクをともし、ンガバの街頭で焼身自殺した僧侶プンツォを追悼する。
2枚目の写真……昨年3月16日、アバ県県庁所在地を走る軍車両に立つ兵士。車両には、「アバ県人民に敬意を表する」と書かれた横断幕が掲げられている。「敬意」とは、チベット人に狙いをつけた銃で示すものだったのか。(写真は初出)
日時:2011年3月16日
場所:アムド ンガバ(現在の四川省アバ州アバ県)
事件:キルティ・ゴンパの僧侶プンツォは3月16日午後、軍と警察に厳しく監視されたゴンパを一人離れ、人通りの多い街頭に行き、突然一塊の炎になった。炎の中から「ギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ法王)の帰還を!」「チベットには自由が必要だ!」「ダライ・ラマ万歳!」という声が聞こえてきた。人々は驚いて見つめた。炎の中の僧侶は倒れ、もがきながら立ち上がり、また倒れ込んだ。武装した特殊警察、武装警察、警察、私服警官がすぐに僧侶を取り囲み、棍棒で打ちつけた。これは火を消しているのか、それとも殴っているのか?
3月17日午前3時過ぎ、プンツォは悲壮な死を遂げた。
彼は1991年生まれでまだ20歳、父母はアバ県麦爾瑪郷の村人だということが分かっている。(注1)
1.最初の証言者:キルティ・ゴンパの僧侶ロブサン・チュゼ(2010年末に、ヒマラヤを越え、インドのダラムサラに逃げ延びた。(注2)
私とプンツォは同じゴンパの同じ班にいて、同じ師についていた。プンツォは師のロブサン・ヤペーをとても尊敬していた。五部大論に精通した有名な師だったからだ。プンツォは師に会うたび、肩に掛けた袈裟を垂らし、恭しく地にひざまずいていた。
プンツォは普段から体を鍛えていた。バスケが好きで、筋肉が発達していて、とてもたくましかった。いつも朗らかで、人を笑わせていた。性格は良く、礼儀正しく、知らない人にも微笑みかけていた。
彼は2008年の抵抗運動に大きな影響を受けていた。当時、彼も街頭で抗議に参加し、たくさんの人が殺されるのを目の当たりにした。犠牲者の遺体はキルティ・ゴンパの大経堂前に運ばれ、僧侶によってお経があげられた。プンツォは法事の時、血まみれの犠牲者を見て、泣き叫んでいた。
2008年に殴られ、逮捕され、殺され、障害者にされ、多くのチベット人は当局に強い反感を持つようになった。
ンガバでは2008年3月16日の抗議で多くの人が亡くなった。だから3年後、多くの人はゴンパと自宅でバターランプをともし、犠牲者のために祈った。プンツォのやり方は焼身自殺だった。
焼身自殺した時、プンツォは軍と警察に囲まれ、ひどく殴られた。僧侶と市民は危険を顧みずプンツォを引き離し、ゴンパに連れて帰った。彼のけがはひどく、県病院に連れて行ったが、病院は受け入れなかった。当局の指示があり、受け入れられなかった。だからプンツォを警察に引き渡すしかなかった。
焼身自殺の後、僧侶と市民は怒って抗議に飛び出し、一部はその場で逮捕された。多くの僧侶と俗人はキルティ・ゴンパの大経堂前に静かに座り、捕まった僧侶を釈放するよう求めた。夜の11時半までずっと座り続けた。
17日午前3時過ぎ、プンツォは亡くなった。当局は彼を24歳と言ったり16歳と言ったりしたが、実際は20歳だ。
プンツォの両親は遊牧民だ。兄弟姉妹が何人いるのかは分からないが、3人の兄弟がいて、彼を入れた4人はみな出家してキルティ・ゴンパの僧になっていた。
2. 2人目の証言者:キルティ・ゴンパの僧侶(名前は伏せる)。26歳。本土にいる。
プンツォはプンツォという名前だが、キルティ・ゴンパの僧侶の法名には「ロブサン」がつくので、彼はロブサン・プンツォという。私もロブサン・●●という名前です。
キルティ・ゴンパは3000人以上の僧侶がいる。私とプンツォは同じタツァン(学堂)にいるわけではないが、一晩語り明かしたことがある。2009年のタベーの焼身自殺の後のことだ。プンツォは若いのに民族の問題に強い関心を持っていた。当局に閉鎖されたチベット語学校の話になると、彼はとても憤慨した。パンチェン・ラマ11世が5歳で失踪した話になると、彼は苦痛のあまり涙を流した。ギャワ・リンポチ
ェがチベット人のために世界を回っている話になると、また涙をこらえられなくなった。彼はあなた、ウーセルを知っていた。
2009年に撮られた彼の写真を見たことがある。雪山獅子旗を身にまとい、夏の草原であぐらをかいていた。私は警察に見つかったら大変だと言ったが、彼は怖くなんてないと笑った。
2008年が私たちを目覚めさせ、変えた。そう、プンツォも街で抗議に加わっていた。抗議の中、チベット人は撃ち殺され、むごたらしく死んだ。鮮血を流した遺体を私は自分の手でゴンパに運び、お経をあげた。
プンツォの焼身自殺は誰も事前には知らなかった。遺書も遺言もなかった。ゴンパわきの軍キャンプと派出所、銃を持った武装警察の見張り所の前をいつものように歩き、2009年にタベーが焼身自殺を図った街頭を通り、200メートルほど進んだ。突然1瓶のガソリンを飲み、更に体にかけた。そしてガソリンのしみ込んだ自分自身に火をつけ、燃え上がった。
「ギャワ・リンポチェの帰還を!」「チベットには自由が必要だ!」「ダライ・ラマ万歳!」と大声で叫び、地面に2回倒れ込んだ。しかし、すぐにたくさんの軍と警察に囲まれ、ひどく殴られた。
街頭のチベット人たちはショックを受けた。軍と警察の暴行を見て、僧侶と俗人は危険を顧みずにプンツォを連れ去り、ゴンパ隣の病院に駆け込んだ。しかし、病院は既に閉まっていた。人々はまたプンツォを抱えて僧坊に走った。彼の両親もいて、驚きのあまり大声を上げて泣いた。人々はまたプンツォを抱えて病院に走ったが、病院は受け入れず、医者は受け入れられないと言った。僧俗は公安と幹部にプンツォを引き渡し、助けてほしいと懇願した。5時ごろのことだ。
ずいぶん遅くなって、病院はようやく許可を得て、プンツォを助けることに同意した。しかし、もう命を救える可能性はなかった。午前3時、プンツォは死亡した。
病院は遺体を親族に返そうとせず、午後4時過ぎになってようやく引き渡した。役人が遺体をよく調べていたといい、18日午前8時までに葬儀を終えろ、遺体を残しておいてはいけないとゴンパに警告したという。
遺体はキルティ・ゴンパに送られ、白いカタでくるまれ、大経堂前に安置された。17日午後から18日早朝まで、ゴンパの3000人以上の僧侶がプンツォのためにお経をあげた。3千数百人の市民が列を作り、手にカタを持ち、お経を唱え、プンツォに敬意を表した。とてもつらい情景で、泣かない者はいなかった。最も屈強な男でさえ涙を流していた。私たちの伝統では、泣き声と涙は死者の来世に影響するので、中陰の道を歩く死者を見送る時、ひどく悲しむべきではない。しかし
誰もが悲憤を抑えられず、気を失う者もいた。
ゴンパから3キロ離れた場所に鳥葬台がある。しかし、プンツォはガソリンで焼身自殺し、ひどく殴られていて、タカやワシが飛んでくるはずがなかったので、火葬することになった。遺体を載せた車が鳥葬台に向かう時、おびただしい人がカタを投げ、大声で祈り、同行して涙を流した。
プンツォの焼身自殺から火葬まで、現場を撮ったたくさんの写真があるが、送ることができない。当日のンガバはネット接続が断たれ、携帯も通じなかった。後になって携帯は通じるようになったが、ほかの写真は大丈夫なのに、プンツォにかかわる写真は送信できなかった。通話もプンツォの話題になるとアンテナが立たなくなった。
2009年2月27日、ンガバの街頭で焼身自殺を図ったタベーは実際はロブサン・タシという名前だ。タベーは母親がつけた愛称だ。母親はメオ?(梅廓)といい、45歳。タベーはツォボ?(策波)という27歳の兄、ツァラン?(才吉)という18歳の妹がいる。タベーは25歳だ。
焼身自殺を図ったタベーは銃撃されて負傷した。彼はまず成都の病院で治療を受け、現在はアバ州の州都マルカムの軍病院で母親と一緒にいる。外出できないだけでなく、おじ以外の親族や僧侶の見舞いは許されていない。
病院は当時、銃創を残さず、証拠を隠滅するため、撃たれたタベーの脚と右腕を切断しようとした。しかしタベーの母親が必死で拒否し、まだ切断できていない。
脚と右腕を撃たれたので、タベーには障害が残り、歩きにくく、右腕も上げられない。炎に焼かれたため、頬や右手など体の右側に傷跡が残っている。
警察に撃たれたタベーの写真を撮り、外部に渡したキルティ・ゴンパの僧侶ゴツァン・ジャミヤン・プンツォ(通称ジャンコ)は後に懲役6年の判決を受け、まだ獄中にいる。
注1:新華社の報道では、プンツォは当初24歳で、後になって16歳、てんかんを患っていたとされた。また、パトロール中の警察がすぐに火を消し、病院に運んだとも報じられた。「何かを企んだキルティ・ゴンパの僧侶グループがけが人の安否を気にせず、プンツォを無理に連れ去ってゴンパのタツァンに隠れた」ため、地元政府とプンツォの母チャンブルが再三交渉し、3月17日午前3時にようやくプンツォは母に引き渡された。政府とチャンブルはすぐプンツォをアバ県人民病院に運んだが、「ゴンパの僧侶がけが人を隠して治療を遅らせ、救命のための貴重な時間を奪ったため、治療の甲斐なく17日午前3時44分に死亡した」。
新華社は抗議者(プンツォ)を病人に、ゴンパの僧侶を凶悪犯に仕立て上げようとしている。2009年2月27日、ンガバの僧侶タベーが焼身自殺を図って銃撃され、多くの外国メディアに報道された後、新華社は「袈裟を着た男性」の焼身自殺が確かにあったと認めざるを得なかった。しかし、軍と警察が彼に発砲したことは否定し、彼を助け、成都の病院に送ったとした。医師も銃創を否定し、やけどだけがあると話したという。実際はタベーの脚と右腕が撃たれ、危うく切断され、証拠が消されるところだった。
新華社はまた、プンツォの父が「彼は自分で焼身自殺し、やけどがあるだけで、ほかの傷はまったくない」と話していると伝えた。タベーの焼身自殺について、新華社が「あるチベット僧の話によれば、銃撃という話は彼の捏造だ」と書いていたのとまったく同じだ。プンツォは焼身自殺で死んだのではなく、やけどのほか、軍と警察にひどく殴られたけががあった。彼はめった打ちにされて死んだ。殺されたのだ。
注2:この部分の口述はダラムサラにいる漢人作家の朱瑞が18日夜に聞き取り、Skypeで私に伝えた。プンツォをよく知る僧侶が数分後にここに来る、と朱瑞は言った。私は電話で質問しようとしたが、彼は何も言葉にできなかった。面と向かって話していればまだ良かったかもしれない……。
その他の写真はンガバから届いた。現地のチベット人が2010年3月16日のアバ県県庁所在地を撮影した。2008年3月16日には大規模な抗議デモが起こり、僧侶や学生、遊牧民30人以上が軍や警察に撃たれて死亡した。犠牲者の中には妊婦や5歳の子ども、16歳の女子生徒ルンドップ・ツォがいた。これにより3・16はンガバの重要な記念日になった。(写真は初出)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)