チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年3月17日
ンガバの僧侶が抗議の焼身自殺・その後大規模デモ
写真は2009年僧タベーの焼身自殺(ICTwebより)
このニュースを最初に伝えたのはVOTチベット語放送。私はこれを昨日の夕方聞き、すぐにツイッター上で報告するとともに、いつもチベットの事を気にかけて下さっている某通信社に連絡した。その人は北京に連絡し、数時間後には北京発の記事を出して下さった。
その記事は>http://p.tl/2fxl
昨日のVOTではチベット内地からの直接の電話情報とダラムサラのキルティ僧院の情報係僧ツェリンに内地から伝えられた情報が紹介されていた。
その2人の情報によれば、昨日北京時間午後4時頃、アムド、ンガバ(རྔ་པ་ 四川省ンガバ・チベット族チャン族自治州ンガバ県ンガバ)のキルティ僧院の近くにあるホテルの前で、キルティ僧院の僧侶ロプサン・プンツォ(21)が自分の身体に灯油をかけ火を付けた。
彼は炎に包まれながらも中国政府への抗議の言葉などを叫びながら走ったという。これを見た警戒中の警官隊は彼を囲み殴り倒して火を消した。目撃者の話によれば、その後も彼に対し警官隊は暴行を加えたという。他の情報には、火を消したのは回りにいて駆けつけた僧侶や町の人々だというものもある。警官は彼を運び去ろうとしたが、集まった僧侶や町の人々がそれを阻止し、彼は僧侶たちによりキルティ僧院内に運び込まれたという。
しかし、ひどい火傷を負ったプンツォはその後しばらくして息を引き取ったと最初の情報は伝える。中国当局は病院に運ぼうとしたところを僧侶が妨害し、僧院に運んだため、手当が遅れプンツォは死んでしまったと報道した。これに対し、僧侶は火傷と警官の暴行により死亡した。死体を僧院に運んだだけだ、という情報もある。
さらに、彼は今病院にいる、まだ死んではいないという情報もある。
警官隊は彼を奪おうと僧院に押し掛けたがそれを阻止するために大勢の僧侶と町の人々が門前に集まった。僧侶側は「もう彼は死んでしまったので、僧院が葬式を行う」と主張したという。
その後、集まった僧侶と市民約1000人が僧院から県庁舎に向かって抗議の行進を始めた。しかし、1キロも歩かないうちに大勢の武装警官隊に阻まれ、衝突が起こった。武装警官隊の暴行により大勢の人々が負傷し、また約30人の僧侶が拘束されたという。
夕方には僧院の前に1500人ほどの僧侶と市民300人が灯明を灯し、彼の供養と抵抗の印とし、さらに拘束された僧侶たちの解放を要求した。しかし、この集会も夜11時頃には武装警官隊により解散されられたという。
僧院管理員会の責任者と戒律師は拘束された僧侶たちを解放するようにと当局に掛け合ったが最初は拒否された。2度目の交渉により夜11時頃7名が解放された。
現在キルティ僧院は完全に武装警官隊に包囲されており、さらに町中に武装警官隊が配備され緊張状態にある。
未確認情報ではあるが、この事件を知ったアムド、レプゴン(レゴン、同仁)とラプラン(サンチュ、夏河)では昨日すでに連帯を示す抗議デモが行われたという。
彼が抗議の焼身自殺を行った16日は3年前にこのンガバで大きな中国政府に対する抗議デモが行われ、当局がデモ隊に向かい発砲することで少なくとも10人が死亡した(30人という情報もある)日であった。ンガバの町では3月10日以来当局による警戒が続き、この日も特に大勢の保安部隊が動員され厳しい警戒態勢の中にあった。この間に数人の僧侶がインターネットカフェから拘束されていたという情報もある。
写真は保安員に撃たれ倒れたタベー(RFAより)
ンガバのキルティ僧院の僧侶が焼身自殺を計ったのはこれで2度目である。
2009年2月27日にはタベーと呼ばれる僧侶が抗議の焼身自殺を行った。保安員は彼を撃ち倒し、連れ去った。現在まで彼の消息は明らかではないが、成都付近の病院に収容されているという情報がある。
昨日の事件について、参照:
RFA英語版:http://p.tl/-itt
チベット語版:http://p.tl/z7oR
phayul:http://p.tl/EUur
AFP:http://p.tl/D8Jg
Reuters>guardian:http://p.tl/fv5R
ICT:http://p.tl/I9U0
タベーについては
過去ブログ:http://p.tl/qJvT
http://p.tl/jOOA
http://p.tl/iFix
ウーセルさんの記事訳:
http://p.tl/9S_i
後記:TCHRD(チベット人権民主センター)は先ほど、同センターに寄せられた情報として、プンツォは今日午前3時に病院で死亡したと伝えた。彼の写真も入手している。http://p.tl/Qw3P
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)