チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年3月6日
ウーセル・ブログ:チベットの正月(ロサ)について
原文3月4日付け:http://woeser.middle-way.net/
写真も上記エントリーより
翻訳:雲南太郎さん
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チョカスン:チベット語。全チベットの総称で、伝統的な地理の略称でもあり、アムド、ウ・ツァン、カムの3地区を指す。
カンチェンパ:チベット語で「雪の国の子」。チベット人に対する呼び名。
◎チョカスンよ、カンチェンパよ、ロサ・タシデレ!
数日前、知り合って間もない友人らがロサを祝うため、成都からチベット東部の故郷に帰った。春節もロサも祝うのか、それとも片方を選んだのかと聞いてみた。庶民の間ではずっとロサを祝うが、職場では春節の雰囲気の方が濃厚だと彼らは言った。彼らの故郷は牧畜が主で、農業を兼ねている地域だ。アムドとカムの多くの場所とは違い、正月の問題で春節を選ばなければいけないというわけではない。
ネット上ではここ数年、チベット人がずっと正月のずれを議論している。ある意見によれば、「アムド、カムの正月のずれは歴史、地理、気候環境がつくり出したものだが、新年ムードは純粋にチベット化している」という。正月がずれていると分かっている以上、徐々に修正するべきだと私は思っていた。しかし、議論の深まりと幅広い理解に伴い、肝心な点はずれや修正にあるのではなく、こうした選択が無理に押し付けられたものか、自分で決めたものかという点にあると思うようになった。
清の川填(四川・雲南)辺務大臣兼駐蔵大臣だった趙爾豊は九十数年前、カムでチベット人の僧侶や市民を虐殺し、政治改革に力を入れた。チベット人の習俗を変えることを重視し、チベット人子弟に漢語を学ぶよう強制し、チベット人の家庭に漢族の姓を名乗らせたことを含め、「開通風気」「改革旧習」と呼んだ。今でもカムには漢族の姓を持つチベット人が少なくない。多くはこの時から伝わってきたものだ。鳥葬を土葬に改め、春節や中秋節を祝うことも始めた。アムドで
は、青海を40年支配した回族の軍閥、馬歩芳の一族も型通りに蔵回の通婚を強い、宗教信仰を変え、春節や祭りの演芸を普及させた。
当時は変化を強要したが、現在はずっと軟化していて、人の弱みを捕まえるのがうまいようだ。たとえばこの2年、チベット暦のロサと農暦の春節は偶然一致し、どちらかを選ぶ面倒が省かれ、どうであれまとめて祝うことができた。しかし今年は二つの正月が1カ月離れている。聞いた話では、カンゼ州は春節に7日、ロサに3日の休暇を与えるという。既に差別があるのは言わないにしても、ロサの休暇を春節に前倒しすることまでしている。こうすると春節に計10日の休みをもらえるが、前倒ししたのだから、ロサになったら休暇はなくなっている。
こうした処理は長期休暇を喜ぶ人に便宜を図ることができる。ダルツェンドの親戚は喜んで10日を使い、成都で楽しく遊んだ。ロサについては、仕事が忙しくて祝う気持ちはないので、大した影響はないようだ。意外なことに、都市や町のチベット人がロサに抱く気持ちはもう薄らいでいる。こうした処理は事実上、ロサを薄れさせる効果がある。それを意識しているか否かにかかわらず、ロサは春節の重要性に遥かに及ばず、衰えさせられるに違いない。
また一方では、ネット上で見かけるように、春節の習俗をチベット人の生活に移すのはまったく不適当ではないと若いチベット人は考えている。たとえば、赤地に金文字で書いた3枚セットのチベット語の対聯は漢語の対聯を真似たおかしな物だ。得体が知れず、形が似通っているというだけの簡単なものではない。すべての喪失はまず細部に現れると知るべきだ。一つ一つの細部が少しずつ失われ、最後にはすべてが消えてしまう。
私は狭隘な民族主義者ではないが、春節前夜、アムドとカムのチベット人が出した携帯メールが多かったことに注目した。チベットの歌や踊りだけでなく、僧侶の読経データの入ったメールまであった。もちろん「純粋にチベット化している」が、この時にはどうしても異様に思えた。王力雄は「なぜチベット人が漢人より春節に忠誠を尽くすんだ?」と笑っていた。
趙爾豊によって最も早く風俗習慣を変えられたカム地方のバタンとリタンではこの2年、チベット人の多くが農暦の春節をやめ、再びチベット暦のロサを祝うようになったという。豊かなチベット文化を持つアムドのチェンツァでは、今年になって春節をやめ、ロサを復活させた。まさかこれらの地区の民衆は正月の修正をまったく考えておらず、現地の農耕にマイナスの影響を与えるとでもいうのだろうか?もしかしたら、マイナスの影響は実際まったくないかもしれない。なぜなら、現地で生まれ育った民衆は土地の息吹を放つ知恵を持っており、自分の生きる土壌に適した決定を下せるのだから。
2011年3月1日 成都にて
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)