チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年3月1日
勇敢に外国メディアの前に躍り出て真実を訴えた僧侶、死亡
9-10-3の会(グチュスン・チベット良心の囚人の会)によれば、2008年3月にアムド、ラプラン・タシキル僧院བླ་བྲང་བཀྲིས་འཁྱིལ་で平和的抗議活動を行った僧サンゲ・ギャツォསངས་རྒྱས་རྒྱ་མཚོ་(41)が先週の土曜2月26日に自身の僧房で息を引き取った。
サンゲ・ギャツォは2008年4月9日、ラプラン僧院を訪れた外国メディアの前に突然飛び出し、隠されたチベットの現状を必死に訴えた僧侶グループの1人でもあった。
ビデオを見ても分るが、彼らは勇気を振り絞り、大きなチベット国旗を掲げ、涙ながらに「我々には人権が必要だ!チベット全土で弾圧が行われている」と訴えている。
2008年3月、ラプラン僧院では当局との激しい衝突が起こり、数十人が銃弾に倒れ殺されている。このときにも彼は先頭に立ちデモを先導したという。
外人メディアの前に現れたグループの内の3人は一年間の逃亡生活の後亡命を果たし、ダラムサラに来て、そのときの状況を詳しく報告している。
私もこの3人に会っている。関連エントリーは以下。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51198938.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51202082.html
当局の逮捕を怖れ、ギャツォを初め、このときのグループは山に隠れ逃亡生活を送るしかなかった。ギャツォも一年以上も山に隠れていたという。
山に隠れている間、食料不足と何時発見されるかも知れないという恐怖で不眠の日々を送ったという。
このときのアピールの様子がBBCでも報道されたことにより、当局は彼の逮捕に賞金を掛け、何ヶ月にも渡りニュース報道で彼の逮捕を促した。
山籠に耐え得ず、彼は病気になり、床に伏した。山を下りたが逮捕を怖れ国立の病院に入る事はできなかった。田舎の病院に入院したが、病状は良くならず、次にカンロのチベット伝統医学の病院に入院した。医者は肝臓に疾患があり黄疸がひどいと言ったという。さらにラプラン近くのカチュ人民病院に入院したが、ここで医者は「病気は治す事ができないものだ。家に引き取った方がよい」と言った。
「彼の年老いた両親と親戚は最後まで彼の面倒を見ていた。中国当局は彼が病院に入院している事を知らなかった訳ではない。先が長くないと分っていたので彼を逮捕しなかっただけだ」と9-10-3の会はコメントする。
サンゲ・ギャツォは1969年、ラプラン、タシキルの田舎の遊牧民の家庭に生まれ、16歳の時ラプラン僧院に入り僧侶となった。1991年、23歳の時学問を極めるため南インドのデブン僧院に留学した。しかし、しばらくして健康を害し再び元の僧院に帰らざるを得なかった。
「彼の死は、基本的な言論の自由を行使しただけで、弾圧を怖れ逃亡しなければならないという、悲惨なチベット人の現状を象徴的に現している」と9-10-3の会はその声明の中で述べている。
チベット語:http://tibet.net/tb/2011/02/28/རྒྱལ་གཅེས་དཔའ་བོ་གྲྭ་ས/
DAYSさんのエントリー(日本語):http://www.mobileplace.org/dias/blog/sangay-gyatso-of-labrang-dieshttp://www.mobileplace.org/dias/blog/sangay-gyatso-of-labrang-dies
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)