チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年2月11日
ウーセル・ブログより「ラサ市民は最も幸福」とCCTVは言う
翻訳:雲南太郎さん
原文:http://woeser.middle-way.net/2011/02/cctv.html
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写真は2010年のラサ――銃口の下の「幸福」。(ラサ人写す)
最初はある外国メディアの電話取材だった。ラサ市が「市民幸福感最強都市」に選ばれた、どう思うかと私に聞いてきた。新年早々、これほど皮肉に満ちた贈り物を突然受け取り、多くのラサ人がどんな反応を見せるか想像してみた。銃の下で日夜暮らし、ゴンパにお参りに行くにも狙撃手に狙いをつけられ、幸福を感じるとでも言うのか?私はあざ笑ってそう問い返した。
数日後、このでたらめと言っていいニュースが表に出た。「中央電視台財経チャンネル『CCTV経済生活大調査』の市民幸福感調査の結果が発表され、ラサ市は光栄にも『2010市民幸福感最強都市』の1位を獲得した」
ラサが「最も幸福」にされたのは初めてではない。ネットで少し検索すると、これは中国最大のメディア公衆調査であり、もう5年続いているとの報道があった。ラサも既に4回、彼らによって「最も幸福」にされていた。毎回、100以上の都市の1位だ。1回だけ1位にならなかったが、それでも3位だ。
では、その1回は2008年ではないのか?(*1) 誰もが知るように、08年3月に起きた全チベットの抗議はラサから始まった。もしラサに「幸福感」があるなら、どうして抗議するのだろう?仮に08年にラサ市民が「幸福感」最強ではないと感じたとしても、続く09年、10年にはラサ市民の「幸福感」は再び最強になったことになる。これはいささか不思議だ。
漢人には歴史の教訓を忘れることを批判する「傷跡が消えれば痛みを忘れる」という言葉がある。まさかラサ市民は08年の血の恐怖から、これほど早く幸福感を持って抜け出せたとでもいうのか?それに、08年に「幸福感」最強ではないと感じたとしても、その前の2年間、「幸福感」はずっと最強だったことになる。中国のあれほど多くの都市住民より幸せだというのなら、ラサ市民はなぜ街頭に飛び出したのだろう?
私は昨年、ラサに3カ月滞在した。見聞きしたラサは明らかに軍事でコントロールされた都市だった。ある日、チベット人が住む東のエリアで、たくさんの赤い旗をつけた宣伝車がゆっくり通り過ぎ、大型スピーカーから御用歌手ツェテン・ドルマの歌声が流れてきた。「チベット族人民よ
どんなにどんなに苦しくても終わりは来る 共産党が来て苦みは甘みに変わった 共産党が来て苦味は甘みに変わった……」
続いて十数台の車がゆっくり走ってきた。先導するのは警察車両だ。後ろはXZ(XiZang=西蔵)の文字と001~005の通し番号が書かれた5台の装甲車で、4人の狙撃手が機関銃を前方と道の両側に向けていた。顔を隠し、銃を持った軍人で満席になった中型バス5台が続き、最後は通し番号006、007の装甲車だ。
知識分子で退職幹部でもあるチベット人は私に話した。「この2年、ラサは銃を持った軍人でいっぱいだ。ジョカン周辺の建物の屋上には狙撃手が昼も夜も立っている。彼らが狙うのは抗議者か?明らかに一つの民族を狙ったものだ。民心はもう取り戻せない。チベット人と漢人は二度と団結できないだろう」
また、私はチベット人の自殺を聞いている。一人はラサ林周県病院の若い医師だ。08年3月の抗議により、相当数の僧侶や市民が捕まり、彼は衝撃と心理的な圧迫を受け、10年のチベット暦新年にラサのホテルで縊死した。もう一人はラサ下密院の僧侶で三十数歳だった。ゴンパで毎日受けさせられる「愛国主義思想教育」に苦しみ、山ごもりを要求したが、工作チームに許可されなかった。10年8月のある日、ラサ河に飛び込み水死した。
この2件の事例だけでは、ラサ市民が「幸福」ではないと説明するのに十分ではないかもしれない。3・14後の5日目のことを覚えている。ラサの街頭に立った香港フェニックス・テレビの記者は正常な暮らしが戻ったと宣伝したが、彼女が取材した何人かのいわゆる「ラサ市民」はすべて漢人だった。まるでラサは既に和諧の実現した漢人都市のようだった。
彼女は明らかに選んでいる。ラサで暮らすチベット人はまったく彼女の眼中になく、取材された漢人は逆にラサの本来の住民と見なされた。だから、CCTVが調査した「幸福感最強」の「ラサ市民」は、まったくチベット人ではない可能性が高い。
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*1:実際には2007年
http://jingji.cntv.cn/special/2010ddc/20110112/109316_1.shtml
2008年でさえラサは「中国で一番幸福な町」だったことになる。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)