チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2011年1月19日

「心臓の骨」ウーセル女史新刊前書き

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ノルツェの作品 「チベット文字」

写真はチベット人画家ノルツェの作品「チベット文字」

今日もウーセルさんのブログより。
去年11月11日付けの文章で、題は「心臓の骨」。
これは近々台湾で出版されるという彼女の新作「チベット、この数年」の前書きである。
この新刊には題名の如く、2008年蜂起のこと、この数年チベットで起こった主な事件、チベット語の問題等について書かれているらしい。

この前書きではチベット語の問題を中心に書かれている。

翻訳は雲南太郎@yuntaitai殿。
少々長いので2回に分けて掲載する。

なお原文には注が沢山後記されているが、訳者は1つを除きそれらを本文中に挿入されている。

原文:http://woeser.middle-way.net/2010/11/blog-post_11.html

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◎心臓の骨 

 数年前、私は北京のネット上にブログを開き、理由も示されないまま半年足らずで閉鎖された。話題が敏感だったことと関係があるのだろう。たとえばチベットでの文化大革命について、私の父が撮影したゴンパ破壊、僧侶弾圧の写真を載せていて、明らかにタブーに触れていた。

 では、「和平里チベット語」も取り上げられないのだろうか?私自身、その先例とは知らなかったが、ブログに新疆(東トルキスタン)旅行記を発表し、新ウイグル語を取り上げたことがある。

 民豊県(ニヤ)を通った時、県庁所在地の中心に立つ記念碑に引き寄せられた。赤い柱で、文革を象徴するヒマワリが基部に彫られていた。柱頭には五星紅旗に囲まれた毛沢東の胸像があり、中央部には漢字とよく分からない文字で「我々の思想の理論を導くのはマルクス主義で、事業を指導するのは中国共産党」という文革語録が刻まれていた。ほかにもう一つ石碑があり、この記念碑について「1968年建立」と書いていた。

 プロレタリアート文化大革命の激しい炎は確実に全国をくまなく燃やし、遥か遠い国境近くの小さな町まで席巻していた。ラサでも起きた「共産テロ」への私の理解によれば、1968年はまさに二つの派閥の争いのピークだった。当時、蔵漢人民は過去にないほどの団結を実現していた。「敵か味方か階級で分ける」から「敵か味方か派閥で分ける」段階へと細分化し、民族問題はどうでもよくなっていた。新疆もそうではなかったのか?
同行したウイグルの友人は1973年生まれで、そのころの歴史をあまり知らず、記念碑のよく分からない文字についてもただ新ウイグル語だと言うだけだった。

 新疆から戻ってネットで調べると、北京は1960年以後、ウイグル語に文字改革を加えていた。昔ながらのウイグル語は科学性が欠けているとして、36個のアラビア文字を32個のラテン文字に置き換え、新ウイグル語を作り出した。何世紀にもわたって使われ、イスラムの背景を持つ文字は廃止された。しかし、ウイグル人にまったく受け入れられず、1982年に伝統的な文字を復活させた。結果として、この20年間に新ウイグル語を学んだ2世代のウイグル人は、一夜にして文盲に変えられてしまった。

 当時、新ウイグル語以外にも新カザフ語、新モンゴル語などが同じ運命をたどっていた。これらはすべて、「わが国が50年来、言語・文字政策で多くの過ちを犯してきた」ことの証拠だと専門家も認めざるを得ない(http://ngotcm.com/forum/viewthread.php?tid=4377)。

 ゲンドゥン・チュンペー(注)というハンドル名を名乗るチベット人は、当時ほかに新チベット語があったと私のブログのコメント欄に書き込んだ。

 「伝統文法の主な虚詞を省略し、一つの虚詞を代用する。これは文法に反している。異なる音が代わる代わる現れる本来の美しさを壊し、同じ音が繰り返される結果になった。聞きづらいし、書き間違いも相次いだ。しかし、文字に改革が必要である以上まったく配慮されず、号令の下に小学校の教科書まで改められた。

 面白いのは、教科書以外で最も被害を受けたのが『毛沢東選集』だということだ。当時、『毛沢東選集』を除いたほかのチベット語の文書はすべて『四旧』(文革で打破すべきとされた古い思想、文化、風俗、習慣)に属しており、出版の栄誉はなかったからだ」
 
 こうして見ると、新チベット語はラテン文字化した新ウイグル語とは違い、繁体字を絶えず簡体化しようとした中国語の文字改革に似ている。最終段階の簡体字を習ったことがあるが、簡体化は笑うべきレベルに達していた。たとえばチベット人(蔵人)の蔵の字は、上の部分が草かんむり、下の部分が「上」の字に変わり、わけがわからず、ただ形として見てもとても格好が悪かった。

 これはしかし、「解放農奴」は四肢が発達していても頭は単純なので、学びやすい言葉を改めて作る必要があったという意味だろうか?「解放農奴」は頭が悪いと皮肉っているのだろうか?実践で明らかになったように、文字改革の効果は狙い通りにはならなかった。新チベット語版の「毛沢東選集」は間違いだらけになり、社会の主役になったと言われたチベット族人民が毛沢東思想を学ぶのにとても不便だった。

 ただ、新しい世代のチベット人の私は、幼いころに新チベット語を学んだことはない。実際のところ、チベットの小中学校は長らくチベット語の授業を廃止していて、私を含む多くの60、70年代生まれを現在でも母語で文盲にしている。当然、新チベット語についても何かを言うことはできい。

 私は引き続きゲンドゥン・チュンペーに教えを請い、彼はまたコメントを残してくれた。

 「これは忘れられた歴史だ。チベット語改革にかかわった人にはチベットの知識人がたくさんいた。もちろん、チベット語の水準がかなり高くなければ、文法を変えることはできない。

 この改革は正式に文書の指示があったわけではないようで、60年代末から6、7年、民族出版社の出版物から始まった。民族出版社が北京の和平里にあったことから、新チベット語は『和平里チベット語』と呼ばれた。文革が終わるまで続き、多くの有名なチベット人学者の反対で、ようやく伝統的なチベット語を復活できた。新チベット語の『毛沢東選集』は増刷を止めるしかなかった。

(続く)

(注)ゲンドゥン・チュンペー……1903~1951年、アムド地方レゴンのチベット人。ラサのデプン・ゴンパで仏教を学び、インドなどに足跡を残した奇僧で、風流な道楽者。近代チベットの著名な画家、詩人、歴史学者、地理学者、性科学者、翻訳家で、20世紀のチベットを代表する自由主義思想家、人文主義者といわれている。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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