チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年12月26日

ダライ・ラマ法王の講演「Peace through Compassion」カナダ、Calgary大学にて その2

Pocket

ダライ・ラマ講演、カナダCalgary大学写真は当講演会(phayul.comより)

法王の講演はおよそ40分間に過ぎなかった。

今回が後半であり、これですべて。

——————-

 平和は大切なことだ。20世紀の間に、歴史家たちによれば2億人以上の人々が戦争により殺されたという。第一次世界大戦、第二次世界大戦、内戦、、、中国の内戦、その他の様々な紛争、朝鮮戦争、ベトナム戦争等により2億人以上の人々が殺された。だから、20世紀は「血の世紀」と呼ばれるのだ。今、21世紀の始めにおいても、善からぬ事件が起こっている。今も世界のどこかでは殺し合いが行われている。これらの暴力的行動により本当に問題が解決されるのか?ノーだ。

 暴力の一つの側面は不測の事態を引き起こすということだ。例えば、アメリカのように。ブッシュ大統領は尊敬できる率直な人柄の人物で、私は彼が好きだ。人としては好感のもてる人物だ。イラク問題、アフガニスタン問題、動機としては確かに独裁政権を倒し民主主義を確立し平和を求めたのかも知れない。しかし、その方法は暴力だった。従って不測の事態が生じた。

 暴力とはまず第一に、人間性を否定するものだ。第二に、暴力は不測の結果を引き起こす。第三に、今日、現実においては、地球全体が一つの世界のようになっている。以上の理由によってそれは非現実的手段だといえる。全世界が我々の一部と化している。個人の一部となっている。100年前までの「我々」と「彼ら」という概念はすでに存在しない。我々は全世界を自分たちの一部と認識しなければならない。経済の分野でもすべてが緊密に依存し合っている。個別の現象はほとんど存在しない。相互依存している。環境においても、夫々の大陸が緊密に相互依存し合っている。これが今日の現実だ。この現実に従えば、隣人を破壊することは自分を破壊することと同じことだ。だから、戦争という概念は時代遅れだ。

 一方で、人間がこの地球上に居る限り、確かに何らかの衝突、異なった利害、意見の不一致は常に存在する。だから我々はこれらの不一致や対立を解消する方法を持たねばならない。それを解決するために暴力や力を使ったりすることは時代遅れで、非現実的だ。唯一、現実的解決方法は対話による、というものだ。対話を行うには意思の力が必要だ。意思の力を持つためにはまず、相手も自分たちの一部だという認識が必要だ。これは自分たちの(ドメスティック)な問題なのだと。

 ドイツの科学者が「今日の現実に従えば、それぞれの政府に防衛省と外務省は必要ない」と語ったことを思い出す。「この二つの省は『我々と』と『彼ら』の概念を基にして存在する。外務省とは『他の彼ら』と交渉するところだ、なんらかの自分たちとは違う政策をもつから外務なのだ。外部からの危険、攻撃が、『彼ら』から来るから防衛なのだが、これらは今日の現実に則してない」と説明した。だから、全世界を自分たちの一部と認識し、尊重し、違いは対話という人間的方法で解決されなければならない。このためには相手も自分の一部だ、自分の利害も彼らに依っているという明確な認識が必要だ。これが世界レベルの話だ。このレベルにおいても慈悲が非常に大事だ。

 そして、これは家庭のレベルにおいて言えることだ。もちろん、人間であるからには、何らかの不一致は常に起こり得る。ちょっとした違いから、互いに猜疑心を募らせ、不信がおこり、いつか幸せな家庭が破壊される。また個人レベルにおいては、共通体験として、心が静かな時にはより多くの幸せを感じるということを知っている。怒ったり、イライラすれば、その日の終わりに不幸せな気持ちになる。だから、基本的には我々は怒りを良いものとは思っていない。嫉妬、猜疑心、怖れの感情は人を居心地悪くさせる。基本的には人はこれらを望んでいない。

 慈悲に基づいた考え、態度は即座にその場に心地よい雰囲気を生み出す。怒りとは異なった表情を作り出す。自然に不信感を減じることができる。そうだろう。また、慈悲に基づいた態度は、個人の行動を開けっぴろげに、正直にさせる。もしも、これとは異なった嫉妬や憎しみを動機として行動する時には開けっぴろげな、正直な態度をとることができない。偽善的態度を取ると心の中に直ちに不安、居心地の悪さが生じる。現代生理科学においても、つねに不安であったり、憎しみを持っていたりすると、実際にその人の免疫機能が破壊されるという。これを「免疫システムを食い荒らす」と表現する科学者もいる。

 一方、静かな心は我々の免疫システムを維持するのに非常によい要素となる。このことは自分の経験からも言う事ができる。去年、私は手術をした。胆石をほぼ20年間もため続けていたので、数が増え胆嚢がほぼ3倍に膨れ上がって化膿していた。それで、実際の手術が始まって、普通より難しいことになった。一般には15~20分で終わる手術が、私の場合、3時間も掛かった。かなり重症だったということだ。しかし、一週間で完全に回復した。先生たちも驚いていた。年齢の割には驚くほど早く回復したと。これは、先にも言ったが、私のヒーリング・パワーのせいではなく、心の平安さが故だ。これは本当に大きな違いをもたらす。自分の個人的経験からこれだけは言う事ができる。

 心が平静ならば、外的状況にそれほど左右されなくてすむものだ。心が平静ならば、敵対的状況の中でもその影響を最小限にとどめることができる。そうでなく、心が落ち着かず、不安が多い場合には、たとえ親友に囲まれ、最高に便利な生活に囲まれていても、幸せな人にはなれない。私は多くの裕福な家庭を知っている。中には億万長者もいる。非常に金持ちで有名人でもあったりする。しかし、その人は一人の人間としては非常に不幸な人だったりする。だから自分の幸せのために心の平静さは大事だ。そして、友情。我々は社会的動物だ。真の友情や心からの笑顔は幸せの源だ。これらはすべて愛情から来る。これらが真実だ。世界レベルでも、社会レベルでも、家族レベルでも、個人のレベルにおいても、心の平安は非常に有益なものだ。落ち着かぬ心は実利的にも非常によくないものだ。

 では、次の問題は、如何にこの内的平安を育てるかだ。内的平安は自信と関係が深い。慈悲深くなれば人は自然に自信を増すことができる。これは明らかだ。慈悲深い態度には何も隠すものがない。憎しみの心には偽善が付きまとう。

 では、次に我々は慈悲を育てる事ができるのか?答えはイエスだ。我々はみんな母親から生まれた。我々の人生は母親の限りない愛により始まった。このようにして我々は人生を歩み始めたのだ。生まれたすぐ後から母親はできる限り子どもの世話をやく。子どもの側は、まだ思考が発達していないので、その世話をやいてくれる人が誰であるのかを認識していないが、生理的反応として完全にその人に頼ろうとする。

 そして相互に緊密な絆を築く。これは宗教とは全く関係なく、自然にそうなるのだ。生理的要因による現象だ。この経験をすべての人が共有している。だから、我々の血の中に慈悲の種は存在していると言えるのだ。そのことに対し、どれほどの注意を払うかどうかの違いがあるだけだ。普通、我々はそのようにして人生をスタートさせている。しかし、次第にその価値を忘れ、他のことに目を向け始める。

 一方で、人間には生存のために攻撃的な性格も備わっている。怒りとかの性格も生存のために必要なのかも知れない。しかし、怒りと慈悲を比べると、生きるためには慈悲の方が基本的で支配的な要素だ。攻撃性も時には必要かも知れず、そのような時にはこの基本的な価値を忘れてしまうこともあろう。ほっておけばその二次的な性格により多くの注意を払うようになる。すると、人間の知性までも攻撃性のために使われるようになる。知性を暖かい心のために使わなくなる。だから、若い人たちには特に、私は人間性への覚醒の大事さについて話すのだ。

 だから、どうかもっとこの内的価値について注意を払ってほしい。これが大事だ。先生たちも、教授たちも、もっとこのような心の価値に対し、もっと注意を払ってもらいたい。そうでなければ、今の世の中で、問題を起こす多くの人たちも、頭脳の点、教育の点では素晴らしいのかもしれないからだ。しかし、その明晰な頭脳を憎しみに操作されるままに使用している。例えば、9月11日の事件を引き起こした人々だが、頭の悪い人たちがあのような事件を計画し、実行することはできないであろう。頭が良くて、すべてのプロセスを綿密に計算し、計画し、そしてあのような、考えられないような破壊的行為を実行したのだ。このように知性自体は時に非常に有害なものだ。

 もっと心の暖かさに注意を払うことにより、はじめて知性がより建設的なものとなるのだ。このことをあなたたちに言いたい。先生や生徒、それに父兄たちも、どうかこの暖かい心に対しもっと注意を向けてほしい。これは宗教とは全く関係ない。

 ある人たちは言う、道徳は必ず宗教に基づくべきだと。またある人たちは言う、道徳は宗教的信心によらず、人類の普遍的価値であると。私も後者であると信じる。もちろん様々な宗教も道徳を支える潜在力を持っている。しかし、私は宗教に関わらぬ、普遍的価値としての道徳を信じる。つまり世俗の、宗教的でない道徳のことだ。

 ある人は世俗とは宗教の否定だと言う人もいる。しかし、インドでは世俗とは宗教の否定ではなく、すべての宗教に敬意を払いつつも、特定の宗教には属さないと言う意味だ。同等に敬意を払うのだ。また、現代の現実に照らし合わせてみて、宗教を持たない人々にも敬意を払うべきだと思う。だから、ここで言う世俗とは非常に広い範囲を含む。私が世俗の道徳観というときに、これを宗教の否定だと捉えないでほしい。そのように感じないでほしい。

 若い生徒さんたちよ、あなたたちは21世紀に属する人たちだ。私の世代、教授とか学長とか、ハハハ、は暴力の世紀に属する者たちだ。あなたたちは21世紀に属する。どうか、平和について真摯に考えてほしい。内的平和に基づく平和について。慈悲に基づく内的平和について。慈悲は生理的にすでにみんながその種を共有していると。その種について、さらにありのままを分析し納得し、確信を得て、慈悲は本当に有益なものだという自覚を養なってほしい。ひとたび慈悲はすべてのレベルにおいて有益なものだ、という認識を得るならば、時間とともに、その慈悲の力は次第に強くなって行くであろう。反対の心である怒りは、それに従って次第に弱くなって行くであろう。これが道だ。

 若い人たちは、まず自分たちの人生でこれを実験してみることだ。実験と分析を繰り返し、一旦最終的納得に至ったならば、それからこれらの価値を実行に移すのだ。よろしいかな。

 おわり

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)