チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年12月11日

劉暁波氏の最後の陳述より「妻への愛を語る」

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b1bbb221.jpg写真はロイターより。

昨日のノーベル平和賞授賞式における委員長のスピーチは素晴らしかった。
その全文は以下:(英語)
http://nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/2010/presentation-speech.html

それよりも、もっと素晴らしかったのは、会場で代読された劉暁波氏自信の「私に敵はいない」と題された最後の陳述。

この最後の部分は昨日のブログでも紹介したが、全文の要旨は日本語に訳されている。
例えば、朝日:
http://www.asahi.com/international/update/1210/TKY201012100579.html
や、毎日:
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101211ddm007040163000c.html
である。

私は、上記の2つにはほんの少ししか訳されていない、劉暁波氏が妻の劉霞さんに対する愛を語った最後の部分にも感動した。
この部分が朗読されるとき、女優のアン・ハサウェイも会場にいて、涙をぬぐっていた。

そこで、その部分を訳してみた。

中国語原文は:
http://www.bullogger.com/blogs/stainlessrat/archives/351520.aspx
だが、主に英文の
http://www.foreignpolicy.com/articles/2010/10/08/i_have_no_enemies
を基に訳したので、あくまでも2次的試訳である。

これに続く、最後の2節も再掲する。

——————————————————————

もしも、語る事を許されるなら、この20年間でもっとも幸運な経験、それは妻劉霞から受けた無私の愛だ、と私は言いたい。
彼女は今日の裁判を傍聴することができない。
しかし、愛する人よ、君の私への愛はいつまでも変わらないことを堅く信じている。
この間、私の自由は常に阻害され続けてきた。
我々の愛は外的状況により困難を強いられ続けた。
しかし、その後味は無量の味を残す。
刑期を私は有形の獄中で過ごし、君は心という無形の獄中で待ち続ける。
君の愛は高い塀を飛び越える太陽の光だ。
その光は監獄の窓の鉄格子を突き通し、私の肌の至る所を照らし、身体中の細胞を暖め、私の心を常に平和な、開かれた、明晰な状態に保たせてくれ、監獄で過ごすすべての時間を意義あるもので満たす。
一方で、君への愛は悔恨と後悔に満ちたものであり、しばしばその重みに私の足は耐え切れずよろめく。
私は荒野に転がる一つの無感覚な石。
狂った風と暴れる雨にむち打たれ、それはあまりに冷たいので誰もあえて触ろうとはしない。
しかし、私の愛は堅固にして鋭く、如何なる障害をも突き抜けることができる。
たとえ粉々に砕かれようとも、その灰塵をもって君を抱きしめよう。

愛する人よ、君の愛があるので差し迫った裁判にも端然と立ち向かうことができ、私の決断した選択に対しても後悔せず、明日を楽観的に待つことができる。
いつか、この国に、表現の自由が認められ、すべての市民の言動が平等に扱われる大地となる日が来る事を待ち望んでいる。
そこでは、異なった価値、思想、信仰、そして政治的見解が競い合いながらも、平和的に共存することができる。
多数派と少数派の意見が平等に保証され、政権を握っている側とは異なった政治的見解も、完全に尊重され守られる。
そこでは、すべての政治的見解が人々の選択を待つために太陽の下に広く述べられる。
すべての市民は恐れなく政治的意見を述べることができ、そこでは、如何なる人も、如何なる状況の下にも異なる政治的見解を発表したからと言って政治的迫害に苦しむことがない。
私の望みは、私が中国で綿々と続いて来た言論弾圧の最後の犠牲者となり、この後、いかなる者も言論が故に罰せられることがなくなることである。

表現の自由は人権の基礎であり、人間性の源であり、真理の母である。
言論の自由を締め付けることは、人権を踏みにじり、人間性を窒息させ、真理を抑圧することだ。

中国憲法により保証された言論自由の権利を行使するためには、市民としての社会的責任を果たさなければならない。
如何なる意味においても、私の行った事に罪はない。
しかし、このことで私に罪が掛けられるとしても、恨み言はいわない。

すべての人に感謝する!
(谢谢各位!)

2009年12月23日 劉暁波

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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