チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年11月7日
プノンペンのゴミ山に暮らす子供たちを助けるフランスのNGO.
「ゴミを満載したトラックが現れると、子供たちは先を争って追いかけた。まるで美味しいケーキが届いたみたいなものだった。ゴミが下ろされると、戦争のようだった。金になりそうなものを探すのだが、子供たちはお腹がすいてるので、まず食えそうなものを探した。少しぐらい腐っていてもすぐに食った。ボトルに何か液体が残っていれば飲んだ。すべて強烈な味がしたよ」。
プノンペンのゴミ山に13歳まで暮らしていたチャントレイ君は、去年まであったそのゴミ山の跡地の丘に登り、昔を懐かしむように語った。
「そんな、何でも食べてお腹こわさなかったの?」
「案外平気だった。俺の胃袋は鍛えてあって、今でも鋼鉄さ。ハハハ・・・でももちろん、お腹こわして、病気になって、死んじゃった子もいたけど、、、」
「いつもどこかで火事があり、煙がひどかった。燃えてしまう小屋もあった。煙がひどいときには、風上にある友達の家に行ってた。雨季には雨でゴミが浮いて穴が分からなくなる。そんな穴に落ちて溺れた子もいたよ」
20歳のチャントレイくんは今、大学の医学部に通う。
13歳の時、PSEというフランスのNGOに助けられ、そのPSEが運営する学校に通い始めた。前から学校で勉強したいと思っていたので、学校に入ると一生懸命勉強した。1年間で2クラスずつ飛び級して、今年奨学金を貰って大学に行く事ができたという。
一昨日、そのPSE(Pour un Sourire d’Enfant、英語ではFor a Child’s Smile)というNGOの学校を訪問した。
この学校では訪問客にはそれぞれガイドを付けてくれる。
チャントレイ君はたった一人の私に付いてくれたガイドだった。
ここの卒業生はボランティアで時々このガイドをする事になっているそうだ。
���PSE
あるフランス人夫婦が1993年にプノンペン最大のゴミ山ストゥンミンチェイを見に行った。
そこには、強烈な悪臭と煙の中で沢山の子供たちがゴミを漁っていた。
夫婦はこの光景に圧倒され、どうにかしてこの子供たちを助けたいと思った。
「1日に1度だけでも普通の食事を食べたい」という子供たちのために、最初はゴミ山のすぐそばに食事を配給する小屋をたてたという。
それから、できるだけ多くの子供を食べさせるために近くの田んぼを借り、コメを作った。
次に、夫婦はフランスに帰り、友人たちにその子供たちの状況を知らせ、寄付を募った。各地を周り講演会も行った。
順調に資金が集まり、次に学校を作った。
診療所を作り、職業訓練学校を作った。
こうして、次第に施設を増やし、世話のできる子供たちの数を増やして行った。
今では、何と約6500人の子供の面倒をみているという。
職業訓練所には19種のコースがある。
職業訓練を兼ねた立派なレストランが2つある。ブティックがある。
その他、とにかく校内は何だかフランス風にシャレていて、よく機能しているようにみえた。
何よりも、子供たちが明るいのだ。
学校では道徳の授業もあるという。
先生に話を聞くと「生徒たちはみんな正直で明るい。靴やものがなくなることはまずない」と話していた。
この子たちの多くは今でも、バラックの家に帰れば、ゴミ山にゴミ拾いに出かけないといけない。
学校に来るとみんなシャワーを浴び、制服に着替える。
そんな子供たちには到底思えない、明るく、笑顔を絶やさない子供たちばかりに見えた。
私を案内してくれた、チャントレイ君も実に良い青年だった。
「ゴミ山に暮らす人たちの中には、マフィヤもいるよ。ドラッグや暴力がある。この学校は最近まで寄宿舎はなかった。ただ、家に帰ると売春宿などに売られる危険性の高い女の子だけは学校に泊まるところがある。数十人ぐらいが泊まっている」とチャントレイ君。
「自分の父親は酒飲みで暴力を振るっていた。それを知ってこの学校が母親と自分たち兄弟を家から離し、自分たちを学校に行けるようにしてくれた。自分は本当に幸運だったと思ってる。この学校に感謝している」とも言っていた。
学校の見学が一通り終わり、さていよいよゴミ山にいくぞ!
と、彼に「さあ、今度はそのゴミ山に行こうかね」というと。
「さあ、それは難しいかも?」
「え~~!何で?」
「事務所にまず聞いてみると言い」というので、
その事務所とかに行った。
すると「ストゥンミンチェイのゴミ山は去年無くなった。あまりに町の中にあって悪臭がひどいからと、政府が郊外に移転させた。
キリングフィールドのそばだ。でもそこに行っても入れないと思う。Japanが管理してて、入れてくれないそうだ」とのこと。
私は諦めきれず、「何、Japanが、、、私は日本人だ、行けば入れるかも知れない、とにかく行ってみたい」と言った。
チャントレイ君が「自分も行った事無いが、行くならつきあっても言いよ」と言ってくれた。
2人でトゥクトゥクに乗って、そこに向かった。
半時間ほどかかるその道中、彼といろんな話をした。
この国の社会や政治の話もした。
プノンペンの人口は約140万人と言われるが、その内40万人がスラムに住んでいる。スラムの数も500以上。プノンペンに毎年食いはぐれた農村から流れ込む人々によりスラムは増えるばかりだという。
この国の31%は今も1日1$以下で暮らす貧困層。
中学までは一応義務教育で無料という建前であるが、実際には安給料もまともに払われない先生たちの多くは金を貰わないと教えることもしない。
だから、金のない家庭の子供たちが中学まで行ける事は稀だ。
「この国は金持ちと貧乏人にはっきり分かれている」と彼はいう。
「金持ちはどんな悪い事をしても捕まる事はない。この国では金がすべてなんだ」と。
政府は開発のためだと言ってスラムの住民を強制立ち退きさせる。
場合によっては火を放たれるとも、現地に暮らす日本人に聞いた。
こんな政府は、もちろん中国とは特別に仲良くしている。
ゴミ山の住民たちも去年強制的に、ずいぶん離れた田舎に移住させられたという。
今、多くの子供たちは学校の用意したバスで通っている。
新しくできたゴミ山でもそれぞれ身分証を提示してゴミ拾いをする事は許されているという。
しかし、そこまで通うお金が払えず、町に出てゴミを漁るものが増えたそうだ。
(ゲートのそばで1人でゴミの仕分けをする人。よく見るとわかるがハエがすごい)
目当ての新ゴミ山のゲートに到着した。
ゲートの横には「危険。マラリア地帯。立ち入り禁止」と書かれた立て看板がある。
そこからゴミ山はまだ遠いらしく様子は全く分からない。
しかし、急に多量のハエが体にたかりはじめた。
ゲートを何とか突破しようと、ゲートを守る男をしつこく説得したが、残念ながら結局入れて貰えなかった。
仕方なく引き返し、ストゥンミンチェイにあるチャントレイ君が住んでいた元ゴミ山に向かった。
そこにはゴミは残っていたが、ほとんどの丘には1年で草が生えていた。
丘を歩くとフカフカとした感触が足に伝わって来た。
丘の上で昔を思い出し、いろんな思い出を話してくれた後、最後に「自分がここでゴミを漁っていたなんてもう夢みたいだ・・・」とチャントレイ君。
周りには縮小したスラムが残っていた。
そこを歩いていると、チャントレイ君に何人かの若者が話掛けてきた。
昔の仲間だという。
すぐそばにPSEが運営する保育所があった。
親たちが町にゴミ集めに行っている間、小さな子供たちを預かっているそうだ。
子供たちの昼寝の時間だったようだ。
チャントレイ君と一緒にPSEの学校やレストランを訪ね、いろんなことを考えた。
学校をTCVと、レストランを自分たちのルンタ・レストランと比較して見たりもした。
学業のことは分からないが、職業訓練についてはこの学校の方が徹底しているようにみえた。
子供は環境さえ与えれば、どんな生い立ちの子供でも、すばらしい能力を発揮できるものだ、とつくづく思った。
このように素晴らしい学校をつくり、実に多くの恵まれない子供たちに希望と尊厳を与えたこの夫婦の積んだ徳は計り知れない。
このように成功することができたのは、きっとこの2人が特別優しい人だったからに違いない。
菩薩のように。
参考:フランスのNGO,PSEのホームページは:http://pse.asso.fr/index.php?lang=en
カンボジアの人権状況については:
http://www.hrw.org/ja/news/2009/07/14-2
http://www.hrw.org/ja/news/2007/07/27
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)