チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年9月23日

カンボジア大虐殺・中国との関係

Pocket

ツールスレン収容所で拷問の後殺された人々の写真これまでに、このカンボジアで接して来た人たちは全員いわゆるいい人たちばかりだった。
常に微笑みを絶やさず、子供のようにはにかむ。
自分の意見を通そうとするより、相手に合わせようとする。
一般的に言って大国の人は大柄で他人を従わせようとするが、小国の人は相手に合わせようとする傾向があるようだ。

キリングフィールドで掘り出された虐殺の犠牲者たちの遺骨このアジアの小国は歴史の中でこれまで幾多の外国勢力に翻弄されてきた。
今は明るく暮らしているが、この国にはつい30年前ぞっとするような暗黒の時代があった。
ポル・ポトに率いられた共産党クメール・ルージュによる犠牲者は約100~300万人と言われる。
このように犠牲者の数に開きがあるのは例えば毛沢東統治下における犠牲者が3000~5000万人と一般に言われるように、大虐殺の軌跡は正確には計りがたいとからだ。

キリングフィールドから掘り出されて犠牲者たちの遺骨中を取って犠牲者約200万人と言われることが多い。
その頃のカンボジアの総人口は約700万人と言われているからポル・ポトの時代に4人に1人が殺されたことになる。

ちなみにチベット人は人口600万人の内、毛沢東統治下で100~150万人が殺されたというから、こちらは約5人に1人だ。

40歳以上のカンボジア人のほとんどはこの時代を生き抜いた、悲壮な体験を持っている。
しかし、一般に彼らは過去の話をしたがらない。
これはチベット人とは違うようだ。
チベット人は今も弾圧されているので、機会があれば常に人に現在や過去の経験を語ろうとする。
カンボジアの人々は悲惨な過去をすでに過ぎ去ったものとして忘れ去ろうとしているようだ。

ツールスレン収容所に収容されていた囚人たちこの仏教徒の小国で、なぜこのような凄惨な出来事が起こってしまったのか?については簡単な答えは出せないと思う。
単に、ポル・ポトが残忍だったからといった議論は無意味だ。
単に中国共産党に影響されたのだ、というつもりもない。
冷戦と地政学、ベトナム戦争、中国共産党との関係などが複雑に絡み合う中で人間の内部に潜む底なしの恐怖心、猜疑心、残虐性などが人々の心をコントロールし、それが外に現れ国中を襲ったのだと言えようか?

今、やっと裁判が始まり少しはこの大量虐殺の原因が明らかにされるかもしれない。
しかし、ポル・ポト以前に起こった米軍による爆撃により夥しい死者が出た話やポル・ポト後の内線による死者の話は裁判ではでないであろう。

この辺の所はカンボジア勤務の経験もある知り合いの記者が最近書かれた以下の記事を参考にして頂きたい。
http://www.47news.jp/topics/himekuri/2010/07/post_20100728142202.html

写真は私がこのカンボジアに来た次の日に訪問したツールスレン・ジェノサイド・ミュージアム(Tuolsleng Genocide Museum)とキリング・フィールド(Killing Field)で撮影したものだ。

ツールスレンは元高校であったところをクメール・ルージュが政治犯の収容所に転用した場所であり、ここはS21と暗号で呼ばれていた国内でもっとも過酷な拷問所であった。
ここに収容されたいわゆる政治犯は1万4千~2万人に及び、ここから生きて出ることができたのは僅かに7名(または8名)しかいなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/S21_(トゥール・スレン)

ツールスレン収容所元所長カン・ケク・イウ最近始まったカンボジアの大虐殺を裁く国連支援の特別法廷でここの元所長カン・ケク・イウは(たった)19年の刑を言い渡されている。

最初の頃はこの収容所内やその近くで囚人たちは殺されていたが、その内人数も増えたので、囚人たちはプノンペンの南に十数キロ離れた現在キリング・フィールドと呼ばれている場所に運ばれ、そこで殺され穴に埋められるようになった。

キリングフィールドに建てられた遺骨収容塔現在そこには多量の頭蓋骨が収納される慰霊塔がたち、ミュージアムも作られている。

写真の中にある絵はすべてある一人の画家によるものだ。
彼はこの収容所に収容されながら奇跡的に生き残った者の一人であり、絵は実際に彼が目撃した情景であるという。

写真の簡単な説明は写真の上にポインターを持っていけば読めるはずだ。
(お断り:プラウザによっては写真の説明が出ないことが判明した)

この二つの場所を見学しながら、私はチベットのことを思っていた。
いつの日かダプチ刑務所や文革時代の処刑場が博物館になる日が来てほしい。
文革時代や今も行われている拷問や虐殺の責任者が裁判にかけられるのを見てみたいと思うのだった。

ツールスレン収容所の規則ツールスレン収容所の尋問中の保安規則(訳Wikipediaより)

1.質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
2.何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
3.革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
4.質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
5.自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
6.電流を受けている間は一切叫ばないこと。
7.何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
8.自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
9.これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
10.これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。

ここに来て私は友人が持っていた一冊の本を読んだ。
アメリア人歴史家デービット・P・チャンドラーが書いた「ポル・ポト伝」(出版社:めこん、1994年)だ。
本当はいろいろ他の本も読みたかったが、なにせ旅行先のことで資料を漁るということもできなかった。(図書館に行けってか)

以下、写真の説明は抜きにして、この本の中で「中国とポル・ポトの関係」に言及している部分のみを取り出し、紹介することにする。

ツールスレン収容所で使われていた鉄の足枷革命組織は(1975年4月17日)都市を空にすると、社会変革プログラムに着手した。それはカンボジア国民生活のすべての面に及んだ。通貨、市場、私有財産は撤廃された。学校、大学、僧院は閉鎖された。出版は認められず、郵便制度も廃止された。移動の自由、情報交換、身を飾ること、余暇活動なども禁じられた。違反すれば厳しく処罰された。違反を繰り返せば、過酷な牢獄か処刑が待っていた。誰もが、革命組織によって割り当てられた仕事をするように言われた。(上記書籍中 p14 以下同様)

ツールスレン収容所の独房ポル・ポトは自分が敵に囲まれていると信じていたが、そうした見方はスターリンと共通のものであり、スターリンから学びとったのかもしれない。そのために、ポル・ポトはプノンペンにあるS21という暗号名で知られた尋問施設で約二万人もの敵(クマン)を拷問し、処刑することを承認した。加えて、77年に開始した地域ごとの粛清で、無数の人々が死んだ。S21で殺されたうちのほとんどは、党の忠実なメンバーだった連中だ。他の場所で死んだ犠牲者たちも大部分は裏切り者などではなかった。
この革命とこの異常なまでの暴力は、どこから来ていたのか。75年から79年まで、プノンペンの権力者たちは、自分たちには外国のモデルなどない、カンボジア革命は比類のないものだと、繰り返し主張している。その実、「強襲攻撃」「大躍進」「自立達成」「ヘクタール当たり(コメ)三トン」など、民主カンプチアのスローガンの多くは、共産主義中国から無断借用したものだった。
中国の政権も、毛沢東主席が死去する直前、独特の過激な段階を経験したのである。(p16)

クメール・ルージュの党大会どこにも前例のない自己大量虐殺が(なぜ)起きたのだろうか。明らかに類似しているもの、ポル・ポトの着想の源になっていると思われるものもある。それは1950年代の中国の大躍進政策や、それより二十年前のソ連によるウクライナ集団化政策、そして両国の革命指導者にとって危険とみなされた「分子」の粛清などに見いだすことができる。(p17)

だが、ポル・ポトに対して最も重要な影響を与えた外国は、共産主義中国だっただろう。彼は1965~66年に中国を訪れている。そこで毛沢東の自主革命、自発意思尊重、継続階級闘争などの考え方を知り、その思想に感化された。(p21)

キリングフィールドから掘り出された遺骨 3この時期(クメール・ルージュ1963~70年)のサロト・サル(=ポル・ポト)には、外国の影響がいくつかあった。最も重要な知的影響は中国のいわゆる文化大革命だったろう。文化大革命は1966年に始まり、さまざまに装いを変えて、その十年後の毛沢東主席の死まで続いた。この大衆運動は、大部分毛沢東自身が計画したもので、継続革命、階級闘争、貧困階層の権力掌握といった彼の固定観念を推進するのが目的だった。社会は、共産党政権自身が作った制度のうちの多くのものを破壊するために動員された。文化大革命が制御できないものになった時、毛沢東はその方向修正を行ったが、そのほかの彼の政策の多くは1980年代初めまで、変更されなかった。
サロト・サルは66年、文化大革命の初期に、中国を訪れた。それを目の当たりにして印象づけられたに違いない。この時期に中国に導入されていた処置のうち、例えば都市からの部分的撤去、経済問題への「強襲」、軍の階級廃止などいくつかのものは、後にクメール・ルージュによって採用された。中国式の「階級の敵」粛清も、民主カンプチアで広範におこなわれたし、カンボジア経済の野心的計画は「大躍進」と名付けられた。1950年代に中国で進められた無茶な工業化計画から借用した文句である。サルがその後、文化大革命が大失敗に終わった事実を知ったかどうか明確ではない。同様に、1930年代のスターリンの集団化計画はもちろん、中国の「大躍進」が挫折したことも、全く知らずにいた可能性がある。(p113~4)

キリングフィールドから掘り出された遺骨 4その直後(75年5月)サルの政権をてこ入れするため、数百人もの中国人技術者が到着した。最終的には四千人以上の中国人が(その時期)カンボジアに働きにやってきたが、彼らの存在は決して明らかにされなかった。
(中略)
(75年5月ベトナム訪問の後サルは)北京に向かった。北京では、毛沢東と写真におさまり、中国側から十億ドル以上の対カンボジア経済・軍事援助を供与するとの約束をとりつけた。こうした訪問も中国の援助も、当時は発表されなかった。サルは中国からさらに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に短期訪問旅行をし、軍事援助の約束を得た。そして、北京に戻り、病気の治療を受けた。(p174)

ツールスレン収容所内にある拷問用の吊るし台党は「ヘクタール当たり(もみ付き米)三トン」をスローガンにしてきた。これが間もなく国家目標になった。スローガン自体は、同党はそう認めていないものの、75年末ごろ中国で華国鋒副首相が始めたキャンペーンをそっくり真似たものである。ヘクタール当たり三トンという目標数字は、カンボジアの指導者たちが自分自身の農業スローガンや農業政策を何も作り上げていなかったこと、中国にとって良ければカンボジアにとっても満足できるものだろうと、考えていたことをしめしている。(p190)
1970年以前、カンボジアの平均収量は、ヘクタール当たりもみ付き米一トン以下だった。
党のスローガンは、カンボジアの平均収量を一挙に三倍に増やすことを要求していた。
(この無茶な計画に従い、それを達成するために地方の役人は農民から、彼らが生きるために必要な最低限の米まで徴収した。その結果多くの農民が餓死する事態となった)

拷問用吊るし台の使い方を示した絵北西部の作業のほとんどはプノンペンとバッタンバンから追い出され、この地域の農村部へと移住させられた、百万人を越す「四月十七日」の人民(75年ポルポトに指揮されたカンボジア共産軍がプノンペンに入城しすべての住民を追い出した。その日に追い出された人々のこと)が行うことになっていた。
その後二年間、これらの男女は土を掘り崩して田や運河、ダム、マラリアがいっぱいの森の外側の村落などを建設する仕事を強いられた。彼らのうちの何万という人々が、栄養失調、病気、処刑、過労などのために死んでいった。そうした死を知って、プノンペン政権当局は困惑した。ただし、その理由は、それらの死が「敵」がまだ舞台裏で活動していることを示している、ということだけだった。新人民(かつての都市住民)は絶対数が極めて多いし、革命にとって「階級の敵」だから、消耗品だった。ポルポト時代を生き延びた多くの人々が、幹部たちがあざけりを込めて彼らに言い放った、ぞっとするような言葉を覚えている。「(お前たちを)生かしておいても何の得にもならない。(お前たちを)失っても何の損失にもならない」(p191)

ツールスレン収容所内の拷問部屋革命的文化は、過去とはっきり手を切った。党のスポークスマンは計画を説明するにあたって、こうも言った。「もしわれわれが(革命前の)『文化』を(教育の基礎に)選んだら、党にとって致命的な大失敗となるだろう」。こうした思想は、そのころ中国で流行していた思想を模倣したものだった。(p198)

収容所内で拷問により死亡した人民主カンプチアを研究するための文書の最大の供給源であり、またこの政権のもっとも心をゆさぶる遺物と言えば、75~79年初めにツールスレンの尋問センターで集められた四千に上る供述文書の山である。このセンターは同政権が、プノンペンの南部地区にあった元高校の施設を転用したものだ。二万人を越す男女、子供たちまでが75年末から79年初めにかけてS21の門をくぐった。そのうちごく少数の者を除いて、尋問され、拷問され、殺されたのだった。75年には、囚人として記録されたのは二百人だけだった。それが、76年には十倍増の2250人となり、77年には6千人以上がぶち込まれた。78年の記録書類は未整理のままだが、この年にはほぼ一万人の囚人が記録されたようだ。生きてここを出所できたのは、わずか6人にすぎなかった。共産主義ベトナムや中国では、投獄あるいは「再教育」という方法が極めて大量に用いられたが、カンボジアではなぜか、そうした代替策は真剣に検討されなかった。S21に残った四千の供述文書を読むと憂鬱になる。(p201)

ポル・ポトと鄧小平77年9月28日、ポル・ポトが北京に到着した時、十万人の民衆が動員され、天安門へとつながる長安街沿いに並んで彼を出迎えた。多くは紙製のカンボジアの旗を手にしていた。いたれり尽くせりの準備と群衆の動員は、シアヌーク政権時代に殿下がプノンペンに外国の賓客を迎えた際、命じたこととそっくり同じだった。ポル・ポトがこうした扱いを受けたのは初めてだった。
空港では、華国鋒首相、鄧小平主席がカンボジア代表団を出迎えた。この時に撮影された写真が、ポル・ポトとして公表された初めてのものであり、外国人専門家はこれを見て、ポル・ポト=サロト・サルであることを確認できたのだった。同行者は、イエン・サリ、ポン・ベト、ティウン・トゥーン(保健相)その他数人だった。
代表団は10月4日まで中国に滞在し、その後、北朝鮮に向かった。その間、宴会と演説が繰り返された。ポル・ポトは演説の中で、ベトナムを名指しはしなかったものの、カンボジアの国境線や国家主権が不可侵であることを強調した。また毛沢東と、その継続革命や階級闘争の思想をあらためて賞賛した。それに応えて、華国鋒は、民主カンプチアが「大衆に依拠し、独立を掲げ、武装闘争を継続する・・・・・正しい路線をとっている」と称えた。中国のマスコミの社説は、中国とカンボジアの友好関係が「破壊できない」ものであると指摘した。(p221)

ツールスレン収容所 2ポル・ポトがこの旅行をしたのは、一つには、中国の援助によって彼の軍隊が無敵となり、ベトナム側も慎重な態度を取らざるを得なくなるだろうと考えたためだった。
旅行のもう一つの理由は、「人間の顔」を示し、カンボジアでの人権侵害、恐怖政治、飢餓などに対してタイや西側で出ている非難に反撃することである。中国は、この目的のため、この訪問に合わせて、光沢のある上質の紙に印刷された雑誌『民主カンプチアは前進している』を出版し、同年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを発表した。どちらも、人でいっぱいの作業現場、盛んな工業、新たに建設された感慨用ダムなどを紹介したものだった。栄養の行き届いた労働者たちが、いつでもどこでも微笑していた。(p222)

ツールスレン収容所の独房毛沢東理論では、階級闘争は社会主義から共産主義への移行のため絶対重要なものだが、その階級闘争のためには敵の存在が不可欠だった。人民の間の矛盾こそ、党を前進させる。勢いを維持するためには不安定が必要だった。党の指導者たちは他人に嫌疑をかけることで、栄養分をとってきたし、陰謀を暴く能力を誇ってきた。裏切りの嫌疑をかけられた者が、国の前進に必要な不安定をもたらしてくれるというわけである。しかし、そのうちに、誰が本当に有罪の者がいるか確認することなど、困難なのだ。(p238)

キリングフィールドの様子を描いた絵S21では、何百人もの東部地域幹部が尋問を受け、処刑されつつあった。東部、南西部地域のカンボジア軍部隊は、ベトナムの戦闘爆撃機によって爆弾の雨を降らされているところだった。東部の土地の一部は、すでにベトナム軍に占領されてしまっていた。若くて教育も受けていないカンボジア兵が中国製軍備を任され、それをつかいこなせるよう、異常とも言えるペースの速成訓練を受けていた。彼らは戦車操縦士、飛行士、迫撃砲兵などだったが、多くが事故で負傷し、死んだ。ポル・ポトは11月初め訪れた中国代表団に、「義勇兵」派遣を要請した。それに対し、中国側の助言はあくまで自力に頼ることであり、物資援助だけ増やしてくれた。ポル・ポト政権の命運は、あと二ヶ月だった。
(p245)

キリングフィールド、死体が埋められていた穴キリング・フィールド/死体が埋められていた穴。
各穴ごとから数百体の遺体が掘り出された。
このような穴が数十個ある。
今は、何事もなかったかのように緑の草が生い茂っている。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)