チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年9月9日
アンコール遺跡群巡り その4
この日も朝早くからトゥクトゥクに乗り6か所の遺跡を巡った。
まずこの日最初の遺跡はアンコール・トムの北側にあるプリア・カン遺跡。
「プリア・カン」とは「聖なる剣」との意味。
石碑文によればこの寺院は12世紀終りジャヤヴァルマン七世がチャンバ軍との戦闘に勝利したことを記念して建造され、王の父の菩提寺であった。
建設当時ここは単なる寺院ではなく、様々な職種の人々が住む村を形成しており、仏教教義を学ぶ場でもあった。
中央祠堂には創建当時には観音菩薩が祭られていたというが、今は16世紀ごろに建立されたストゥーパが残っている。
遺跡の中を歩いている頃、スコールに見舞われ、しばらく遺跡の下に非難していた。
この青い光の束は線香の煙にスコールの後の木漏れ陽(遺跡漏れ陽)が当たりできたもの。
かつて図書館であったと思われている、他に例を見ない二階建ての石造建築。
太い柱がギリシャのドーリア様式の神殿を思い出させる。
私も寺院を設計する時など、これが遺跡になるのが楽しみじゃ、、、なんて思いながら設計することがある。
もっとも遺跡になることができる建築は稀だ。ただのコンクリート造だと長持ちしないしね。
ダラムサラのノルブリンカなど、平面は千手観音で、本堂は観音のマンダラから比例を取ったものなのだが、遺跡になって誰か気づいてくれればいいな~~なんて思うこともある。
次に訪れたニャック・ポアン遺跡には四角い池の中に小さな仏教寺院が建っていた。
同じく池の中には誠に珍しい馬の石造があった。
これぞチベットのルンタの原型と思われる代物だ。
この馬は天を駆け、観音菩薩の化身と思われていた。
これには古代の「ヴァラーハ伝説」が関係している。
この話には幾つかのバージョンがあるのだが、まずはガイドブックに書かれている話を紹介する。
「昔、観音菩薩を崇めていたシンハラという男がいた。彼は商人の仲間たちと航海中に難破し、美しい女性に化けたラークシャシー(人食い女)のいる島に漂着した。そこで仲間の男たちはそれぞれラークシャシーの夫にさせられた。ある日部屋のランプから<彼女たちは人食い女です。危険が迫っているので、浜辺で待っている馬に乗って逃げなさい。ただし、向こう岸にたどり着くまで決して目を開けてはなりません>という忠告を受けた。彼は仲間たちとその馬にしがみつき逃げた。馬は天高く駆け、忠告通り目を開けなかったシンハラだけが助かった。この馬こそ観音菩薩の化身、ヴィハーラであった」と。
私の覚えている別バージョンでは、「彼らはラークシャシーとの間に子供もできていた・・・・満月の日に島の南側に現れる天馬にしがみついて逃げなさい。しかし、しがみついた後決して家族の事を思い出し、後ろを振り返ってはいけません。振り返れば落ちます・・・」という話だった。
この天馬の石造にはシンハラを含めた18人の男たちがしがみついているという。
それにしても何とも暗示的な話ではある。
何て、決して女はすべて「人食い女」なんて言ってるのではありませんよ。
「執着心」を捨てなければ救われないという話なわけです。
次の遺跡は「タ・ソム」。ここもジャヤヴァルマン七世によって12世紀末に創建された仏教僧院。
バイヨン様式の東塔門には巨大なスポアンの樹が絡みついている。
最後に訪れた遺跡は「バンテアイ・スレイ」。シェムリアップの町の北東40キロにある。
創建年代は967年。「女の砦」の意味を持つシヴァ神とヴィシュヌ神に捧げられる寺院。
ここはその洗練されたレリーフの美しさで有名である。
入り口を守るように座っているのは河童の原型?
かつて、あのフランスの作家であり、文化大臣にもなったアンドレ・マルローが
若き日にここの祠堂の壁面に施されたアプサラに魅せられ盗掘して国外に持ち出そうとして逮捕されたという曰くつきの遺跡だ。
彼はその後この話を「王道」という小説に書いている。
私も大昔にこの本を読んだことがある。
遺跡からの帰り道。
それぞれの家の前には日本の田んぼにある「かかし」が置かれている。
これは家を守るための「魔よけ」とのこと。
「仁王」の原型とか?
可愛い少女が藁やの中から手を振ってくれた。
村人たちが下に眺めているのは、血の気が失せ死にそうになっていた1人のカンボジア人。この少し先には外人カップルが血だらけで道のそばに横たわり、救急車の到着を待っていた。
その写真もあるが、あまりに衝撃的なので載せない。
トゥクトゥクとバンが正面衝突したらしかった。
最後になったが、大事な旅行情報をお伝えする。シェムリアップで泊った宿は「Bou Savy G.H ボォ・サヴィー・ゲストハウス」というとこだったが実に快適だった。
シングルルーム一泊$12ドル。部屋は3ベッドあり広々として清潔そのもの。
冷房付き、WiHiネット付き、朝食付き。静か。中庭付き。3日泊ると一泊サービス。夕食一回サービス。
従業員はみんなにこにこ。
バス停からの送迎サービスあり。
そして、3日間トゥクトゥクで遺跡を案内してくれたのが、ゲストハウスの中庭に立っている写真のアセアン君。彼はいつもはこのゲストハウスで働いている。
もしも、アンコール・ワットを観光されるときには是非とも彼を使ってやってほしい。実にいい青年だった。
で、アセアン君の話を少しする。
彼はトンレサップ湖のほとりの村に生まれ、家は湖の魚採りで生計を立てている。
兄弟5人の内、彼だけが中学を卒業できたという。
高校に行きたかったが、家は貧乏で果たせず、町にでて働き始めた。
でも彼は向学心があり、今も朝6時から7時半まで英語学校に通っている。
彼の英語は相当うまかった。
私が遺跡巡りをしている間はいつも教科書を出して勉強していた。
彼と一緒に昼食を取りながら、カンボジアの政治の話、両親から聞いたというポルポト時代の話、教育事情、将来の夢など色んな話をした。
最後には彼が自分の息子のように好きになった。
実に感心ないい子であった。
ハンサムであるよ。
だから、アンコール観光に行くなら是非その前に彼に連絡を取ってほしいと思うのだ。
名前はRaksa Asean
Tel:(855)92-219340
E-mail:raksa_asian@hotmail.com
最後の最後はアプサラの踊り。
後ろ足を上げるのが特徴のようだった。
追記:<アプサラの復活>
踊り子は王室古典舞踏学院で養成されていたが、ポルポト政権時代に、300人を超す先生や踊り子の内、90%もの人々が処刑の対象となってしまった。
振付が記録された書物も、このときにほとんどが消失した。
だが、アプサラの踊りは、難を逃れた数人の先生によって息を吹き返した。
1989年から伝統舞踏の復活を目的に、子供たちを中心とした「舞踏教室」が始められたのだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)