チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年8月7日
アフガンのガンダーラ仏教僧院遺跡が中国の企業により爆破されようとしている
<世界平和>
昨日はもちろん、広島の原爆記念日だった。
私も一応被爆二世だ。
その時、学徒出陣で広島の病院で働かされていた亡き母が被爆した。
幸い、宇品という爆心地から少しは離れた場所だったこと、被爆時頑丈な建物の中の窓際ではないところにいたお陰で命は助かった。
でも、長い間、身体にガラスの破片が入ったままだったという。
母はこの日が来ると、その時のことを思い出さずにはおれないらしく、
「ビカドン」後の地獄の日々のことを泣きながら何度も話してくれた。
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今日は、
<アフガニスタンの古代仏教遺跡が中国の鉱山会社によりダイナマイトで爆破されよとしている>という話。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=27917&article=Ancient+Buddhist+site+faces+threat+from+mining
タリバンがバーミヤンを爆破したが、今度は中国の会社がアフガン政府承認のもとでガンダーラの僧院を爆破するというのだ。
遺跡はカブールに近く、名は「Mes Aynakの丘」。
この丘には何とBC2世紀に仏教僧院が建てられ、その後少なくとも6Cまで僧院は活動し続けており、それ以降も9Cまで人が住み続けていたという。
アフガン・フランス共同考古学調査団は今までに、ここから100体以上の仏像、仏塔、5mに及ぶブッダの横伏(涅槃か休息)像を発見した。
こんな貴重な遺跡をあることが分かっていながら、アフガン政府は遺跡一帯を銅鉱山として中国冶金科工集团公司に売ったのだ。
銅の埋蔵量は3000億円相当程度といわれているらしい。
採掘が始まれば、毎年、政府はここから420億円の利益を得るという。
ま、実際、日本や欧米の企業がこんな大そうな遺跡のある鉱山を買って、遺跡を爆破するなんてことは到底できないであろう。
国内外から強く非難されることは目に見えている。
また、遺跡の価値を知り、道徳も少しは持ち合わせているから。
でも中国ならできる、国内からの非難など皆無だし、外国がどう言おうとお構いなしだ。
遺跡をつぶすことは文革以来の伝統だ。
中国は資源のためなら、少々の非難は何とも思っていない。
フランスの考古学者たちはこの遺跡は「この地域でかつていかに仏教が広まっていたか、イスラム教徒といかに共存していたかについての新しい情報をもたらす、貴重な遺跡」と位置づけ、世界にこの遺跡の保存を訴え続ける、と言ってる。
「遺跡は巨大で驚くべき遺品が沢山ある。時は迫っている。数か月後にこの遺跡は破壊される。別の方法を考えなくてはならない。さもなければ消え去る」と、アフガニスタン国立考古学協会のNader Rassouli氏は語る。
学者たちは、「鉱山と遺跡は遺跡保護区を作ることで共存できる。何れ観光収入も期待できよう」という。
これを止めるには「カルザイがノーと言えば良いのだ」「これは国際問題だ」ともコメントする。
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私もかつてパキスタンの北のガンダーラ遺跡を訪れたことがある。
ガンダーラ仏に囲まれると何だか不思議な感覚に陥る。
顔や様式がまるでギリシャだ。実際、アレキサンドロス大王に連れられてきたギリシャ人の末裔たちも多かったことであろう。
かつて、大昔、ヨーロッパのアーリアの人々が仏教徒となり、僧侶となり、こんなところで修業していたのだ、と彼らがガンダーラ仏のような衣装を着て歩いている様を想像すると、不思議な感じを覚えるのだ。
以下、仏教を考える上にも、とてもよい参考になる、「仏像の起源」についての情報をWikipediaより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F
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「もともと、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。
また、原始仏教は宗教的側面もあったが、四諦や十二因縁という自然の摂理を観ずる哲学的側面の方がより強かったという理由も挙げられる。さらに釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかった。したがって初期仏教においては仏像というものは存在しなかった。
しかし、釈迦が入滅し時代を経ると、仏の教えを伝えるために図画化していくことになる。
仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。そのため人々は釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹などを礼拝していた。インドの初期仏教美術には仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)は多数あるが、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるのみであった。
仏像が出現したのは釈迦入滅後500年以上経ってからである。最初の仏像がどこでどのようなきっかけで制作されたかは明らかでないが、最初期に仏像の制作が始められたのは西北インド(現パキスタン)のガンダーラと、中インドのマトゥラーの2つの地域であり、おおむね紀元後1世紀頃のこととされている。
ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、決着を見ていない。しかし、仏像がさかんに造られるようになったのは紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。
マトゥラーの仏像がインド的であるのに対し、ガンダーラの仏像がギリシア彫刻のように彫りが深いのは、この地にさまざまな民族が侵入し、西方の文化を持ち込んだためである。紀元前330年頃にアレクサンドロス大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。その後も紀元前2世紀にはグレコ・バクトリア王国のギリシャ人の支配を受けるなど、西方文化の流入は続いた。つまりガンダーラの仏教美術とは、ギリシャ美術、ペルシャ文化に仏教が融合した結果であった。
もともと仏陀像は釈迦の像に限られていたが、仏教の展開に応じて、いろいろな像が生まれ、光背はペルシャ文化の影響と見られ、仏教はギリシャ文化の影響からか、偶像崇拝的性格を持つようになった。ガンダーラにおいても銘文から弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩などであることが明らかな作例が確認されている。
詳しくは高田修『仏像の起源』(岩波書店、初版1967年、復刊1994年ほか)『仏像の誕生』(岩波新書 1987年)、宮治昭『ガンダーラ仏の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)」
ガンダーラは初期大乗仏教の拠点でもあった。
仏教は時代とともに変身し続け今に至っている。
思えば遠くに来たものよ。
仏像のなかった時代も懐かしいなあ~
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)