チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年7月31日

ルンタ・レストランで働く元政治犯三人組みの証言

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現在、ダラムサラのルンタ・レストランで働く元良心の囚人三人組みの話。

ルンタ・レストランの三人組写真左よりロサン・ギャツォ、ダワ・ソナム、ツェリン・サンドゥップ。

まず、短くまとめられた証言書を持つロサン・ギャツォの話から。

法名ロサン・ダドゥル、俗名ロサン・ギャツォ。
私は1976年、ラサ近郊のメルド・グンカル県ギャマ地区第6村で生まれた。13歳まで家の手伝いを主にしていた。農閑期の冬には学校に通った時もある。14歳になった時、兄と共に僧侶となりガンデン僧院に入った。その頃僧院には700人ほどの僧侶がいた。

1989年、兄を含めたガンデン僧院の一団がラサで平和的抗議デモを行なった。それ以降2年以上、僧院には約200人の中国軍が駐屯し続けた。僧院内には政府の管理事務所が設置され、もしも僧侶が僧院の外に出る時には、一々この事務所に出頭し許可証を発行して貰わなければならなくなった。これは水を汲みに行く時もリンコル(僧院を巡る右遶)をする時などにも適用された。
そして、それ以降、僧院では毎日、当局の送りこんだ政治教育班による共産党の政治教育が行なわれるようになった。そこでは「分裂主義者であるダライ一味を糾弾せよ」がマントラ(真言)だった。

このように全く自由を奪われ、仏教の勉強もまともにできなくなった。
このようなことに我慢できなくなり、仲間4人が集まり抗議のデモをすることを決心した。デモの前に4人が集まり、「死を覚悟する儀式を行なった」。私はその時18歳になったばかりだった。

1992年6月10日、僧院仲間であるツェトン、ツェリン・バクド、ペンパ、ドゥンドゥップ、と私の4人はラサのパルコルで、チベットの国旗を掲げ、「チベットに独立を!」「中国人はチベットから出て行け!」「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と声を張り上げた。5分も経たない内に、我々は武装警官に囲まれ、殴り倒された。警察署に連れて行かれた後、「お前たちの裏で手を引いている者は誰か、吐け!」と言われた。全員「自分たちが決めただけで誰かに言われたわけでではない」と答えた。その後5,6人に囲まれ意識を失うまで滅多打ちにされた。それから、グツァ拘置所に送られた。

そこではまず、丸裸にされた。丸裸のまま部屋の外を歩かされたりもした。もちろんここでも最初に挨拶代わりの暴力を受けた。夕方拘置所の服を着せられ、第1棟5号室に入れられた。監房に入れられると、先に同じように政治犯として入れられていた、プルツォック僧院のパルデンとガンデン僧院のテンジンの2人がボロボロになった私の面倒をやさしく見てくれた。

それから二が月の間、毎週1,2回拘置所の尋問官と裁判所の役人から尋問を受けた。
尋問の時には必ず拷問を受ける。棍棒で殴られ、電気棒が気絶するまで使われた。気絶すると冷たい水をかけられた。頭の上で両手を縛られそのまま天井から長い間吊り下げられもした。「裏に誰がいるのか? ダライがいると言え!」と強要するばかりだが、私は「死んでも嘘は付かない」と決心していた。

数か月後、裁判もなく判決だと言って言い渡されたのが刑期5年と政治的権利剥奪2年であった。一緒にデモを行なったツェリン・バクドには刑期8年、政治的権利剥奪3年、ペンパには刑期7年、政治的権利剥奪3年、ドゥンドゥップには刑期6年、政治的権利剥奪2年が言い渡された。
その後、1992年11月他9名の政治犯と共にダプチ(タシ)刑務所に送られた。
その日、所持品の検査を受け囚人服が渡された。ここでも挨拶代わりに暴行された。
次の日から1か月間刑務所の規則に関する教育というものが行なわれた。

毎日の食事は、朝、卵大の蒸しパン1つとお茶1杯、昼と夜には蒸しパン2つに野菜スープだった。スープの中には砂やごみが混じっており慣れるまで吐き気で中々飲むことができなかった。常に空腹であった。全員日増しにやせ細っていった。

その後、集会が開かれ政治犯は労働のためにグループ分けされた。私には同じガンデンの僧侶ジャンペル・モンラムと共に、ビニール・ハウス内の野菜作りの仕事が与えられた。仕事は簡単ではなく、人糞を撒き、化学肥料を多量に使うので、夏などビニールハウスの中にいると倒れてしまうこともあった。仕事は他にセメント工場で数カ月働かされたこともある。

野菜作りにはノルマが与えられ、1年に15000元以上の利益を上げないと懲罰の対象とされた。その後の1年間、「新しい人間になる」ためという政治教育に毎日出席しなければならなかった。そこでは「考え方を変え」「分離主義的思想を捨てる」ことが強要された。また、政府の役人が刑務所視察に来たときには、行儀よく楽しそうに振る舞えと命令された。しかし、政治犯の内だれもこのような教育や命令に従う者はいなかった。その罰として、軍隊式訓練だといって朝と昼それぞれ1時間半に及ぶランニングなどの激しい運動が科せられた。みんな、十分な食事を取っておらず、病人も多かったが、これには政治犯全員が参加させられた。少しでも遅れると殴られた。夏の暑い日には長時間炎天下、直立姿勢を保つことが強要され、真冬には氷の上に素足で立たされた。少しでも動けば棍棒で殴られる。これはつらい拷問だった。

1997年6月9日、刑期を終了し、刑務所を出された。その日父と姉が迎えに来てくれ、本当に嬉しかった。身体はボロボロだった。病院で検査を受けたが入院を勧められた。結局その後1年間入院していた。

1998年から4年間ラサのある商店で働いていたが、度々公安が訪ねてきて質問された。2002年から他の元政治犯2人と共同で金を借り、ラサで卸しの店を始めた。2004年の初めごろから、再び公安がしばしば現れるようになった。元政治犯の3人が一緒に仕事をしているのは怪しい、再び何か政治的なことをやっているのではないかとの疑いをかけられた。仲間のパサンはラサの北派出所で尋問を受け、ダワ・ソナムはメルド・グンカルの警察に呼び出された。自分も常に見張られるようになった。このようにして、移動などの自由が拘束され、普通の生活を送ることが非常に難しくなった。

このような状況の中、私は亡命を決心した。他の仲間2人と共に、ネパールの国境ダムまでの移動許可書を金を積んで手に入れた。2005年5月仲間のパサン、ダワ・ソナムと共に国境を超えることに成功した。2005年5月19日カトマンドゥの難民収容所に辿り着いた。その後デリー経由でダラムサラの収容所に着き、心待ちにしていたダライ・ラマ法王との謁見を受けることもできた。
ダラムサラでは最初ソガ・ロプタ(トランジット・スクール)で学び、去年からルンタ・レストランで働いている。

ロサン・ギャツォの刺青 「チベット」彼の左手にはབོད་(チベット)と刺青が彫ってある。獄中で入れたという。

ルンタ・レストランの厨房には今3人の料理人がいるが3人とも同じような経歴を持つ。
書かれたものはないが他の2人の話も簡単にお知らせする。

年は3人とも同じ34歳だ。ロサン・ギャツォとほぼ同じ経歴を持つのは同じガンデン僧院出身のダワ・ソナムだ。彼もメルド・ゴンカルの出身で14歳の時ガンデンの僧侶となった。デモを行なったのはロサン・ギャツォたちがデモを行なった6日後であったという。
刑期も同じ5年だった。拷問の受け方もほぼ同じだ。

彼曰く「拷問の様子を本当に詳しく話ても、普通の人は信じることができないだろう。今生きているのが不思議なくらいだ。みんな同じように拷問を受けるが、死ぬかどうかは運の違いでしかない。中には頭を強く殴られ、本当に死んでしまう者もいる。自分が知っているだけでも2人いる。刑務所では拷問で死にそうになると、外に出すことが多い。中で死なすと問題となるからだ。死ななくても一生その後不具になる者も多い」と話していた。
彼はラサでもロサン・ギャツォと共に働き、その後一緒に亡命している。

3人目のツェリン・サンドゥップはラサ近郊のペンボの出身。子どもの時に父親が亡くなったのち、セラ僧院にいる伯父に面倒を見てもらっていたという。学校には行ったことがないがチベット語は僧侶である伯父さんから習っていたという。

18歳の時僧侶となり、ペンボにあるガンデン・チュコルリン僧院に入った。しかし、そのすぐ後1994年の春から僧院には政治教育班が常住するようになり、毎日、ダライ・ラマを非難する等の教育が行なわれた。これはつらい日々だった。数か月これが続いた後6月、仲間3人と共にデモをすることを決心した。

デモの後の話は上記の2人とほぼ同じという。
ただ、彼は尋問の時「自分が先導した」と言ったため6年の刑期を受けた。2000年に出獄したが、政治的権利剥奪の3年間は全く動きが取れなかった。しかし、田舎に帰って見ても、農地は政府に取り上げられた後であり、仕事が無かった。ラサでなんとか仕事を探して店で働いていたこともあるが、しばらくすると公安の職員が来て、店のオーナーに「こいつは元政治犯だ。彼に何かあったらお前も責任を取ることになるぞ」と脅す。オーナーは仕方なく彼を解雇する。そんなことが3度続いたという。

2005年の3月、そのような不自由さに耐えきれず亡命を決心した。亡命のルートは例のナンパラ峠超えだったという。25日間歩いた。その亡命グループは総勢25人だった。その中に子どもが10人含まれていたが、その内の2人は凍傷になった。
カトマンドゥに到着した後、1人の子どもは耳を切断し、もう1人は足の指を何本か切断せねばならなかったという。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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