チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年7月24日
I Saw It with My Own Eyes
まずは日本語の記事。
無差別発砲あったと批判 ラサ暴動鎮圧で人権団体
2010.7.23 00:20
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100723/chn1007230020000-n1.htm
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は22日までに、2008年に中国チベット自治区ラサなどチベット族居住地域で起きた暴動や抗議活動について、目撃者の証言を基にした報告書を発表。暴動鎮圧の際に無差別発砲を行うなど、中国当局による過剰な武力行使があったと批判した。
報告書は、08年3月14日にラサで起きた大規模暴動での鎮圧を含め、中国当局による無差別発砲が少なくとも4件あったと指摘。ラサ暴動では当局の部隊がデモの参加者らに対し、動かなくなるまで警棒で殴るなどの暴行も加えたとしている。
中国当局はこれまで、ラサ暴動での当局による発砲の事実を認めていない。四川省アバ県の暴動では警察による発砲を認めたが「自衛のため」と説明している。(共同)
日本のニュースではたったこれだけだが、世界中の主なメディアがこのレポートを詳しく取り上げている。
今回発表されたヒューマン・ライツ・ウオッチの報告書は2008年の中国政府によるチベット人弾圧の詳細を203人に及ぶ証言を基に73ページに及び分析した素晴らしい報告書だ。
何れ全文を東京の代表事務所等が訳して下さることを期待する。
共同さんの記事で気になるのは「中国当局による無差別発砲が少なくとも4件あったと指摘」と書かれていることだ。
これだと「ラサの4か所で発砲があった」或いは「4回だけあった」と誤解して読む人がいるような気がする。
実際にはチベットの4つの地域、ラサ(3月14日)、アバ(3月16日)、ドング(4月4日)、カンゼにおいて当局の発砲により多くの犠牲者が出たと報告書にはある。
それぞれの地域の沢山の証言を取り上げ、詳しく述べられている。
中国政府は発砲の事実を全く認めず、「デモ隊に対し制御した行動を取った」と今も主張しているが、これに対し、レポートでは「中国の保安部隊はデモを行なったチベット人に対し、無差別発砲を行ない、その他相手が地に倒れ、動かなくなるまで殴る蹴る等の暴力を加えた」と主張する。
また、「抗議する者やそうでない者に対しても、逮捕する時には暴力的拷問を加え、拘置所でも拷問し、食事を与えず、劣悪な衛生環境の中に捨て置いた。今も何百人ものチベット人が数えられることもなく拘束されたままである」という。
ヒューマン・ライト・ウオッチのアジア研究員であるNicholas Bequelin氏は
「この2年間保安部隊は実際の社会秩序への脅威に全く釣り合わない仕方で(抗議者に)対応してきた」と語り、さらに「中国政府はもっと違った対応の仕方ができたはずだ。これはチベットに対する中国の主権の問題などではなく、これは保安部隊が如何に振る舞ったかだ」とコメントする。
3月14日のラサの状況についてはこのブログでも、真っ先に亡命することに成功したソナムの証言
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51058869.html
や子どもたちの証言を何度も2008年に掲載した。
ソナムの証言はNHKにも取材してもらった。
レポートの中にはラサを中心にそれ以外の地域の証言も数多く載せられているが、ここでは
以下、ラサの何人かの証言だけを紹介する。
ペマ・ラキの証言:
「兵士たちはその日(3月14日)の午後までは現れなかった。私たちは好きなだけ、抗議の叫びを上げることができ、気持ちよかった。その後、兵士が現れ、催涙弾を発射し始めた。催涙弾が私の足を直撃し、歩けなくなった。
そして、無差別発砲が始まった。私たちの目の前で2人が撃たれて死んだ。一人はメンツィカン(チベット医学院)の門の前で死んだ。銃弾が彼の右わき腹を直撃した。
私たちはメンツィカンのドアを激しく叩いた。
その日病院はだれも助けてはいけないと命令されていた。もう一人はプダップ・ゾン食堂のドアの前で死んだ。殺された2人はまだ若く25,6歳だった。彼らの服は血だらけになっていた。
(ラサの南側でも)兵士たちは人々に向かって真っすぐ発砲していた。ジャンス・ルの方からやって来て、眼に入るすべてのチベット人に向かって発砲した。沢山の人たちが殺された。」
他のラサの住民:
「私は直接殺された人は見ていないが、友人がリクスン・ゴンポ寺の門の近くで12人が殺されたと言うのを聞いた」
また他の住民:
「突然警察の車が道を下って来た。車の中から発砲していた。同じ建物に住んでいたラクパ・ツェリンが壁に張り付いた時撃たれた。仲間が近くの家の中に彼を引きづり込んだが、その後すぐに彼は死んだ。
警官がすぐ後現れ、両親が拒んだにも関わらず彼の死体を無理やり奪い去って行った」
と、以下沢山の証言が載せられているが、切りが無いのでこれまでとする。
“I Saw It with My Own Eyes”と題されたレポート全文は以下のURLから、
http://www.hrw.org/node/91850
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)