チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年6月18日

続・TCVホール、法王のティーチング

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チベットの土の電柱 1985年、ウーセルさんのブログより 6月2日分、以下、先日の続き。

—————————-

「夢」や「雷光」や「雲」のよう、と言われるは、
我々の執着の対象を三時(過去、現在、未来)に分け、各々を喩えて言うのだ。

現象(法)を三時に分けるなら、例えば、まず、過去と言われるは、、、今、10時10分だから、これ以前が過去だ。
「夢は記憶の対象」と呼ばれる。
過去は記憶の中にあるだけで、他のどこにもない。
全て滅してしまった後だ。
そうだろう。
昔、こんなことがあった、と思いだし、ひどく腹を立て。
あんなこともあったと思いだし、執着心をおこす要はない。
怒りや執着の対象はもう過ぎ去ってしまい、もう、今ここにない。
夢の如しだ。
夢の中でこんなこと、あんなことがあったからと言って、その対象に怒ったり、執着するものじゃない、ということだ。

雷光「雷光」と譬えられるのが、「今・現在」だ。
今、実際に快不快の感覚が生起しているとしても、それはほんの一瞬のことでしかない。

「三時(過去、現在、未来)」という概念は、教義哲学の中でも取り上げられる。
説一切有部の三時を「実有」として見る見解が一つ。経量部の「現象は全て現在である」とする見解が一つ、というように、三時の定義も様々だ。
帰謬論証派は三時を「有為の事象」と捉える。
これらはそれぞれ深く考察された結論としての見解だ。

何れにせよ、「今」というものは、探そうとすると見つけられないものだ。
今は、、、2010年の8月、、じゃない6月(2日)の、午前10時と11分として、、、その1分=60秒のうち何秒かはもう過ぎ去った、、、一秒先がやってくる、、、。
1/2000秒の今(シャッタースピード?1/2000?で、飛ぶ?鳥の?今?を捕えた?今日?の一枚?)

時を区別して、年、月、日、時、分、秒と(範囲を次第に狭めて)探してみても、「今」は見つけられないじゃないか。
一秒前はもう過ぎ去った。一秒後は今から来る。
「今」をどこに定位させ得よう?

「今」が見つけられたか?
見つけられないだろう。
時と言うものは次から次へと生滅し、じっとしていてくれないものだ。
だから、時(過去・未来)というも、一つはもう過ぎ去ったもの、もう一つは今からくるものだ。
「今」はどこにもない。
「今」がなければ「過去」や「未来」をどうやって設定することができるのか?
「今」を基準に、その先に来るものを「未来」と呼び、過ぎ去ったものを「過去」と呼ぶのではないか?
過去・未来の設定・施設が不可能になる。
「今」がなければ、時はよりどころを失うことになろう。

2.6.2010 TCV Hallだから、「今」という現象には、分析智によって得ることができ、これだと言って指さす事のできる実体はないのだ。
深く考えない世俗の概念作用により(仮に)設定されているだけなのだ。
(世俗においては)こうして、今の秒が設定できる、今日も設定できる。今週が設定でき、今月が設定できる。
今年が設定できる。
さらに、今生が設定され、過去にあった前生、未来に来る来生が設定される。
これらはすべて、概念作用により、言葉によって仮設されているだけであり、対象(客体)の側にそのような何かが本当にあるわけではない。
そうじゃないかな?

過去とは夢の如くに過ぎ去ったもの。
夢とは記憶の対象でしかない。
「今」は「雷の光」のようなものだ。
一瞬でしかない。

雲「夢」、「電光」、、、次に「雲」の如し、と言われる。

我々のいう「未来」とは、今から新しく起こるであろうことについて、こんなになったらいいなとか、こう言うことにはなってほしくない、とか思い煩う「思い」でしかなく、未だ生じてはいないものだ。
例えば、どこかの空に「雲」が浮かんだからと言って、それだけでそこに「雨」が降るわけじゃない。
雲がある場所、全てに雨が降るわけでもない。
様々な条件が揃うことに依り、次第に条件が揃うことにより、その雲が雨の基体になるだけである。
これと同じように、有為の未来の事象とは、沢山の因や条件が集まることに依り、生起するのみである。
「未来に順序はない」と言われるはこのことだ。

しかし、自分たちは、過去の記憶の対象に執着したり、怒ったりする。
或は、今、現在の感覚に従い、目の前の対象に執着や怒りの心を起こす。
さらに、未来の、まだ生起していない事柄を想像して、心配や期待の心が捉えるものを対象として執着や怒りの心を起こす。
このような執着や怒りの心に対する、対治としてこれらの比喩が説かれたのだ。

雲(三時の)有為の事象(現象界)はまるで「夢」や「電光」や「雲」のようだと、、、
有為が執着や怒りの主な対象であるから、それらが無常の性をもつものであり、苦しみの性をもつものであり、自性、本質のないものであることを説くことにより、そのようなものに執着や怒りの心を起こすべきではないと教えているのだ。
執着の対象として指さすことのできる、実在するものは何もない。

この自性がないという話で、、、例えば、ちょっと考えてみるといい。

怒りが治まる前に見る相手と、怒りが治まった後に見る、同じ相手の印象に違いがあるかどうか?
考えて見るといい。
また例えば、いつもは親しくしている相手について、ある人があなたに「あいつは本当は悪い奴なのだ。お前に悪意を抱いている。厭なやつだ」という話をしたとして、その後その人に会ったときどう感じるか?
何か、変わった感じがあるか?
いつもは、会えば笑い合うような仲でも、そんな話を聞いた後では、「本当はこいつは悪、バカなんだ」とかの思いが起こって、会って笑いあっても、それも形だけのものとなり、心から笑えなかったりするんじゃないかな?

また、昨日まで好きでもなかった人のことを、誰かが「あの人はあんたのことを非常に褒めてた。あんたのことがよほど好きなようだ」というと、次に会った時には、昨日まで見ていた同じ相手のようには見えないことであろう。
思いに依って同じ対象でも印象が随分違って来るという例だ。

2.6.2010 TCV Hall逆に、いつも、悪い奴だと思っている人について、誰かが「彼はこのような立派なことをした」と言っても、「そんな訳はない。あいつは本物の悪だ。そんなことある訳がない」と思うかもしれない。
怒りの対象の醜さは、あたかも不変であるが如く、心に浮かんでいることの証拠だ。
不変、固定的なイメージがあるので、誰かが「あいつはいい奴だ。人が変わった」と言っても、「そんな訳がない」と考えるのだ。

その固定的な醜悪イメージは、対象の側に客観的に備わっているもので、因や条件に依存しない、本来的なもののように、心に現れているものだから、突然、「あいつはいい奴だ」と言われても、納得できないというわけだ。

このことから、執着や怒りの対象が不変で、独立して、言葉の力に依ってのみ存在するのではなく、客観的に対象の側から、不変のものとして、元からそうであったように心に現れ、現れに従って「その通りだ」と思い、自相をつかむ、そのような心を基にして執着や怒りの心が起こるということが解る。

これが要点だと思うか?
一つ、解ったか?

虹だから、仏教が「中観の見解」(空=無自性=縁起、中道)を説く、その主目的は、みんなの心を、執着や怒りを起こす基になる実体・自性から解放することであり。心を覆う無明を晴らすためである。
執着と怒りの心を完全に消し去るためには、まずこの(ない)実体をつかむという心を無くさなければならないのだ。

中観帰謬論証派の、世俗にも自性を認めない、という究極の見解に従い、
色即是空、空即是色、色不異空、空不異色」という四重の空を、見解の深まりとしての四段階として説くやり方がある。
まず「色即是空、空即是色」と説かれるは、色(物質的現象)そのものが実体を欠いた空なのだというのだ。
ここで、「空の基体」である、あちら側に現れている「色」を、「有る」ものとしておいて、それが勝義には成立しない、勝義(本当には)にはないのだと言うならば、「色即空」にならないだろう。

二万頌般若経(二万五千頌?)に「色は空によって空にされるのではなく、色がそのまま空なのだ」と言われているように、対象として現れている各々の色を分析するのではなく、言説上の存在をそのまま、「有る」として、これが勝義として成立しないのだと言うならば、「色が空によって空にされた」ことになる。
向こう側にあたり前のように現れている、その色そのものを、言葉に依ってあるだけだ、あちら側には指さすことができるものはまったくないのだ、と決定されるとき、「色即空」が成立する。
ここは、肝心なとこだと思わないか?
「色は空によって空にされるのではなく、色がそのまま空なのだ」と、般若心経の中に「色即是空」と言われるはこのことだ。

灯明一方、「空即是色」と言うは、「色」は自性が空であり、他の条件に依存して成立しているが故に様々な「色」、様々な変化が生じることができると言う意味だ。

我々は「色即是空」、色(物質)というと、何か外の物を指しているような気になることだろう。
ここで、言葉を入れ替えて「我即是空、空即是我」(我=自己=私)としてみてはどうか?
こう考えてみるといい。どうだろう。
「我」とか「私」と言われるものはある。
では、一体「私」は本当にはどこにあるのだろうと探してみると、、、「私」は見つからない。

自分の身の中に、頭の先から足の先まで探して見ても、「私」が見つけられないことははっきりしている。
では、「私の心」が「私」なのか?といえば、「心」にも粗いものから微細なものまで色々ある。
覚醒時の心(意識)がある。夢を見ている時の心がある。熟睡時の心がある。
さらに、死に行く時の心がある。生まれる時の心がある。
心には粗いものから、微細なものまで色々ある。
この中で、私というのはどの時のことなのか、と指さそうとしても、その対象は特定できない。

死の瞬間のもっとも微細な光明(ウーセル/クリヤーライト)の心が本当の私なのじゃないかと言っても、これも難しかろう、「私の光明」とかいうだろうし。
さらに、光明は現れる時もあり、消え去る時もある。(それに従い)「私」が現れた、「私」が消えた、とは言えないだろう。
光明が消えた時に「私」が消えさるわけじゃないだろう。
こうして、考えて行くと、「私」は身の中にも指さす場所がなく、心の中にも指さすべきものが全く何もないではないか。
じゃ、私は一体どこにいるのだ?
「私即空」。

一方、私が空であるが故に、特別の自性がないが故に、他に依ることによって成立する様々な「私」が設定できる。
五蘊に依って私は設定されているが故に、「私は男だ」「私は女だ」「私は老人だ」「私は老婆だ」「私は若者だ」「私は僧侶だ」ということができるのではないか。
五蘊に依って名付けられたものでないならば、「私は老人だ」「私は若者だ」などと言えないはずだ。
「私は男だ」「私は女だ」と言えないはずだ。
「男・女」は身体に依って名付けられているものであって、心に依って名付けられているのじゃないよな。

このように、「五蘊に依ってある私」を設定することができるから、身体が病気になった時「私は病気になった」ということができるし、身体が病気から治ったときに「私は治った」ということができるのだ。
心が不快な時「私は不快だ」と言え、心がハッピーな時に「私はハッピーだ」と言うことができる。
もしも、(五蘊と私が)お互い依存しながら存在しているのではなく、無関係とすれば、心が快・不快を感じている時「私が快だ、不快だ」ということもないことになろう。
「私」というものが、永遠で、唯一で、独立した、例えば、「魂(Soul、アートマン)」と呼ばれるようなものであるならば、身と心が完全な解放に至った時にも、「私が解放された」ということはできないことになろう。
「魂」というものがあるならば、一般の俗なる有情の魂は、いくら努力しても俗なる魂のままであって、仏になる、涅槃を得るということはあり得ないこととなろう。
俗なる普通の人の心が聖なる菩薩の心になると言うこともないことになる。

五蘊に依って「私」は(仮に)設定されているが故に、心が変わることに依り、単なる俗人が聖なる菩薩へ、阿羅漢へ、そして最後に仏になるということが可能なのだ。
「私」は心身に従い設定される。だから、心身が変わることにより「私が変わる」と言える。
このように理解して「我即是空、空即是我」と口ずさめば、何か効果があるかな?

「色」というと外を指さすが、(同様に内なる「私」を指さすとしても)「私」は真実に存在し、独立して、主人のように身体と心を持つという思いと共に「色即是空、空即是色」と唱えても、[無・何もない]のかな、とか思うぐらいのものかもしれない。
「我即是空、空即是我、我不異空、空不異我」と、ここでいう「空」は「一般的空」のことじゃない。
「我=私」の「空」のことだ。
一般的空というものはない。一般の空性というものもない。
基体(対象・客体)から離れた空性自体というものはどこにもない。
基体から離れた空性があるなら、空性が勝義に存在する、実体的に存在すると言えることにもなろう。
空性にも自性はない(空の空)とは、「空性とはある具体的な基体の存在の仕方について言ってるのであって、基体に関係ない、基体から離れた空性というものは設定できない」ということだ。

「我即是空、空即是我」とは、まず、「我」を求めて見つからない状態が「我」の上の「我即空」。
一方、「我」は「空」だから、「我」が存在することができるのだ。これが「空即我」。
「我」が「空」であって、他に依って存在しているが故に、「我」に様々な変化、進歩もありうるのだ。

月と雲空を瞑想する目的の中心は「我(真実存在・実在)執」を無くすためだ。
「我執」が無くならなければ、執着と怒りの心は無くならない。
ナーガールジュナもおっしゃっているように
「業と煩悩とか滅びてなくなるから、解脱がある。
業と煩悩とは分別思考から起こる。
ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。
しかし、戯論は空においては滅びる」

というわけだ。

(中論第十八章、第五偈、中村元訳)

———————————————————————–

以下録音切れの故、略。

続きは金沢で行なわれる「般若心経」講座でお聞きください。

マリア様が最近訳された法王解説の「中論」とか読んで、法王の講義を聴く前に、しっかり「空」について予習しておいてください。

追記:この訳はほんの試訳程度、参考程度です。
当方の理解不足による誤訳もあることでしょう。不適切な訳語もあるでしょう。
変な箇所があれば、もちろん、それは間違いなく「法王が間違われたのではなく、訳者が間違えたのだ」と了解して下さい。

ただ一つ、今回最後に珍しく法王の勘違いを一つ発見したのだ!
それは最後に引用されている、ナーガールジュナの一偈。
この時、法王は「確か、これは中論の第二十四章にある」とおっしゃった。
そこで、私はこの一偈を見つけるために「第二十四章」を漁った。
しかし、二三度読み返しても見つからない。

仕方なく、始めから、ページを繰り直し、やっと、「第十八章」の中に、この一偈を見つけ出した。

だから、法王だって何かを、勘違いをされることもあるということだ。
(ほんまに、稀な現象ではあるし、あったとしても上記のようにどうでもいい類の間違いだ)

そんな、法王の間違い、勘違いを探しながら、特に空のお話を聞くと言うのはどうでしょう?

もし見つけられたら、報告して下さい。

そうだ、観音菩薩などの化身が我々に何かを悟すために、わざと間違った言動や行動をされることをチベット語で「ゼバ・テンバ」という。
さしずめ今回は、私のようなものに、中論全部を読み返す機会を作り出すための方便として勘違いされた、という解釈が成り立つのでしょう?

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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