チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年5月19日
中国人との珍チベット・中国歴史論争
わざわざ、表に出すほどのことではないが、コメントでは一気に長く書けないのでこちらに回す。
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私の「ではチベットはいつ中国領になったのですか?」の質問に対し、ドルマさん(中国人と勝手に思わせて貰ってる)は以下のように答えられました。
「★ それは、中国がチベット族を夷荻と呼ばなくなった頃でしょう。そして、中国諸王朝と冊封関係に為った頃です。」
これは、今まで一度も私が聞いたことのない新説。新説にはそれなりの説明がないと理解しがたいのだが、勝手に反論させていただく。
まず、「中国がチベット族を夷荻と呼ばなくなった頃」とはいつごろの話しなのか?
と思いちょっと調べてみた。
この中国が言うところの「夷荻(いてき)」とは誰の事なのか?
そのように中国から嘗て呼ばれていたのか?
以下、「中国文明の歴史」岡田英弘氏 より抜粋・引用
>前221年の秦の始皇帝による中国統一以前の中国、中国以前の中国には
「東夷、西戎、南蛮、北荻」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは、中国人そのものは、どこからきたのであろうか?
中国人とは、これらの諸民族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては、「蛮」(ばん)「夷」(い)「戎」(じゅう)「荻」(てき)の子孫である。
>「東夷」は、黄河・准河の下流域の大デルタ地域の住民で、農耕と漁労を生業とする。・・・「夷」の字は低地人を意味する。
(※注:南方から都市文明をもたらした、夏人を指す。東南アジアの海洋民系とみられる。)
「西戎」は、・・・草原の遊牧民を指す。(※注:周や秦の王朝を立てた民族。)
「南蛮」は、・・・山地の焼畑農耕民を指す。
「北荻」は、・・・南モンゴル、大興安嶺の狩猟民をさす。(※注:殷王朝を作った。)
とある。結局この中にチベットは出てこない。含まれていない。
中国が「呼んでもいなかったもの」を「呼ばなくなる」ことはないので、一節目はこれで終り。
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次に「そして、中国諸王朝と冊封関係に為った頃です」はどうか?
この「冊封関係」というのもまた古い話で、隋、唐以前からの中国製概念の一つだ。
過去、チベットと中国がこの「冊封関係」になったという話は聞いたことがないので、まずこれを証明してほしい。
が、それより驚くのは、この「冊封関係」をもって「その国が中国の領土となった」印と見なすという考え方だ。
これで行くと、今の北朝鮮、韓国はおろか、東南アジアの多くの国々、そして日本も嘗て一度は中国とこの関係を結んだと、中国は主張するであろうから、必然的に一度は中国の領土であったということになる。
日本の南北朝、室町時代、実は日本は中国領だったということになる?!
これはまんざら冗談ではなく、韓国など、中国の命令に従い世界中40カ国以上の国の世界地図の上で韓国は中国領になっているという。
日本に対してもいずれ、この「冊封関係」を理由に侵略を正当化される可能性がないわけでなないということになる。
普通、中国人に「では、いつチベットは中国になったのですか?」と聞くと、「吐蕃」の頃とか「元」「清」の時代とか言った答えが帰って来る。
これらに対しての答えは簡単だから日本の一般の人に説明するまでもない。
なんなら、チベット完全独立論の立場を取る石濱先生や元、清時代の関係はグレーだと主張する山口瑞鳳先生の解説を繰り返してもいい。
それにしても、「元」モンゴル人や「清」満州人により中国の漢民族は支配されたのであり、被支配者がその時の支配者の権利を主張するというのは普通ではない。
これで行くと、その内ユーラシア大陸の大部分は嘗て中国領であったから、もしも将来中国に侵略されても、「大家族の元に帰っただけだ」と、中国は言えることになる。
ドルマさんの答えを聞いて思ったのは、1995年ころから始まった反日+中華思想キャンペーン時代に育った人たちはこのような歴史を教えられたのかな、、、?と。
次、もう一つ。
「★ 既にこの問いには答えていますが、「中道のアプローチ」を発表したことで、改めて(これが何度目なのか数えていません)亡命政府がチベットは中国と確認しています。」
「既にこの問いには答えていますが」というのはドルマさんの上の答えのことだ。
「亡命政府がチベットは中国と確認しています」
これは、今の話ですが、歴史の話ですか?文脈では歴史の話だったのが、いつの間にか今の話と誤解されているようだ。
亡命政府が嘗てのチベットを中国領だと確認したことは今までに一度もないし、今からもない。チベットが1950年以前独立国であったと言うことは歴史的事実だ。
亡命政府や中国政府が何と言おうと、歴史的事実は変えようがない。
これは公平で、自由な立場にある世界の歴史家たちが論ずべき議題だ。
チベットは独立国であったが、1950年から始まった中国共産党のチベット侵攻により独立を失った。(これも歴史的事実だ)
だから、もちろん、できることならもう一度独立を取り戻したい、その権利はもちろんチベット人にある、だが、平和主義、現実主義を掲げる法王を始めとするチベット人は譲歩することで話会いの機会を得ようと考え、80年代に路線変更して「中道路線」という再独立を諦めるという政策を取り始めた。
このことにより過去のチベットの歴史が変わるはずもない。
それよりも問題なのは法王が何度口を酸っぱくして「我々は独立を求めていない、言葉だけでない本物の自治を求めているだけだ」とおっしゃっているのに「ダライはうそつきだ」と言って信じない中国の指導部だ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)