チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年5月17日
パンチェン・ラマ11世が15年前キッドナップされた日
今日、5月17日はちょうど15年前1995年、パンチェン・ラマ11世、ゲンドゥン・チュキ・ニマ少年、当時6歳が、ナクチュ県の田舎の村から、無理やり中国当局によりどこかへ連れ去られた、という日だ。
この日、ニマ少年の家には両親とお姉さんが一緒にいた。
両親もお姉さんも一緒に連れ去られ、現在に至るまで、4人の消息は確認されないままだ。
今日、ダラムサラではこの日に合せ「パンチェン・リンポチェを返せ!」デモが行われた。
昼間には下ダラムサラまで4キロ下り、集会が行われた。
夕方からはキェンドル・ライト・ビジルが行われる。
一方、偽パンチェン・ラマとチベット人に呼ばれることとなった、ギェルツェン・ノルブ青年は、5月12日、ケグドの被災地を訪問させられた。
まさか、本気に被災者のチベット人たちが自分が訪問することで、みんなの心がいやされるだろうと思ってる訳ではあるまい。
現地のある人は「偽パンチェン・ラマがここに来ることは、自分たちの傷口に塩を塗られるようなものだ」と電話の中(RFA)で話していた。
テレビで見る限り、周りに集まっている(集められた)チベット人は高々数十人ほど。
それを囲い込み、一々ノルブ青年の演説に拍手してる軍隊の姿ばかりが目立った。
テレビでは、他に、確かに被災地のチベット人たちに救援金が渡されているシーンが流される。
札束と一緒に机の上には例の「配給証」が集められていた。
給付金は確かに、この証明書なしには貰えないようだ。
すでにケグド市内からも、中国の救援隊は撤退し、救援活動は終ったことになっている。
周辺の村々には最初から終りまで、中国から何の援助も来なかった。
この周辺の村々を助けて来たのは他のチベット圏から駆けつけた僧侶たちだった。
被災地のチベット人たちが頼りにしていた僧侶たちも追い出され、今は誰も助けにくる人はいないという。
それでも、厳しい検問を何とか潜りぬけた、何人かの個人や団体が今も被災地に入り細々と物資等を届けている。
この様子はテレビでも流されている。
テレビでも、もう、政府からの物資ではなく、民間からの物資配給の様子を流してい
る。後は引き続き札束と病院だ。
地震番組も青海テレビがかろうじて毎日、特集を続けているが、時間は短くなるばかり、それに代わって、毛沢東英雄伝を流している。
その中、若き毛氏役の俳優はほんと毛さんそっくりだ
毛さんは若い時から相当短気だったようで、映画の中でも度々怒ってる。
これを見ると、中国では「短気」は人の短所じゃないのかも、と感じてしまう。
(いや、たまたま目立っただけか、、、)
ワイロ等を払って現地に入れる私設チベット人救援隊はほんのわすかで、ほとんどの個人やトラック隊は、検問で追い返されているという。
現地は悪天候が続き、雪や霰、雹の降る寒い日が続いている。
このまま、厳寒の冬を耐え、来年まで薄いビニールテントで暮らせと言うのか?
助けたいという同胞を現地に行かせないままに。
和解の絶好のチャンスである今、被災者たちが熱望するダライ・ラマ法王を迎えることもなく。
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<彼ら(僧侶たち)は私たちのすべてです>
2010年5月17日 星期一
这篇写给RFA藏语节目的文章,数日后,我扩充为4千字的文章《玉树地震,僧侣救援的意义。图片为首发,乃震后赶赴灾区救援的喇嘛所拍。
“他们是我们的一切!”
文/唯色
4•14的玉树地震是惨烈的,在随后的救援中,正如一位藏人志愿者发回的讯息:“……永远铭记结古救援中让人泪流满面的那抹绛红色。”在灾区采访的外媒注意到全力投入救灾中的僧侣时,也注意到中国媒体避免提及僧侣们的表现,指出“在星期三为悼念而整天播放的电视画面上,也见不到这些在当地举目可见、身着绛红袈裟的僧侣们的身影。”(纽约时报)至于上万救援僧侣在震后第六天被勒令离开灾区,已是当局不得不承认的事实。
僧侣在玉树地震中的表现,在融合了慈悲利他的佛教精神、血浓于水的同胞情怀之中,实则还蕴含了某种抗衡的意义。长期以来,尤其是2008年遍及藏地的抗议发生之后,西藏僧侣的形象在中国被妖魔化,西藏僧侣的生存境遇在当地被囚犯化。而这次由于地震这场意外,僧侣们以不计代价的付出令人瞩目,至于民众对僧侣的信赖,从一位失去亲人的藏人所说的这句话中表露无遗:“他们是我们的一切!”
当局视僧侣们的救援行为是争夺民心,最终恼羞成怒,驱逐僧侣。而僧侣们所蒙受的不公反而激发包括媒体在内的同情,于是大白于天下,从而为更多人所知,扭转了僧侣们被污名化的形象,揭示了当局与僧侣之间的真实关系。而僧侣们从一开始的自发救援,到不得不中止救援,离开灾区,期间与民众、与官方及其军队、与媒体互动的行为,自始至终呈现出非常了不起的属于僧侣的抗争意义,在践行的过程中,西藏的宗教以及在民间的影响力成为关键性的支持。而强权在手的权力者尽管不满、难堪,但由于地震,由于民心,由于举世关注,只好暂且容忍。虽然容忍的时间短促,也已经为僧侣形象的真实呈现提供了可能,使得多少年来,当局不遗余力地妖魔化西藏僧侣所取得的成果,如覆水难收,一溃千里。
值得一提的是,在地震救援中,僧侣们以不同以往的勇气,理直气壮地接受媒体的采访,甚至主动去寻求媒体的采访。比如纽约时报的记者去采访救援僧侣时,他们直言不讳地披露事实,点明“我们只想救人。可他们把这次悲剧看成宣传的大好机会。”由于这些事实发生在公众场所而非只有僧侣存在的宗教场所,通过记者(不只是外媒记者,也有少数中国记者)的报道,传达出西藏僧侣想要告诉世人的话语,真可谓做得漂亮。
而在火葬成千地震遇难者的葬礼上,由于死亡以及处理死亡本来就是人生大事,超越民族、超越宗教、超越国家,因此其获得的关注是空前的。更由于当地的传统和文化,能够处理众多遇难者后事的,绝不是当局的救援队或者军队、警察,而只能是寺院和僧侣。从记录当时的影像来看,其场景之宏大、悲壮、庄严,尤其是完全迥异于所有其他文化而只属于当地、本族的文化,使得绛红色的僧侣在这一特殊时刻成为惊世骇俗的主角,无论当局如何淡化其影响力,仍然获得了震撼人心的效果,事实上这传达的是一种抗争的精神,但不是暴力的,而是有着“西藏特色”的非暴力不合作,完全地来源于自身。
著述了《弱者的武器》(Weapons of the weak)一书的人类学家斯科特(Scott,J.C.)认为,即使那些受压迫最深的人也拥有一些可以支配的抗争资源,可能比人们通常认定的还要多;他们能够利用这些资源来抵抗压迫,这种抵抗也往往比人们通常所理解的更为深刻、更为有效。是的,对于我们而言,抗争的资源就是与我们自己的宗教、传统和文化相关的一切,在玉树地震中四万救援僧侣的意义,即是灾难临头时,可以与各种灾难抗衡的力量。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)