チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年5月8日

4.14玉樹地震慈善基金会

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jyekundo写真は最後を除きウーセルさんのブログより。

長いこと、キグド(ジェクンド)のことを書かなかったが、もちろん忘れてたわけじゃない。
毎日、被災地のことが気になってしょうがない、状態の人はこのブログを読んでいて下さる人達の中にも大勢いらっしゃると思う。

そこで昨日と今日、地震後、キグド出身者たちによりダラムサラで結成された、「414イシュ・サヨン・ドゥンセル・ツォクチュン(4.14ユシュ(=キグド、ジェクンド)地震慰安協会/4.14玉樹地震慈善基金会)」の寄り合い場に行ってみた。
事務所のようなものがあるわけではなく、建設中のレストランが会合場になっているらしい。
最初、相手は二人だったが、その内一人また一人とそのロフトに集まりはじめ、最後は5,6人がああだこうだ状態で色んな情報を聞かせてくれた。

日本の代表事務所が義援金を募っておられるが、そのお金も、この会を通じて現地に贈られることになっている。もちろん日本だけでなく世界中の代表事務所から集められた募金が一旦この会に集まるのだ。
つまり、今や大変大事なお金を預かる、責任の大きいオフィシャルな救援団体になったのだ。

jyekundoその始まりは、地震が発生した4月14日の朝だという。
ダラムサラの街の中には、キグド出身者が以前より溜まり場とする「Tibetan Kitchen」というレストランがある。
14日の朝早くからそこに、近所にいるキグドの仲間たちが集まり始めた。
みんな現地の親兄弟に電話を掛け続け、情報を交換し合った。
しかし、中々通じない電話がたまたま通じても、相手は動揺が激しく、まともに話ができない人が多かったという。
次々に親、兄弟、親戚、知人の訃報が入る。みんな夢を見ているようだったという。
その内の一人ゲンドゥンは「朝方通じた電話も午後には通じないことが多かった。きっと充電が切れたためだろう。15日の11時頃だったか、妹に電話が通じた。ちょうどそのときまた地震があった。キャーという叫び声が聞こえ、辺りの人が叫んでいる声が続いて聞えて来た」という。

14日にはそのレストランに14,5人が集まったという。
ダラムサラ近辺にはキグド出身者が200人ほどいる。
その内の半数はTCVスジャ・スクールとソガ・スクールの生徒、ダラムサラのTCVにも若干のキグド出身の子どもがいる。

次の日、15日にはそこに70人が集まったという。

jyekundo以下レストランのオーナーであり、この会の中心人物であるクンガの話を紹介する。

「みんなお金を持ち寄ったが、それで最初は犠牲者を供養する法要を行なおうと思っていた。
実際そのためにもお金は使ったが、その内ダラムサラの色んな個人や団体から寄付したいという話が来るようになった。それで、まずは会というか協会のようなものを作った方がいいんじゃないか、という話になった。それはもう15日に出た話しだったが、正式には17日に発会式を行なった」

「最初は供養のために集めたお金だったが、周りからの寄付が集まるようになって来たので、寄付金を現地の救援金として使おうということになった」

私:「中国は今回の地震の犠牲者は2200人ほどと言ってるが、本当は何人ぐらいと思うか?」
クンガ:「ダラムサラ周辺のキグド出身者の親戚だけでも合わせて2000人が亡くなってる。いま、キグド出身者が多いデラドゥンでも調査している。まだ重複分のチェックが終わらないが、あちらは4000人と言ってる。南インドでも今調査が進んでいる。その内、亡命側で調査した数字がでるだろう。

葬儀は至る所で行なわれた。身元が判る者はそれぞれの家族が檀家となっている僧院に運ばれた。遠くナンチェンやカンゼまで運ばれた遺体もある。周辺の村々ではそれぞれの寺が葬儀を行なった。遺体を水葬にした僧院もあった。
それぞれの僧院は遺体の数を記録しているはずなので、もう少し落ち着けば集計されると思う。
地元の人たちは少なくとも1万人は死んだといってる。ある僧院などは1万5千人という。
私は少なくとも6~7000人ではないかと思う。

中国政府はキグドに配給票(住民票)がない人の数は入れてない。配給票はそこに5,6年いないと貰えない。キグドには昔から商売のためにカム、アムドのチベット人が沢山集っていた。
その人たちは死んでも数に入れられてない。
普通に昔から住んでる人でもこの配給票をもっていない人が沢山いる。
例えば、親戚のおばさんはこの配給票を持ってないがゆえに、今、緊急食糧の配給を貰うことができないと言ってた。

また、この数はキグド市内だけの話で、周辺には小さいが沢山村があり、ゴンパがある。これらの村での死者は数に入ってない。地震後、まだ、食糧やテントはおろか、一人の役人も軍人も、もちろん医者も来たことのない村が沢山あるのだ。」

jyekundo私「キグド周辺の被害状況や救援状況は?」
クンガ「まず、周辺と言えないぐらいのキグドから数キロしか離れていない、チャジャニ、シンジェと呼ばれる地区の話だ。
これらの地区には沢山の遊牧民強制移住住宅が建っていたが、壊滅状態だ。
その上、私ははっきり言えるのだが、地震後最低10日間、全く中国の救援隊はこの地区に入ることはなかったのだ。
この地区の人たちを救ったのはすべて僧侶たちだった。ガレキの下から生存者を救い出し、食糧を与えたのは僧侶たちだった。
キグドの西、10~15km離れたタングの村も壊滅した。タング・ゴンパの僧侶31人と、村人40人が亡くなったという。
40kmぐらい離れたルンボ村については、中国側の情報がある。家屋の80~90%が倒壊し、死者42人、負傷者809人と最近発表された。
バンチュ村は被害が少なく、バンチュ・ゴンパの僧侶200人の内、亡くなったのは一人だけ、村人も7人だけが亡くなったという。
その他、ドンダ村、ラップ村の周辺には小さな集落や村が沢山あるが、くわしい被害状況は分かっていない。
今も、テントや食料が支給されない村もある。

jyekundo村に中国の食糧やテントが届いても、それは最初から十分な数や量ではない。トラックは村の中心の僧院の前などに止まって、その辺にいる何家族かに適当にそれらを配って帰ってしまうそうだ。
ラップ村にいる親戚のおじさんは、ラップでは最近一人当たり12kgの小麦の配給があったと言ってた。
でも、全員に配られたわけではないそうだ。次、いつもらえるかも判らないという。」

私:「中国は義援金を配るといってるが、もう被災者たちは政府から金を貰ったのか?」
クンガ;「数日前にキグドの住民に一人当たり450元が配られたという。これは一月分という。一日当たり10元で一カ月300元、今月はプラス150元が特別に上乗せされたとかだ。
それにしても、一日10元(135円)じゃ多くないよな、、、
中国はお金はやるやると言ってるばかりで、本当にはこんな程度だ。
ニュースによれば義援金は(円換算)1000億円近く集まっているという。
それが本当ならその半分でもいい、被災者全員に配ってほしい。
どんなに素晴らしい家が建つことだろう。」

jyekundo私:「寄付はどうやって現地に届けるつもりか?どこに寄付するのか?秘密なら応えなくてもいいけど」
クンガ;「自分たちは何も隠さない。中国の高官が、、名前は忘れたが、言ったじゃないか、“海外にいるキグド出身は家族のことを心配して、里に帰りたいであろう、だから、そういう人たちは家族を慰問するためにキグドに行ってもよい”と。だから我々は堂々とキグドに行く。そして、できるだけ本当に援助を必要としている人々に配るつもりだ。
中国はただ口先だけで、そう言ったのかどうかが、これで判るだろう。」

私:「私の知り合いのキグド出身者は、お金を持ってキグドに到着したが、あまりに大勢の武装警官が至る所にいて、それを見ただけで怖くなってそのまま何もせずに次の町に行ってしまったそうだ。そう簡単に行くかな、、?」
クンガ:「チベットに入ると慣れない者は怖くて何もできなくなる。緊張からおかしくなるものもいる。
でも我々は違う、いざとなれば手段はいくらでもある。あの辺の大きな僧院など誰がお金を出したと思う。みな、外国に行ったチベット人たちがお金を出して建てたのだ。アメリカやヨーロッパにもキグド出身者は沢山いる」

私:「他に何か現地の人たちからの声はないか?」
クンガ;「この前、法王が死後第三週目のモンラムを行なわれたが、これが、現地ではなぜか“法王はダラムサラでキグドのためにカーラチャクラの潅頂を行なわれたという噂がたっているようだ。カーラチャクラの法要がインドで行なわれるときはチベット中のチベット人が特別の有難さを感じて、肉を絶ったり、寺に参ったりする。法王に来てもらいたいという気持ちがあるので、それがそんな大げさな噂になったのかもしれない。

家族を失って、気がふれた人も多いという。
地震の後は、負傷者が優先されて普通の病人は医療を受けられない状態が続いているとも聞く。病院は無くなって、持病を持つ者たちは薬ももらえないらしい」

私:「両親が亡くなり孤児となってしまった子どもたちを、政府は中国内に送っていると聞くが」
クンガ:「自分たちが今までに確認できたのは15人だけだ、今からもっと送られるだろう。もちろん政府は子どもたちは勉強のために学校に送られるといってる。しかし、チベット人たちは信じていない。中国の金持ちたちにもらわれるか、ただの使用人にされるのではないか、と心配している。それでなくとも、中国に連れて行かれたら、チベット人じゃなくなってしまうという心配が一番だ。
みんな今までのように、地元で子どもをチベット人として育てたいのだ」

私:「政府はキグド再生計画を発表したが、その際、今のキグドを移転するという話もあるが」
クンガ:「その事を現地の人たちも非常に心配しているという。まだ、どうなるか決まってないと思うが、そうなったら、今までの土地の所有権はどうなるのかを心配している。
キグドはチベットの中の大きな町の一つだが、その内でも一番チベット人が多数を占めるチベットの町だ。
これを機会に中国はこのチベットの町を中国の町に変えようとしているのだ。
観光の見世物の町にしようとしているのだ」

と、ここまで。

他の人たちからも話を聞いたが、それは省かせてもらい、次に、今日、話しを聞いたソガ・スクールのドルジェ25歳の話を紹介する。

jyekundo彼は2008年の冬、国境を徒歩で越えネパール経由でインドに亡命した。
キグドでは一度も学校に行ったことなかったという。
大人になり、勉強の大事さを自覚し、どうしても学校に行きたいと思い亡命したそうだ。
兄弟は男3人、女3人の6人で、その内二男はインドの僧院、三男である本人もインドに亡命している。
一人残って一家を支えていた長男が今回の地震で亡くなったという。

私:「最初にキグドで大きな地震があったことを知ったのはいつか?学校でアナウンスとかがあったのか?」
ドルジェ:「午前中は授業が始まっていたので、誰も地震のことは知らなかった。昼の休憩時間中に地震の話が生徒の間に伝わった。自分もすぐに家に電話したが、通じなかった。次の日の朝やっと電話が通じ、兄が亡くなったことを聞いた。
その後また、5.6日の間、掛らなかった。西寧にいる親戚とは連絡できたが、かれらも現地に電話が通じないと言ってた。
それから後にはまた通じるようになった。
兄は地震が起こった時にはまだ寝ていたようだ。
兄は落ちて来た天井スラブの下敷きとなり、即死だったという。
父も崩れた柱に挟まれ、上半身が埋まってしまったというが、みんなに助け上げられたという。」

私:「お父さんは何の仕事をしていたのか?」
ドルジェ:「父はもう年だから何もしてない。家のことはすべて長男がやってた。畑があって農業もやってたが、今は主に兄が軽トラックで運送業のようなことをやっていて、兄が家族全員を養っていた。
もう、家にはちゃんと働けるものがいない、これから大変だと思う」

私:「そうなら、今家族は君を必要としているのじゃないかな?帰ろうと思わなかったのか?」
ドルジェ:「確かにそうだ。もちろん、帰れるものならすぐに帰りたいと思った。でも、俺は歩いて山を越えてインドに来た。帰るとなるとまた隠れて山を越えないといけない。キグドに帰っても見つかれば逮捕される恐れがある。そう簡単に帰る決心はつかないよ。」

私:「ソガ・スクールにはキグド出身の生徒はどのくらいいるのか?」
ドルジェ:「27人だ。家族の内のだれかが亡くなっていないという者は少ない。親が亡くなった者、或は親代わりが亡くなったもの、兄弟、親戚、沢山亡くなってる。みんなできるだけ亡くなった親戚や知り合いの名前を記録するようにしている。

例えば、自分が住んでいたディニンゲ地区だけで300人が死んだ。これは名前が判っている者だけだ。自分がその内の50人を調べた。何で名前を記録しているかというと、49日目に大きなモンラムをダライ・ラマ法王が行なわれるが、その時のために集めているのだ。その日に犠牲者の名簿を法王にお渡しして、祈ってもらうためだ。」

私:「ディニンゲ地区には家が何軒ぐらいあったのか?」
ドルジェ:「400~500軒ぐらいか、、、」

私:「400~500世帯で300人死んだのか、、、10人に1人ぐらいかな?
被災者10万人なら1万人死んでてもおかしくないか、、、?」

ドルジェ:「残された兄の子供二人も中国に連れて行かれるかもしれないと家族は心配している。子供の母親はちゃんといるのに、政府は子供を教育のために中国の学校に送ってやるといってるらしい。」

私:「それは断ることができる話なのか?」
ドルジェ:「向こうが連れて行ってやるというのは命令と同じようなものだ。
断るのは難しいと思う。
中学、高校の授業は始まったが、小学校はまだほとんど再開されてないと聞いてる」

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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