チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2010年5月6日

ダライ・ラマ法王、TCVホールにアイルランドの盲目の親友を招待する。

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5.5.2010 TCV Hall昨日はほぼ一日中停電だった。
ブログが書けなかったという言い訳だ。午後からは天気が荒れ、雹が降った。

昨日、日本は「男の子の日」だったはずだが、多くの人にとっては連休が終わってしまう、という悲しい日だったのかも知れない。

今日も法王の写真たっぷり。クリックで大きくして楽しむこともできる。

ダラムサラには昨日、ダライ・ラマ法王の子どもたちへのプレゼントとして、一人の法王の「親友」が招かれた。

5.5.2010 TCV Hallアイルランド人Richard Moore、彼は全盲だ。
リチャードは10歳の時、ゴム弾を眉間に受け、両目の視力を失った。
1972年、北アイルランドのデリー(Derry)で事件は起こった。1970年代の北アイルランドではIRA(アイルランド共和軍)とイギリス軍が衝突を繰り返していた。
その時、リチャード少年は学校が終わり、家に帰る途中だった。
近くの警察署がIRAのデモ隊に火炎瓶などで襲われていた。
それに対し、イギリス軍はゴム弾を発砲した。
その流れ弾の一つが近くを通りかかった、リチャード少年の眉間に命中し、それ以来、彼は両目の視力を失った。

5.5.2010 TCV Hall彼が話すには「私は病院で最初目を覆われていた。自分の目が見えないのではなく、この覆いのせいで、見えないだけだと思っていた。だから、友達が来ると、“早くこの目隠しが取れるといいな、またフットボールできるしな、、”とか言ってた。
でも、そんなある日、お兄さんが病院の中庭に私を連れ出し、歩いている時に、“お前、何が起こったのか知ってるかい?”と聞いてきた。
“知ってるよ。ゴム弾が頭に当たったのさ”と答えた。
“それで、どうなったか知ってるか?”とさらに聞く“よく知らない”というと、お兄さんは“お前は目が見えなくなったんだよ、、、”と言った。

5.5.2010 TCV Hall私はその時、そのことをすぐに受け入れた。“デリーのフットボール・チームが今日負けたというニュースを聞いて、すぐにそのことを受け入れるようにだ”
だが、その夜は、眠れなかった。
大好きなお母さんとお父さんの笑顔をもう二度と見ることができない、と思い泣いた」
という。

その後、彼は盲目にも関わらず、大学を卒業し、結婚し、娘二人を得た。
ビジネスにも成功し、音楽活動も行なっていたが、ある時彼は思いたち、店を売って、それを資金にある団体を作った。
5.5.2010 TCV Hallそれは世界中の彼と同じような運命に遭った子どもたちを救うための団体“Children in Crossfire”だ。
この団体は交戦の狭間で負傷したり、親を亡くした子供たちを助けるだけでなく、貧しさの犠牲となる子どもたちも助けている。
ホームページはhttp://www.childrenincrossfire.org/

彼のすごいところはまだあって、彼は大きくなった後、彼をゴム弾で銃撃し失明させた、張本人である、軍人に会う。そして、彼に対する一かけらの恨み心もなく、その軍人チャーリーCharlesと友人になったという。
彼を撃ったその軍人チャーリー氏もリチャード氏と共にダラムサラまで来て会場で話しをされた。

5.5.2010 TCV Hallで、ダライ・ラマ法王はいつ、リチャード氏に出会ったのかというと。
法王いわく「私は2007年に北アイルランドを訪問した。その時ある会合の席でスピーチを頼まれた。控室で掛りの人は“今日集っている人たちは、紛争の犠牲者たちだ。それも双方の犠牲者の家族たちだ。だから、双方(カトリックとプロテスタント。この紛争はカトリック教徒とプロテスタント教徒の戦いでもあった)の遺族はお互いに恨み、憎み合っている。だから今、会場も緊張した雰囲気になっている、そのことを知っておいてほしい、と言われた。
私は双方をなだめる役だが、そのつもりでも結局双方いがみ合いが始まったら台無しだな、、、と少々心配しながら、会場に入った。
それで、いつものように私は“心を平安に保つ方法などを説いた後、もう、取り返しようがない過去の事は忘れ、恨み、憎しみの心を捨て、どうか前向きになってほしい”と訴えた。
すると、会場の雰囲気は次第に和み、笑顔を見せる人も出てきた。
私は少しは役になったかな?と思い安心した。
その後、リチャードに会ったのだ。」
という。

5.5.2010 TCV Hallされに法王は
「目は一番大事な知覚器官だ。普通、自分の目を誰かに潰されたら、“このやろう、誰がやったのだ、ただじゃおかないぞ”とか思うのが普通だろう。私だってそう思うかもしれない。
でも、彼が、それを知って最初に思ったことは“ああ、お母さんの笑顔をもう見ることができない”ということだった。
これは素晴らしいことだ。怒りでなく、愛の心が最初にあったことがその後のよい結果を生んだのだと思う。
その上、彼はその後、彼を全盲にした、軍人にあって友達になっている。
これも素晴らしいことだ。
だから、私は彼に“あなたは私のヒーローだ”と常に言ってる。
寛容、忍耐のヒーローだ。」
と彼を讃えられた。

5.5.2010 TCV Hall「私は彼に、もっと自身の話を世界のみんなに伝えるようにと言い、インドにも来てくださいと言っておいた。そして、今回こんな遠くまで、来て下さった。私一人に会ってもらうより、より多くの特にチベットの学生たちに彼を紹介したかった。だからこうしてこのホールにリチャードを招待したのだ」
と経緯を説明された。

法王がお帰りになった後、リチャードは活発な生徒たちの質問に次々応えられた。
その中で、「もしも、誰かに目を上げると言われれば、それを受けるか?」との質問に答え、
彼は「私の場合、視神経が破壊されているので、目だけをもらっても、視力は回復しないのだ。
私が病院にいる時、医者が最初父親に、私の目が見えなくなるだろうということを告げた。その時父はすぐに“‘Can I Give Him My Eyes’ 私の目を彼に与えることはできないか?”と医者に言ったという。
私は後でこのことを聞き、驚いた。そして、私の自伝の題を‘Can I Give Him My Eyes’とした。

5.5.2010 TCV Hall私は昨日、トランジット・スクール(ソガ・ロプタ)に行って話をした。
その後、事情を知らない、二人の生徒が私に目を上げることを申し出てくれた。
父親以外に、私に自分の目を上げよう、と言ってくれた人に出会ったのは初めてだった。
(ここで、リチャード氏は涙声になる)
本当にうれしかった、、、」と語り、
「もう目は見えなくてもいいと思う。目が見えてると外観に左右されて判断を誤ることも多い。」

「私が挫けることなく、こうして幸福な人生が送れているのは、何よりも私が愛情深い家庭に生まれたこと、その上に私を受け入れる良い社会があったこと、その後、教育を受ける機会が与えられたことだ」

「人を盲目にすることはできても、その人のビジョンを奪うことはできない。人は良きビジョンを持ち、そのために努力し、前進し、その目的を達成すべきだ。」

5.5.2010 TCV Hall「みんなが熱心にいい質問をしてくれ、また、たくさんの美しい言葉を聞くことができ、自分は何て幸運なんだろうと思う、、、私は本当に嬉しい。こんなに嬉しいことはなかったぐらいだ、、、(とここで、またリチャード氏涙声となり、言葉を詰まらせる)」

と、このように昨日は中々感動的なシーンが沢山あった。

この日、会場にはダラムサラ周辺にある5つのTCV・スクールから中学3年生以上の生徒1000人余りが招待されていた。

リチャード氏は今日、再び法王とゆっくり時を過ごされるそうですが、昨日は「もう明日法王と話しをしたらもう、次の日に死んでも悔いはない」とまで、おっしゃってた。

5.5.2010 TCV Hall法王も昨日は特別、彼と仲の良いところシーンを沢山見せて下さった。

たとえば、「目が見えないと自分の顔がどんなだか良く解らないだろうと思い、私は彼に会ったときはいつもメガネをはずし、顔を触ってもらうことにしている」、、と言って、その場でメガネをはずし、リチャード氏の両手を持って、ご自身の耳、鼻(これが私の鼻だ、とか言いながら)顎、頬、などを大げさに触らせたりしていらっしゃった

メガネを取った時の写真が多いのはそのせい。

5.5.2010 TCV Hall何度か、喉が渇いたろうと、ご自身でリチャード氏の口にコップを運ばれたりもしてた。

5.5.2010 TCV Hallリチャード「ときには目が見えないことで、悲しい気持にもなる。
例えば、私は娘が生まれるときに病院にいたが、生まれて来た娘の顔を見ることができなかった」

「自分の身に起こったことを恨んだり相手に対し、怒りを持ったことはない。
怒って傷つけられるのは自分の心だ。
怒りの犠牲者になるのは自分だ。
人は、リチャードが怒っているところを見たいのか、笑っているところを見たいのか?私が怒れば、周りの人たちは苦しむであろう。
だから怒らない。
忍耐、寛容、許しは自分への贈り物だ」

「ビジョンが達成できず、苦しいときには、ダライ・ラマ法王のことをを思い出すようにしている。
皆さんには素晴らしいリーダーがいる。リーダーから勇気とインスピレーションをいくらでも得ることだできる」

5.5.2010 TCV Hall

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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