チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年3月16日
2008年12月のラサ
3月14日のエントリーについてお詫びと訂正、プラス撮影者のコメントを載せる。
写真は同じくこの撮影者が2008年12月に撮影したもの。
14日の「この記事へのコメント」欄にドルマさんという方から以下のコメントを頂きました。
「ラサに住んでいる、チベット人もしくは非チベット人の、誰が撮影したのでしょう。
このような写真を見て、アレコレ勝手に想像して決め付けて思い込みを強めないほうが、良いですね。」
これを読んで、私には話がよくわからなくて、こちらもこれに対しいい加減なコメントをしました。
その後、ドルマさんから、「撮影日時も説明も何も無い写真を見せられるときは、自分勝手に日付や説明をしてはいけないと言っているだけです。
写真を見た人が勝手に思い込みや妄想を膨らませることを、写真を提供した人は意図しているのです。
上の三枚の写真は、警官たちは写されていることに気がついています。」というコメントを頂きました。
これには私も参った。
実はこれらの写真を見つけ私のブログに写真を掲載した時には、自分が撮影の日付について誤解している、ということには気づいていませんでした。
これはよく調べなかった自分がいけないのであって、写真を提供した人が意図したことではありません。表記の仕方にあいまいで確かに早とちりで誤解した人は他にもいると思いますが。
次の日には撮影者本人からのコメントが届きました。それにより、これらの写真が3月14日に撮られたものではないことが解りました。
よくよく一枚一枚の撮影情報を調べてみればちゃんと撮影日時が明記されていました。
ですから、これは全く私の早とちりの誤解です。失礼しました。
判った時にすぐに訂正を入れればよかったのですが、時間がないというので、表題のみ変更しました。それも正確ではなかった。
では、ありますが、一言、言わせてもらいたい。
これらの写真の多くは2008年の12月ごろ、おそらく外人により撮影されたものと考えられる。
2008年中のことではあるが、そのころ外人旅行者の旅行が許されていたと思われる。
チベット人がジョカンの周りに大勢集まるということで厳重な警戒態勢が引かれていた。
それでもドルマさんが指摘されているように「警官たちは写されていることに気がついています」という程度の緊張感でしかなかった。
だから、隠し撮りも多いにせよ、そうでないような写真も撮れたのであろう。
さて、私が早とちりした先の3月14日と、この頃を比べて見てはどうか。
本物の3月14日の写真は、私が見てないだけかもしれないが、まだお目にかかれない。
もちろん、普通じゃ撮れない。すべての外人をはじめとするよそ者はラサから追い出されている。
隠されているのだ。
一言も泣き叫ぶ声が外に漏れないように厳重に見張られている。
なぜ、隠すのか?それは嘘がばれないようにするために人間が自然に取る行動だ。
写真が撮れたその頃と比べ、2010年の3月10日~14日に掛けてのラサはその頃よりも警備は緩和されていただろうか?
そんなはずはないと思う。この写真に写っている武装警官や装甲車を倍にした数の警備が敷かれていたと想像できる。
その緊張感はこれらの写真から感じられるよりも強かったはずだ。
これが私の勝手な想像だ。
—
撮影者本人が写真発表後に「寄せられた質問に答える」という形でコメントを出している。
以下、その訳
1)これらの写真は、自由にダウンロードして、チベット人たちが経験している弾圧を広く知らせるための様々なプロジェクトやキャンペーンに利用したり、メディアに渡すことができる。
2)これらの写真を公開した目的は、ダライ・ラマ法王の3月10日の声明の中にある「チベットは圧倒的な中国軍の存在の下にあり、僧侶や尼僧は監獄の中のような生活を強いられている」という言葉を裏づけるためである。
3)夜の写真は(2008年12月に行なわれた)ジェ・ツォンカパの命日に行なわれた灯明供養祭の二夜の間にジョカンの前で撮影したものだ。警官の服装に変装した千人以上のPAP(武装警官)とPLA(人民解放軍)がジョカン前の広場で住民を威嚇するかのように隊列を組んでいた。
パルコルからジョカンへの入り口は正面以外はすべて閉鎖されていた。この正面入り口から入ろうとするチベット人たちは何百人もの警官の隊列を苦労して潜り抜けなければならない。ジョカンの周りにはラウド・スピーカーが配置され、爆音を響かせていた。基本的に「騒動をおこさないように!」と怒鳴っていた。
4)満月に行なわれるラサの守護神パルデン・ラモ祭の日には人々がリンコル(ポタラ等を巡るラサ一周の右遶)に向かう頃、街には数百人の兵士が6~12人の小隊に別れ自動小銃を持って巡回していた。それでもパルコルの中は人で溢れていた。ジョカンの中に入るには半日を要した。
5)これらのチベットの祭日の間、ラサ郊外のトゥルンには人民解放軍の装甲車(tanks)が有事に備えて待機していた。
6)ラサ近郊にあるすべての僧院と尼僧院には警察の派出所があり、装甲車が配備され、保安部隊により厳重に監視されていた。写真に写っているテントは彼ら保安部隊のものだ。辺りには沢山の警察の車もいた。おもな僧院では彼らの宿舎はテントではなく恒久的施設として建てられていた。
全ての僧侶、尼僧は登録され、愛国教育や尋問は日常化している。ラサに出かけるときには特別の許可証を取らなければならない。何人かの僧侶や尼僧は公然と泣きながら、「自分たちは中にいて幸せではない。厳しく管理され、抑圧されている。自由は全くなく、囚人のように扱われている」と訴えた。
7)夜7時を過ぎ暗くなれば、街は空っぽになる。通りには稀にタクシーも通るが見かけるのは警察と軍隊の車両ばかりだ。
街で僧衣を着ている僧侶や尼僧に出会うことはまずない。最近は街で僧衣姿を見ることは稀である。
8)その意図や目的からしても、名付けられていないだけで、実際にはここは戒厳令下にあると見えた。
9)このような状況にも関わらず、チベット人たちは、これらの写真からも窺えるように、チベット人としての大きなプライドを持って、一定の平常心を保ちながら、彼ら固有の生活を守り、これらの宗教的イベントにも大勢参加していた。毎週水曜日には、この曜日にダライ・ラマ法王がお生まれになったということで、いつにも増して、人々はリンコルを行ない、ジョカンやポタラにお参りし、香炉で香を焚く。このようなチベットの祝祭日は年に何度もあるが、そのとき街に住むチベット人とその他の漢人やウイグル人との差が浮き彫りとなる。「エコノミスト」の記事によれば、皮肉にも、パルコル周辺で巡礼者やツーリスト相手に商売をしている店のオーナーはそのほとんどがウイグル人であるという。
2010年3月14日 ケチョック記
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)