チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年3月11日
ダラムサラの3月10日
中国の侵略以後、抵抗運動の犠牲となった人々へ、慰霊の黙祷を捧げる法王。
今日もこれでもかと言うほど法王の写真を載せる。
昨日3月10日、ダラムサラで行なわれた「チベット民族平和蜂起51周年記念日」については、概要、日本の各メディアも当日すでに記事やら映像を送られたので、みなさんもご覧になったことでしょう。
日本メディアとしては、今年はN局とT局、K通信社にM新聞のみ。
全体でも去年この日に集まった世界中のメディアの数が約150だったのに比べ、今年はその半分以下だった。
N局は今回は短いニュース番組のみでしたが、バンコクからわざわざ来られたT局は時間もかけ、様々なインタビューも撮っておられる。きっとよい「チベット番組」ができることでしょう。
共同さんには、いつもチベットに対し特別の関心も持って頂いてると感じる。
式は黙祷、国家斉唱、「真実の祈り」斉唱の後、首相、議会議長のスピーチに続きダライ・ラマ法王が今年の「3月10日声明文」を読み上げられた。
この法王の声明とカシャックの声明は東京事務所が翻訳されたものが以下に載っている。
http://www.tibethouse.jp/home.html
その中で法王はチベット内の尼僧院の状況について「現在、中国指導部はチベット本土の多くの僧院において愛国再教育キャンペーンなどさまざまな政治キャンペーンを行なっています。中国指導部は、僧侶や尼僧から仏教を学び実践する機会を奪い取り、牢獄にいるような生活を強いています。そのような状況から、僧院は博物館のようになっています。チベット仏教を滅すべく意図的に行なわれていることなのです。」と、「牢獄」「博物館」という比喩を使い表現されている。
今回「東トルキスタン」という言葉を使ってウイグルの人々との連帯を表明したのは目立った部分だった。
このところを事務所訳は「苦難の末に弾圧が増した東トルキスタンの人々のこと、自由の拡大を求めて立ち上がり、懲役の実刑判決を受けた中国人有識者たちのことを思い起こしてください。私は、彼らと共に断固たる決意で立ち向かうことを表明したいと思います。」となっている。
最後の部分はちょっと誤解されかねない訳になってると感じた。
英語の原文は「I would like to express my solidarity and stand firmly with them.」
で、「stand with」を「立ち向かう」と訳したのであろうが、ここの「stand with 」
は「寄り添う。仲間となる」ぐらいの意味と思う。
この部分チベット語の原文は「ドゥンセム・ニャムケ」で、この意味は単に「苦しみを共有する/同情する」だ。この言葉に「断固たる決意で(中国に)立ち向かう」という意味は全くない。
で、最後は「真理が勝利する日が必ずやってくる。だから、今は忍を行じ、決して諦めるな!」
と結ばれた。
昨日の式典では「日本、フランス、ドイツ、オランダ、中国,、、等々からの使節も参加されている」と首相、議長、法王ともにスピーチで言及された。
確かに壇上には日本の僧衣を召した人びとが10人ほどいた。
数日前、某新聞社に電話で「牧野議員が10日の式典に出席するという情報があるが、ほんとか?」と聞かれた。私は「聞いてません。そうならいいですね、、、」と答えた。
それでも、ひょっとしてこの日牧野議員が日本から現れるかも知れないと期待したが、残念ながら来られなかったようだ。
この使節団体のことは後ほど少し明らかになった。
この日の使節団の中で、特に目立っていたのは「中国民主化活動家」の団体だった。20人以上いた。アメリカ在住者が中心で、その多くは天安門事件に関わり投獄された経験のある人たちだという。
法王は声明文を読み上げた後、特にこの使節団を褒めたたえられた。
式の後、いよいよこれからデモが始まるという時、近くに来た元外務大臣、現デリー代表、ジェツン・ペマ女史の旦那さんでもあるテンパ・ツェリン氏が、私の手を握って、パレスの方にひきつれて行こうとする。途中警備員に止められるが、強引に彼は私をパレスの中に連れていく。
「何事ですか?」と聞くと「今から法王の通訳をするんだ」
「はあ、突然それはないでしょう、、、怖いし、嫌ですよ、マリア(様)はいないのですか?
私はこれからデモなんですがね」
「いない、お前がやれ」
と否応なしの雰囲気。
しかし、最後の関門であるインドの警備室は私がパスポートを持っていないというので、中に入れないという。
私も内心、「その通りだ。入れないのだ」とインド側の言い分が通ることを願ったが、テンパ氏も強引で、最後はこれも「後から持ってくる」ことにして突破した。
さて、その通訳すべき日本人グループというのは日本からの使節として会場で紹介されていた、僧侶たちだった。
10人ほどのそのグループは年配の高僧風な方々を中心に背広姿のアメリカ人、インド人などにより構成されていた。
どのような方々だったのか、正直今もよくわからない。
ただ、名刺によれば多くのメンバーは「世界連邦日本仏教徒協議会」という団体の方々だったようだ。
私一人がジーパンにジャージ姿で通訳とはいえ、パレス内では異様に見え、恥ずかしくて小さくなっていた。
以下、会談中の法王のお話の幾つかを紹介する。
(メモを取りながらではなかったので、内容は参考程度)
法王は初めに「かつて多くのチベット人が苦しみを味わった、今日という特別の日に、このダラムサラまでお越しいただいたことに深く感謝する」と挨拶された。
その後「日本とチベットは古より交流がある。先代13世のころから関係がある。
第二次大戦のころにも関係はあった。」
とかつてのチベット・日本関係についてひとしきり話された。
そして「日本社会は今、経済的な打撃を受け、少々暗く、自信を失っているかもしれない。それに比べ中国は益々発展してきている、とか考えるかも知れない。
でもそれは物質的、経済的発展のみを発展の基準にすればの話だ。
たとえばインドは中国に比べらればまだ経済的には進んでいないかもしれない、しかし、インドにはそれ以外の大事な価値が生きている。
民主主義と人権がある。
言論の自由がある。これらは誇るべき大事な価値だ。
この点から見ればインドは中国より余程先に進んでいる。
日本には発展した民主主義があり、言論の自由がある。このことを忘れないで大事にすべきだ。
G8とかG20とか言って、主要各国が集まるが、いつも議題は経済的なことばかりだ。
人権のことなど他の大事なこともあるだろうに。」
と続けられた。
ここで私は、きっと法王は私と同じで、この日本からの団体さんがどのような人たちなのかについてはほとんどご存じないに違いない、と思った。
次のようなことも話された。
「オバマ氏は核廃絶に向けて努力している。唯一の被爆国である日本は積極的にオバマ氏のこの政策を支持すべきだ」
で、だいぶ長く法王の日本人用メッセージが続いた後、やっとこのグループの代表者と思しき年配の方が「私たちは現在の国連を不公平な組織と認識し、新しく世界連邦という組織を作ろうと努力している、、、、、」と始められた。
私は「はあ、!、、、、訳すのかな?、」とその説明を聞きながら思ってた。
法王は私の簡単にした説明を聞くと、「そうか、私も今の国連がいいとは思っていない。国連には各国政府の代表が集まるが、中にはその政府が人民を代表していないという国もある。政府の代表はただその政府の利害のためだけに動く。本当にはその国の人民のためにならないことも多い。
だから、各国の普通の人々を代表する者たちを集めた会議を開くといいと思う」と返された。
その後は終わりのあいさつとなり、すぐに写真会が始まった。
聞けば、この方々は別にこの特別の日に来ることは意図してなかったとのこと。
つまり日本からの政治的使節団なんかじゃないことは解りました。
東京の事務所とも関係がないそうです。
でも、この団体さんたちは壇上で目立ったし、集会の間、首相、議長、法王からともに「日本からのデレゲーション・使節」として紹介されたので、チベット人に対してはアピール度抜群でした。
私としては、本当に久しぶりに特別の日に、法王のそばに座ることができ、法王は何度か手も握ってくださり、「トポ・ニンバ/古い友人」と話しかけて下さる、という実に楽しい時間が過ごせたので、終わった後は弾んでパレスを後にしました。
おしかったことはカメラを置いて入ったので、絶好の法王接写のチャンスを逃してしまったことだ。
法王は午後から最近新しく亡命してきたチベット人たちに謁見した。
この後も、デモなど見る暇もなく速攻で記事と映像を送るN局のお手伝いをしている間にデモには完全に遅れてしまった。
「今回のデモでは最後にどうしても見たい(撮りたい)特別なシーンがあるから」最後の集会にだけは参加したかった。
例の刑期6年を受けたドゥンドゥップ・ワンチェン氏の妻ラモ・ツォさんが最後にスピーチすることになっていたのだ。
これは実は、特別に日本のI撮影隊の発案・要請により実現されるはこびになったものだった。
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以下私が参加できなかった、3月10日のダラムサラのデモの写真を盟友の野田雅也氏のアルバムよりお借りして掲載する。
転載するときにはくれぐれもコピーライトは野田くんにあることを明記されるように。
なにせ、私と違って彼はプロだから、ただで使わせてもらえるということは普通ないのだよ。
彼の写真を見ると、やっぱ、全然違うねプロは、、、といつも思うよ。
特にデモを撮らしたら彼に勝てる者はインドにはいないね。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)