チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年3月6日
アンナプルナ内院トレッキング・第七・八日目
アンナプルナ・トレッキング第七日目
ドバン2520mーーー>ジヌー(ジヌダンダ)1780m
トレッキングも終わりがちかい。
雪山もしだいに谷間の奥に遠ざかる。
2000m付近からグルンの村が始まり、また里に帰って来たことを知る。
モディ川最上流の小さな村シヌワのチャイ屋で休んだ。
ここのおばさんも日本語が喋れた。とにかくこの辺には日本語が話せる人がいくらでもいる。
みんな日本に数年いたことがある人たちだ。
一昔前には日本人トレッカーが多くて日本語ができるガイドの需要が高かった。
そのために旅行会社から日本に日本語習得のために送られたという人もいたが、大概は働いて金をためるために出稼ぎに行ったのだった。
ここのおばさんは埼玉の工場で数年働いていたという。
「日本はどうだった?よかった?」と聞くと。
「いや~、たいへんだよ、もう行こうとは思わないね。ここでのんびりしてた方がいいよ」と言ってました。
この日の楽しみは何と言っても温泉だった。
特にこの日の行程にはアップ・ダウンが多く、汗をかかざるを得ない長い坂が続いたので、お風呂への期待も大きくなっていた。
さらに、この温泉で大きなさっぱり感を味わうために5日間シャワーも浴びていなかったし。
温泉のあるジヌーには午後2時半ごろ到着した。
泊まった宿はこの辺ではめずらしくチベット人が経営するものだった。
気持のよい中庭にはタルチョが張ってあった。
厨房に入るとすべてがチベット風だった。カプセや干し肉がテーブルの上に盛られており、座るとさっそくチャンを勧められた。チャンを断るとバターティーが出てきた。
ここの厨房ではチメと同じポカラのタシ・ペルケル・キャンプのチベット人である母と娘が働いていた。
チメはこれまでの宿では見せなかったくつろぎ方を見せ、陽気な声で盛んにばかジョークで笑いを取っていた。
しばらく休んだ後、温泉に向かう。温泉はすぐそばにあるのではなく、さらに下の川まで200mは下らないといけないのだ。30分はかかる。
しかし、温泉への道は深い原生林の森の中を進む、クオリア一杯の道だった。
鳥も沢山いた。
河原に到着すると、そこが温泉だった。
露天の浴槽が3か所ある。一番下流のが一番熱いうちだった。
私は普通の人より熱めの湯が好きなのだが、ここの湯は一番熱いやつでもぬるかった。
おそらく38度ぐらいだ。それでも長く入っているとちょうど良くなった。
湯は無臭、無色透明で、石張りの湯船は清潔だった。
初めは誰も他に人はいなかったが、その内大勢やって来た。
ちょうどその頃、川の反対側の高い木々の上にハヌマーンという顔が黒くふさふさの毛が銀色の大型サルの群れもやって来た。この猿はダラムサラにも沢山いるので私には別に珍しくはなかった。
湯船に浸かった現地のポーターやガイドはサルが高い木から木へとジャンプするたびに奇声を上げ、さかんにサルに大声で話しかけていた。サルが登っていた木の高さは相当高かった。下の川までは20m以上はゆうにあった。いくらサルでもジャンプに失敗して落下すれば、ただでは済まないであろう高さだった。
だいぶ後になり我々への缶ビール持参で降りてきたYoYoに「なんでサルはわざわざあんな高くて危ない木に登るかね?」と言うと。
「なんでおれたちは高い場所に行くのかね?」と返してきた。
「、、、、」
なお、女性も水着等があれば入れる。
アンナプルナ・トレッキング八日目・最終日
ジヌー1780m―――>ビレタンティ1025m―――>ポカラ820m
今日はただひたすらモディ川に沿った道を下り、ポカラへの車の道が来ているビレタンティを目指す。相当長いがアップダウンは少なく歩きやすい。高度が下がると暑くなってくる。
以下、写真は通り過ぎた村々で見つけたワイルドな子どもや青年に美女、農家と花だ。
この辺の村の住人はそのほとんどがグルン族。
グルン族はイギリスがグルカ兵として有名にした「グルカ」の元になった民族ではあるが、今では実際のイギリスの傭兵である「グルカ兵」の中には他のモンゴル系であるタマン、ライ、シェルパ等もいるし最近はアーリア系民族でありこの辺にも沢山いるチャットリなども増えているという。
少々驚く話ではあるが、今もイギリス軍は年に一回このネパールまでやってきて、この国
でもっとも優秀そうな人材を引き抜きにくるのだ。
ネパールの特に田舎の青年ならだれしも、若い時から勉強ではなく身体を鍛え、いつしかイギリス軍に入ることを夢見るのだ。この試験に受かれば、一生その家族を含め、生活は安定した豊かなものとなると信じている。それほど給料がいいし、他の補償もしっかりしているという。
これに受かるのは毎年200人前後。もしもこれがだめなら次にいいのがシンガポールや香港の警官に採用されることだという。それもだめならインドの軍隊に入れることだって田舎の青年にとってはラッキーなことなのだ。最後はネパールの軍隊だがこれは月に7000ルピーほどにしかならず、いいとはいえないらしい。
最近は稀に勉強して大学に入ろうという青年も現れ始めたという。
軍隊がだめなら、次はクエートなどの中東産油国に行って建設現場やドライバーの仕事を探す。
それもだめならブローカーに数百万円払い、アメリカ、ヨーロッパ、日本などのビザを手に入れ、不法労働覚悟で出稼ぎに行く。
これらがここの人たちの出世道なのだ。5年、10年と外国で苦労して働き、首尾よく金をためることができたものは、ポカラやカトマンドゥにゲストハウス等を立て、結婚し、家庭を持ち、その後の人生を余裕で暮らすというのがその算段だ。もっとも現実は大概計算通りには行かないものだ。
ポカラで泊まっていたゲストハウスのオーナーは、日本で4年働いて貯めた金と友人からの借金とでゲストハウスを建て経営しているが、マオイスト問題と過当競争で日本人宿の経営はうまくいかず、私立学校に通う子供の教育費も高くて、生活は楽じゃないと言ってました。
内陸のネパールに世界は投資せず、電気もなく、もちろん産業はおくれたまま。たまに来るのは日本のナイーブ援助と中国の政治的、軍事的援助のみ。日本でも景色の美しいところは人が貧しいなんて、昔から言われているが、ここもそのたぐいのようだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)