チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年3月5日
アンナプルナ内院トレッキング・第六日目
今日の朝10時ごろダラムサラに帰ってきた。昨日は嵐だったとか。今日は快晴。雨後の空が青く澄みきり、山は真っ白に輝いている。
やっぱ、ダラムサラが一番と再確認。
法王は三日前から「サンワドゥッパ(秘密集会タントラ)」の教えをされている。
アンナプルナ・トレッキング六日目
ABC(4130m)―――>ドバン(Dobhan 2520m)
ABCに二日いてもいいかなと思っていたが、次の日は朝から曇り空。
夜中に星を見ようと起きた時も曇っていて星は見えなかった。
チメは昨日から頭が痛いと言ってるし、寒いしで、降りることに決めた。
下りは早い、あっという間にMBCを過ぎ、下界への門も通り過ぎ、聖域の山々も視界から消えていった。
行きに泊まったヒマラヤに昼ごろ着いたが、ここの飯はうまくなかったということで昼食は次のドバンで取ることにした。ヒマラヤを出たころから、空は俄かに黒い雲に覆われ、やがて雨が降り始めた。
雨はみぞれとなり、雷が派手に鳴って大きな雹が降り始めた。雹の後は雪となった。
我々3人はだれも雨具を持っておらず、びしょ濡れになりながら、ひたすら次のバッティ(宿)まで駆け下りた。
一時間ほどでドバンに着いた。早速、ずぶ濡れの服を脱いで、着替え、温かいチャイにあり付いてホットする。
写真はイエローポピーの苗。
イエローポピーは去年の夏、ランタン谷に咲いていたのを紹介した。
一メートルほどになり美しい黄色い花が沢山咲く。
この辺りには至る所に群生していた。夏には他の高山植物と共に谷間を彩ることであろう。
ドバンで雪の止むのを待っていたが、中々止まない。今日はこれまでとして、ここに泊まろうかと思い始めていた。
上から何度も同じ宿になったことのあるスランス人グループが雨具完全装備で降りてきた。
YoYoはいかにも金持ちそうなそのフランス人団体さんとは混じりたがらなかった。
「宿を取るなら他のバッティにしよう」と言い始めた。
次に、中国人と思われるグループが下りてきた。
これを見て「Oh! フレンチ、チャイナ、Oh.No!」と叫ぶ。
私も「これでこの宿はバツだね」と同意して、隣の宿に移ることにした。
夕方、空はまた晴れ、マチャプチャレのピークだけが真上に浮かび上がっていた。
「マチャプチャレ」とは「魚の尾」の意だが、ここから見るとその名前の由来が納得できる。
右前方の南のピークが7000mに3mだけ足りない6997m、左後ろのピークは6993m。
南と北の岩壁はほぼ垂直に近く、雪が付くこともない。
この山は聖山として地元の人びとに崇められている。聖山であるが故に登山許可は下りない。
本当はどうだか判らないが、未だ誰も登ったことがないことになっている。
遅くなったが、宿の話をちょっとしよう。
宿はこの街道1~2時間ごとにある。たいがい3,4軒かたまってある。
どの宿の仕様もほぼ同様。部屋は木張りで2,3ベッドが標準。宿代はどこも一部屋一泊200ルピー(250円)だった。
宿代は安いが、飯はちょっと高い。私は山に入るとネパール定食の「ダルバート」しか食べない。
外人以外はポーターもガイドもみんなこれしか食べない。何杯でもお変わりできる。みんな驚くほどよく食う。私も行には自分でも驚くほど大食いしたが、帰りには自然にお代りはしなくなっていた。
この値段は上に行くほど高くなる300ルピー以下から始まり、ベースでは400ルピーになる。
実はこの値段にはポーターやガイドの飯代も入っているのだ。ルートにはよるがここではポーターにも50ルピー払わせていた。
一人で食うと高いが、ポーター、ガイドをつれて食うと実際にはそれほど高くないというわけだ。
一人や二人のトレッカーが、よくガイドとポーターを連れて歩いているのを見かけるが、これは如何なものかと思う。一人でも道に迷うようなことはまずない。ポーターを雇うことは、、、これを一度味わうと癖になるほど楽で楽しい。私の荷物は10キロにもならないのでポーターには何でもない。ポーターに一日700ルピー払えば彼にもいい収入になる。それに比べガイドと呼ばれるもの達は荷物も運ばないのにポーターの倍のお金を取る。ポーターはガイドよりも地元の道の事をよく知っており、宿にも案内してくれる。
要は、ガイドは不要だし、見てくれも大名行列みたいでみっともないと言いたいのだ。
ここで、これからこの方面にトレッキングされる人のために、今回同行してくれたタシ・ペルケル・キャンプのチメ氏の携帯番号をお知らせする。チベット語でなくても英語も何とか話せます。ぜひ使ってやってください。彼と行けば、楽で楽しいトレッキングになること間違いなしです。ついでにチベット・キャンプも案内してもらうといいでしょう。
+977-9806501078
ドバンの宿には後から韓国人グループが入って来た。
彼らの夕食は目立った。国から食材を何でも持ち込み、料理人も特別に雇っていた。
食卓にはまず、韓国製の金属製の箸が並べられる。
その後キムチ、ノリ、漬物が並び、味噌汁と小さなお椀に盛られた白米が出る。
ここで、これらを見ると、日本とほとんど同じだなと思う。
ま、かつて沢山来ていた日本人グループの中には、これと同じようなことしてたグループも多かったかもしれない。
朝の三時ごろ目が覚めたので、外に出て見ると、狭い谷間の上に輝く帯となって星が瞬いていた。
写真は失敗作だが、大きくしてみると少しは感じが味わえるかも?
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)