チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年3月3日
アンナプルナ内院トレッキング・第4&5日目
今日はカトマンドゥ最後の日、明日インドに帰る。
カトマンドゥで良くないことは昼間電気が二時間ほどしか来なくて、その間しか近くのネット屋が開かないのでネットもできないということだ。
それでも今日は一気にアンナプルナ・ベースまでの二日分を載せるつもりだ。
今日のはぜひ写真をクリックして大きくして見てほしいと思う。
アンナプルナ内院トレッキング四日目
ヒマラヤ(2900m)―――>マチャプチャレ・ベース・キャンプ(MBC、3700m)
ヒマラヤを朝6時半に出発。朝食は次のダウラリで取ることにする。同じ宿にはフランス人グループが大勢いたので、朝食を頼んでいると遅くなると思ったのだ。それと、ダウラリを過ぎると雪道になると聞いていたので、雪がかたいうちに登りたいと思ったのだ。
写真はダウラリ3200m付近。谷の奥に見えるのはガンガプルナ(Ganggapurna 7454m)
ダウラリを過ぎ、間もなく行くと道には丸太が掛けてあり、「この先雪崩危険地帯故迂回せよ」という立て札が立っていた。見上げると左手には千メートル以上の絶壁がそそり立っている。
右手の河原に向けて、雪の上に細い道があった。丸太の橋を渡り雪の積もった河原の道を行く。
道は曲がりくねっており、登り降りも多くて判りにくい。急な坂になると滑りやすい。それでも、私の靴はいつものようにただの運動靴だが、杖一本あるので、問題はなかった。朝早く雪が固まっていたので埋まることも少なかった。
4時間ほど聖域の門のような、直腸のような、狭い渓谷を登ると、視界が急に開け内院に入ったことが知覚された。
MBCのロッジが見える。
左手にはマチャプチャレからアンナプルナⅢへの切立った峰がつづき、右手にはヒウンチュリからアンナプルナ・サウスそして主峰アンナプルナⅠ(8091m)の頂も初めて見ることができた。
MBCには12時過ぎに到着。
この先にある最終目的地のABC=アンナプルナ・ベース・キャンプまでは二時間ほどだ。
南アンナプルナ氷河のサイド・モレーンの雪原をさらに400mほど登れば着く。
しかし、時間も余っていることだし、急に高度を上げれば高山症状を来す可能性もあるということで、この日はMBCに泊まることにした。
バルハチュリ(Bharha Chuli /Fang 7647m)
コテージで休んでいると、道中何度か会って話を交わしたフランス人の若者が登って来た。
彼もここに泊まるようだ。彼や私のような一人トレッカーは今では稀のようだった。
かつては自分で自分の荷物を担いで登る個人トレッカーが主流だった。
今は、とにかくフランスと韓国のグループがどこでも目立っていた。
彼は普段はドミを所望するらしいが、あいにくその宿にはドミはなかった。
彼が「あんたとルームシェアーしてもいいか?」と聞いて来た。
私は基本的にルームシェアーしない方針だが、こんな山奥のことだし、まあ、いいか、という気になって「ウイ、、、シブブレ(あんたがそうしたいなら、いいんじゃない)」と答えた。
お陰で、この日から三日間、遠い記憶を頼りに錆びついたスランス語をとつとつと繰り出さねばならぬ羽目になった。(それにしても、今さらだが、フランス人はよくしゃべる)
ノルマンディー出のYoYoと名乗る29歳の彼は、全くのボヘミアンでもう何年も世界中で仕事しながら旅を続けているようだった。
昼間は明るくジョークを飛ばすが、夜になると真面目な顔して盛んに何かノートに記しているのだった。
アンナプルナ・トレッキング第五日目
MBC(マチャプチャレ・ベース・キャンプ3700m)―――>ABC(アンナプルナ・ベース・キャンプ4130m)
朝7時半、MBCを出る。雪はよく固まっていて歩きやすい。
サクサクといい音がする。固められた踏み後をそれ、誰も歩いていない雪原の道を勝手に行っても埋まることはなかった。これが午後だと、踏み後をそれればすぐにひざ上まで埋まってしまうのだ。
しばらく行くとマチャプチャレの左肩から陽が昇った。
辺りの雪原が一斉に輝き、眩しくて、サングラスをしていても目がいたいほどになった。
つまんない話だが、私はとにかくこれ以上日焼けしたくないという思いがあって、海や山は避けたいと常に思っている。だのに、またもや最悪の状況に陥ったというわけだ。
二時間ほどで今回のトレッキングの最終目的地ABCに到着した。
写真はABCの上方にあるタルチョ塚。右手にベースの建物が見える。
これらのタルチョはシェルパを中心にチベット系のガイドやポーターがここまで持ってきて祈りと共に括りつけたものと思われる。もっとも最近は地元のグルン人の仏教徒化が進み、彼らも祝い事にカタを使ったり、祈りのためにタルチョを使ったりし始めたと聞いた。だから、このタルチョにはグルン人の祈りも込められているかもしれない。
気がつけば、急に思い立ったせいか、私は今回はタルチョもゲダル(チベット国旗)も持ってくるのを忘れていた。
右にアンナプルナ・サウス、左にアンナプルナⅠをバックにABCで記念写真
右端がYoYo,真ん中がチメ。
この後YoYoは時間をもてあましたのか、今日はここに泊まらずに下に降りると言う。
それではこれまで、と別れのあいさつをした。
しかし、昼過ぎになって再びABCまで彼は登って来た。
「何で、また帰ってきたの?」と聞くと、「君たちともっといたいと思ったのさ、、、」と可愛いことを言っていた。気が変わりやすい若者なのだろう。それにしてもご苦労なことに、この高地でMBCまでの道を往復するとは、余程元気が有り余っているものと思われた。
アンナプルナⅠ(AnnapurnaⅠ 8091m 世界第10位の高峰)
「アンナ」は「穀類」、「プルナ」は「沢山ある」との意。
まとめて「五穀豊穣」をもたらす山という意味と思われる。
ガンダルバ・チュリ(Gandharwa Chuli 6243m)
この山、確かによく見れば、両翼を広げたインド起源の神話上の聖鳥、ガンダルバに似ていなくもない。
「チュリ」は「峰・頂」の意。
写真左手はアンナプルナⅠだがそこから右手に続く稜線上には7500m級のピークが連続する。
一番奥に見える白いピークはこの辺りで唯一チベット名が付けられているカンサル・カン(Khangsar Kang/Rock Noir 7483m)だ。カンサル・カンは訳せば「新雪山」となる。ちょうどこの山の裏あたりからチベット圏が始まっている。
その右手に突き出た白いピークはシング・チュリ(Singu Chuli 6501m)。
このピークは一番右手に見えるタルプ・チュリ(Tharpu Chuli/Tent Peak 5695m)通称・テントピークとともにABCから数日から一週間の軽い登山で、登ることができる。
もっとも高度があるのでここで高度順応期間が必要だろう。
装備については、何も持ってなくても、このABCでアイゼン、ピッケル、ロープにテントを借り、ガイドやポーターも雇うことができる。
ここまで来ても元気と時間が余っている人は行ってくるがよい。
装備とは呼べないにしても特に冬のトレッキングには厚手の羽毛スリーピング・バッグとジャケットがいるが、これはカトマンドゥやポカラのトレッキング・ショップでレンタルできる。一日たったの40ルピー(50円)ずつ。リュックは買っても3000円ほど。そのほか何でも日本の10分の1ほどで(コピーだが)手に入る。終わったら誰かにやって帰ればいい。
靴も登山しない限り普通の履きなれた運動靴で十分だ。
連れのチメの靴は底に穴のあいたバスケット・シューズだった。いくらなんでもこれじゃABCへの雪道はきつかろうと思い、「チメはABCには行かないでMBCで待ってればいい」と言ったのだが。「いや。行きたいよ。靴の中にビニール巻くから大丈夫」といってついて来た。
思い出せば、私も昔は雪道を靴にビニール巻いてよく登ったものだった。
ようするに、何も用意してなくてもトレッキングにはすぐに行けるということだ。
偶然目撃した雪崩
昼から空は曇り寒くなって来た。ぼぉ~と外に立っていた時、突然ゴ~~という不気味な音が谷間を震わせた。
すぐに辺りを見渡すとアンナプルナ・サウスの東面に雪煙りが見えた。
雪崩だ!と判った。その時カメラを持っていなかった。素早くカメラを取りに部屋に走った。
部屋の前から撮れた時にはすでにかなり下まで崩れ落ちていた。
雪崩は相当大きなものだった。長い間ゴ~~という怖い音は谷間に反響していた。
あの辺りにもしも人がいれば、助からなかったことは間違いないと思われた。
右にマチャプチャレ、真ん中がガンダルバ・チュリ、左にアンナプルナⅢ(7555m)
ABCの宿には、ここまで来たことの印を記念として残しておきたいと思うもの達が自分の写真などと共にコメントを付けて壁に貼り付けているのを沢山目にした。
このところ急に中国人も増えているようで漢字のコメントも多かった。
しかし、ここには写っていないが圧倒的に目立つのが韓国人グループのミニ旗だった。
日本人には結局ここまで一人も出会わなかった。
日本人は性格的にここいら辺に来たからと言って記念旗を掲げていく人はいないと思われるが、それにしても少ない。
かつてはネパールの山には日本人トレッカーが溢れていた。
だから、この辺の人は日本語が話せる人が驚くほど多い。
10数年前まで、まだマオイストがこの国を騒がせる前まで日本人は多かった。
しかし、危険許容度の極めて低い日本人たちは、それ以後「ネパールは危ない」との思い込みから山に来る人は激減した。
その間もフランス人はコンスタントにやってきていたと聞く。
Streaked Rosefinch (Eastern Great Rosefinch)19cm Female
冬のABCにに居残る野鳥はこの子ぐらいだ。
この高山種の野鳥は肺と心臓が高地仕様になっている。
夏には5000mを超える場所まで行くという。
で、マオイスト騒ぎが一応収まった数年まえからトレッカーは順調にまた増えはじめた。
しかし、日本人はもう帰って来ず、代わって韓国人と中国人が増えた。
最近の日本人の若者はもう外国に行きたがらないとも聞いた。
何でもある日本でゲームなどしている方が楽しいらしい。
結局外向きの好奇心が薄れてきた証拠であろう。
国が興隆する時期には外国への好奇心、冒険心も旺盛だが、それも終わったという訳で、この現象も日本が衰退期に入った一つの証拠なのかもしれないと感じる。
Streaked Rosefinch (Eastern Great Rosefinch)19cm Male
日本は今や「マンガ」と「かわいい文化」で世界に知られる過去の国になったという訳だ。
確かに今の日本には可愛くて女性的な首相がいるしね。
昔は夏になれば海焼けの、冬には雪焼けの男たちをよく見かけたものだが最近はそんな人も見かけないようだ。だから、私は日本に行くと目立って黒いのでいやなのだ。
かつてのテストステロン社会への反動から戦後はエストロゲン社会を目指した結果であろう。
一見平和でいいようだが、周りを見渡すと不安を感じる。
ここまで来て日本を思だすこともないか、、、
今日はひな祭りか、姉の誕生日だ、メールしないと。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)