チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年12月2日

デリー、ヤムナ川の野鳥

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Delhi Yamuna River今回はインドの首都デリーを流れるヤムナ川の野鳥を紹介します。

ダラムサラからデリーに夜行列車で行くと、朝早くオールド・デリー駅に列車が着く。
日本行きのフライトは夜9時半ということで時間が余る。
私はみんなが向かうオールド・デリー駅の正面ゲートとは反対側に向かって歩く。
正面に出るとタクシーやリキシャ・マンがドッと寄って来るので、それを避けるためと向かう先が近いからだ。
デリーで時間があるときにはいつもマジュヌ・カティーラと言うところにあるチベタン・キャンプに行く。

朝早いこともあり、駅裏はひっそりしていた。
タクシーもリキシャも見当たらない。
しばらく先に歩いているとリキシャが来たので止める。
「マジュヌ・カティーラまで幾ら?」と聞くと
「80ルピー」という。(1ルピー=2円)
これはかなり正直な運ちゃんだ。駅の正面に出るとリキシャでも150ルピーと言ってくる。
本当は50ルピーでも行かせることができるが、「ティゲ・ヘー(OK)」と乗り込む。
この時期、朝のデリーは寒い、だからタクシーにしようと思っていたのに、結局また風通しのよいリキシャに乗ってる。貧乏性とはこのことだ。

私はここで車中我慢していたたばこを一服吸おうとする。
しかし、たいていは風が強くてなかなか火をつけることが難しい。
こういうときはライターを持った手を腹の中に通し、服を風よけに顔を服の中に埋めて着火する。

Delhi Yamuna River昼間は大騒ぎのオールド・デリーも早朝は空っぽだ。
オールド・デリーにはかつてのムガール時代の城壁や宮殿が数多く残っており、空っぽ感が相まって何時も私はリキシャに乗りながら、ここでちょっとシュールな気持ちになる。
時代がぐっと数百年は遡ったように感じるのだ。

マジュヌ・カティーラについてはかつて少し解説した覚えがあるが、とにかくちょっと変わった場所だ。
ヤムナ川の河川敷を亡命チベット人たちが勝手に占拠して、というよりその辺の貧しいインド人に見習ってビニールのバラックを建て、住み始めたのだ。
20年前には見渡す限り、大きな黒いビニール小屋が立ち並び、タルチェンの幟ばかりが目立つ、れっきとしたスラムだった。
ほとんどの小屋はチベットの地酒「チャン」をリキシャ・マン中心に飲ませる酒場を兼ねていた。
おかげで、スラム中にこの漉けたチャンのにおいが充満し、敏感な人はすぐに吐き気を催すという場所だった。

Delhi Yamuna River3ところが、チャン屋が密造酒販売所としてインド警察の取り締まりを受け、壊滅した。
変わって今までチャンでこつこつとためた金をもとにホテルや食堂が建ち始めた。
もともとチベット人は移動が好きなところがあるし、ダライラマの法要もインド中で行われる。そのたびにデリーは通過宿泊地となるというので、これが成功し、今ではここには所狭しとホテルが建っている。
デリーにしては安くて(比較的)清潔なので、いつも私はここに来て泊ったり、休んだりする。
狭い路地に出れば必ず数人以上の知り合いに出会うものだ。

と、出会った一人の僧侶を思い出した。
彼は台湾人でまだまだ若い35歳ぐらい?
彼はダラムサラのツェンニー・ダツァン(論理学大学)のクラスメートだった。
もっとも私は中観学の途中までの約6年通っただけで途中脱落したものだ。
彼の近況を聞くと今は南のデブン僧院で勉強しており、もうすぐゲシェの試験を受けると言う。
もう一人クラスには台湾人がいたが彼は今法王の中国語通訳を行っている。
他の同級生も勉強のできたものが5,6人ゲシェになったかならないか位のところだ。

私は落ちこぼれた。習ったことも大方忘れた。
言い訳はいろいろあるが、時に後悔の種になったりする。

デリー 夕方までの部屋に入る。350ルピー。
夜行でたいして眠れなかったので眠ろうとするが、昼寝と車中寝が苦手の私はやはり眠れない。
暑くもないし、カメラを持ってオールド・デリーに写真でも撮りに出かけようか?と思ったこともない事を思う。
カメラを持って外に出ると、タクシーのいる方向ではなく、自然に公園の方に足が向かった。
マジュヌ・カティーラの北側には広大な公園風な森林地帯が広がっている。
ここに来た時に、よく散歩する場所だった。
きっと何か鳥がいるはずだと思ったのだ。
しかし、行って見るとそこは巨大な工事現場と化していた。
高速道路がここを通過するらしく、高架工事が行われたいた。

写真の白いハトは工事現場で見つけた、私としては新種だ。

仕方なく、今度はヤムナ川の方に向かった。
ヤムナ川はこの辺りで川幅500mほどある。
もっとも今は乾季で水はところどころにちょろちょろ程度に流れているだけだ。

デリー ヤムナ川その水は真っ黒でどぶ川の腐臭に満ちている。
湖面は黒光りしている。
河原に立って目を凝らすと、そんな大どぶ川にも沢山鳥がいることが判った。
大きな中州には牛が放牧され、その周りにサギやミーナ鳥が群れている。

もちろんここの主役はインド灰色カラス。
腐肉を野良犬と取り合いながら暮らす。

よくも、こんなどぶ川に漬かりながら病気にならないものだと感心するほど適応力のある野良犬たち。お互いしばしばいがみ合い、噛み合いの喧嘩をする。

喧嘩で追われた一匹のメス犬がどぶから上がってきた。
ほぼ全身真っ黒だ。しばらくすると子犬が沢山寄って来た。
真っ黒いオッパイに飛びつこうとしている。
母犬も子供にミルクを与えるために座り込んだ。
子供たちが病気に罹らずちゃんと育つことを祈る。

デリー ヤムナ川2川には鵜やサギもいたが、この川にまだ魚の類が生息しているとは到底思えなかった。
それほど、川は人々によって見事に汚染されていた。
しばらくいる間にかなり慣れるものだと気付いたが、それでも長くいると頭が痛くなるほどの悪臭だった。

河原にはシバ教徒の小さな祠があって、ここには数人のサドゥ・ババと呼ばれるヒンズー教の行者が暮らしている。
冬でも彼らは腰巻と上掛けの布1枚で暮らしていたりする。
持ち物は原則的に聖水桶のみで誠に無住、無所有の暮らしを楽しんでいる(ようにも見える)。
土間に泥で作られた竈をこしらえ、薪を集め火を焚く。
夕方などここは貧しい家のないリキシャ・マン達のたまり場になったりする。
みんなで金を出し合ってここで食事を作り一緒に食べ、おしゃべりをする。
みんな家族を故郷において出稼ぎに来たか、ただの一人ものだ。
夜はその辺りで布をかぶり眠る。

ヤムナ川昔、若いころ、インドで「サドゥ・ババごっこ」というのを数週間やったことがある。
これはつまり、なるべく物は持たず、腰巻一つで移動し、食堂にも入らず、宿に泊らず、河原などの屋外に眠るという遊びだ。金がなくなれば誰でも自然にやることではあるが、金がそんなにないわけでもないのにわざと好んでそうするので、「ごっこ」というわけだが、とにかくやたら楽しかったことだけは覚えている。
夕方食事ができるころになるとどこからともなく数人の浮浪者か、ババがすっとよってくて目の前に座ったりしていたものだ。

Delhi Yamuna River5ここで、このサドゥ・ババたちと祠を見るたびに私は急に時代感覚が狂うような気がする。
きっと辺りにまったく建物が見えないせいもあるのかもしてれない。
きっと2500年前のブッダの時代にもこの辺で似たような風景が見られたことであろう。
ブッダ・シャカムニもこのサドゥ・ババのように家を捨て、ボロ布を纏い、何も持たずに遊行したわけだから。

もっとも、その頃にはこのヤムナ川にはそのまま飲めるほどの清流がながれ、川魚がたくさんいて、それを餌にする大型の野鳥類が沢山飛び交っていたことであろう。
川辺りのジャングルにはそれはそれは様々な種類の色とりどりの野鳥がさえずり合い、リスやサルも沢山いたことだろう。

何と変わり果てたことか。
それもたったこの3、40年ほどの間にだ。
処理もしてない下水を川に流し始めたからだ。

Delhi Yamuna River7インドもひどいが、中国やアフリカも似たようなものだろう。世界中の川が下水どぶ川と化している。

このヤムナ川がいつか元のような清流に帰るとは到底思えない。

人は愚かだ。
日本に帰って特に感じるが、人々は本当に物ばかりを追いかけている。
物質的発展にしか興味がない。これは中国ばかりの話ではない。
日本人もとっくの昔に「心が大事」という仏教的考えを捨ててしまっている。
確かに、「まごころ」とか「心使い」とか中国よりは一般的だが、それも商業臭いところが特徴だ。

この人類の人口爆発と物質主義と利己主義のお陰で地球はこんなにも汚され、もう取り返しのつかない状態になろうとしている。

Delhi Yamuna River4法王はオーストラリアでも、「国々はいやでもグローバルに考えないといけないので、そういう意味でも環境について考えることは良いことだ」とおっしゃっています。
「We」の世界を説かれる法王にとっては、国境を超える環境問題は絶好の入り口ともなるのです。

私は正直、このままインドと中国が物質的発展を当然のように追うとすれば、地球環境がこの先まともに維持できるとは到底思えません。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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