チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年11月1日
ダラムサラの野鳥・その8
Green-backed Tit 13cm この子はもう紹介したかもしれません。窓の前の咲き始めた桜を観察に来たところです。
昨日は法王の東京講演に参加された方も多いかと思います。
それで、鳥に混ぜて今日は日曜だから仏教の余談とかも書かせてもらいます。
昨日法王の講演されたテキスト「道の三要素」はジェ・ツォンカパの主著「ラムリン・菩提道次第論」のエッセンスだけを要約したという、全般若経典にたいする「般若心経」のようなものです。少なくともゲルク派の僧侶でこれを覚えていないという人はもぐりとおもわれても仕方がないと言うほどに有名なテキストです。
さて、仏教も他の習い事と全く同じで、聞いて、理解して、(何時も思い出し)、実践して(聞思修)、序々にうまくやれるようになり、そのうち全く自然にできるようになる(資糧道・加行道・見道・修道・無学道)というわけです。
まず、何かのきっかけから興味を持つことです。
仏教は「苦しみを離れ喜びを得る」という習い事ですから、「苦しみ」(最初は三番目の苦でなくていい)を自覚してそれももう十分!本気で捨てたい、離れたい、諦めたいという「出離」の思いが募らないと効果が期待できない。
普通は苦しみの原因は誰かや、何かへの執着と判っていても、中々捨てられないものです。
別に仏教は「別れろ」と言ってるのではありません。
相手はできるだけ捨てなくて(受け入れ)、自分をできるだけ捨てろと言ってるのです。
執着する癖を捨てるなり、少なくすればその分余裕ができて楽しくなれるというのです。
すべて誤解「癖」から苦しみは始まります。
Rufous Sibia(Black-capped Sibia) 22cm 山の上の方から最近下ってきたらしい鳥。何時も群れをなし、チリチリチリ、、、、と鳴く。
「出離」も思いが募り、ある時、強く決心すると言う具合にことは進みますが、本物の「出離」は「空」が解り、出口が見えた時の話です。
まずは、何か捨てやすいものから捨てて、次の「菩提心、慈悲、愛」の気持ちに女々しいなんて思わすに慣れることです。
「愛」は自・他を近づけ、最終的には自・他の境を溶解させるという働きがあります。
たとえば、キリスト教においては「神への愛」一つで完全な忘我、トランス、神秘体験に至る人は多い訳です。
もちろん仏教でも「無我」を説きその体験はひょっとして似てるかもしれないが、仏教はその種の体験を目的にしてるわけじゃない。
たとえば、仏教では第四禅定と言われる禅定の極みに至る必要はないと言ってる。
Variegated Laughingthruth 24cm
「笑いツグミ」の一種。良く笑い声を上げる。
前のと似てるが、顔のデザイン、行動パターンなども違い、<目>も違う。
とにかく心の中にできるだけ温かい愛を増やすことを意識的に訓練する。可哀そうな人や動物を見たら、例えそれがテレビの中の映像であろうと涙が自然に溢れるほどに訓練する
(ちょっと大げさだけど、本当に昔チベット人のお坊さんとテレビのニュースを見ていて、戦闘で傷ついた兵士の映像が流れたとき、「これは何なんだ!人が血を流している。アア、ニンジェ(可哀そうに)、、、オーマニペメフン、、、、、(涙)」という反応に出会ったことがあります)
法王もティーチングの最中に慈悲の話をされるとき、よく涙されます。
Streaked Laughingtrush 19cm
この子はもう紹介済みですが、上の子と同じ「笑いツグミ」の一種です。
家の周りにいつもいて、しばしばペアで踊り合い、笑い合っていつところを目撃します。
捨てるべき感情と受け入れ育てるべき感情の区別を知って、じょじょに人格が利他的に変わることが目的です。
「I,my,me,mine」が減って、ついに自他の境が溶け去る状態を目指します。
Chestnut-crowned laughingthrush 20cm
同じく「笑いツグミ」の一種。地上や地上近くの木陰をペアで移動することが多い。
と、ここまでは実はどの世界宗教も説いていることであり、共通の道徳に関する話です。
仏教教義の特徴はここから先の話、すべての現象の「空」であることを正しく理解する「智慧」を説くところにあるのです。
「空」を語らなければ仏教にならないということです。
「空」の理解が伴っているかどうかが、その行(行動)が仏教的かどうかの基準になるというわけです。
第一ブッダは「空性」を完全に理解し、体験することにより(自分は)「ブッダになった」と宣言されたのです。
そのコツを教えるから、幸せになりたいなら「みんなも私に続くように」とおっしゃった訳です。
この場合、本気に幸せになりたいと思う「出離」の気持ちが聞く側にないと話になりません。
Scarlet Minivet (Male)20cm
ここからは「般若・空の智慧」と「方便・慈悲の心」を、鳥の両翼の如く、常に一緒に働かせることにより完全な解放に至ることができる、と法王も常に説かれることにひっかけ、
見てくれがまるで似てないので最初は違う種類と思うが実はペアだという3組を紹介します。
(両翼とペアはちょっと比喩としては別物だけど)
この鮮やかなスカーレッド色の鳥は今迄に二度しか見かけたことがありません。
オスは赤でメスは黄色。どちらも鮮やかです。5,6ペアが一緒に木々の間を乱舞しながら素早く通過していきます。これを(実体的に見て)興奮してしまうと、一枚も撮れないことになってしまいます。
最後の「空を正しく理解する智慧」というのもあまり最初から構えて難しいと思うことはないと思います。
解ってしまえば(私でないが)まるで当たり前の常識と思えることのようです。
仏教はつまり、「知らない」ことから「苦しみ」は始まる、「ありのままの現実」を知らない、誤解してるから執着し、怒り、嫉妬するのだと言ってるのです。
人間は知ることができ、考えることができるのだから、その能力を使って真実を知れば、誤解が解け、自然に解放感が味わえるというのです。
現実的に行動すればするほど問題は少なくなるというのです。
Scarlet Minivet (Female) 20cm
上の子の彼女。
テキストでは「縁起=空、空=縁起」が解ればすべてのサンサーラの苦しみから解放される、と説かれますがこれは般若心経の「色即是空、空即是色」と同じ意味です。
私たちは普通、学校で小学校から算数、物理、化学などを教えられており、因果律を信じない人は少ない。
ある一つの現象はその時その場の様々な原因と条件に左右されながら、目の前に現れ出るものだと知っている。
原因と条件は瞬時に変化するから、現象も刹那滅だと知ってる。
「現象」ということば自体「変化」を前提としているのは明らかだ。
変化するから現象は現象として現れるとこができる。
空は端的には「何かが無い」と言ってるのだけど、何が無いと言って現象には「本質=実体=自性=我=自体=、、、」が無いという。
英語のitself,myselfは本当には無いと言ってる。
しかし、問題はここでいうところの、自分をだましている「実体」が本当には何を指しているのかは「空」が理解されるときにしか本当には解らないということだ。
だから、こういうものは具体的な例で考える方がよい。
Grey-winged Blackbird (Male) 28cm
「ブラックバード」という曲が確かビートルズの中にあったと思うが、歌詞の中だけだったかな、、、
これはオス、両翼の先がシルバー。
例えばオスはメスを前提に成り立つ言葉、概念であるように、客観は主観を主観は客観を前提に成り立つ言葉で、「純客観性」とかは最初から矛盾してて世俗にしか無い話です。
これをいろんな概念に当てはめると、面白い。
一は多が多は一がなければ成り立たない。相互に依存することにより始めて成り立つ概念であり、どちらか一つだけ分けて取り出すこともできない。
父親と息子、私とあなた、因と果、部分と全体、時間と空間もすべて互いの関係性の上に成り立つ言葉、現象だ。そちらか一方だけでは意味をなさないし、存在できない。
何かに依ってある存在には自性がない、実体がないというのもこのようにものは関係性の上だけに存在するのであって、これがその「もの自体」だと指し示すことのできる対象はかけらも無い、というのだ。
逆にそんな固定的なものがあれば変化ということもあり得なくなり、現象は現れることもできない(空即是色)というのだ。
空間があって初めてものが存在できるようなもんだ。
当たり前といえば当たり前だが、これが実際我々には感覚として解ってないのだ。
世の中に本物は確かにあると思いこみ、本物のコーヒー、酒、ワイン、鳥を求め、本物の女、本物のラマ、本物の仏教、真実の悟りとかを求めたりする。
Grey-winged Blackbird (Female) 28cm
上のメス。
例えば目の前にコーヒーが在ったとする。
日本人は違いが解る民族としてコーヒーにはうるさい。
コーヒーかどうかの基準も厳しい人になるとインスタントはもうコーヒーと呼べないという人もいるであろう。
また、コーヒーというのも目の前に置いてあるだけでは本当にはコーヒーの機能を果たす前なのでコーヒーではない。
口に入れて飲んで味わって、「ああ、これはおいしいコーヒーだ」と思ったときにコーヒーはコーヒーになる。
コーヒーを飲んだことのないチベット人には同じおいしいモカもただの苦い黒い湯だ。
つまり、コーヒーはそのものの側から「私はコーヒーですよ」と言ってるわけじゃなく、こっち側から勝手にこれこれのものをコーヒーと呼ぼうといつかから言い始めただけだ。
中観的には、それは「コーヒー」という名前によって仮に存在するなにものでもない合成物です。
全く自由な発想で何にでも使ってよい何かです。
Blueheaded Rock Trush (Male) 23cm
一瞬目の前に幻の如く出現した青い鳥。
一事が万事で、例えば集合体に名づけられた、インドとか、中国、チベット、アメリカ、日本、という国もないし、ルンタという団体もない。
心と体の集合体である「私」も幻想だし、悟りもいろいろあるから空だし、ダライ・ラマ法王も本当にはいません。
昔、(まだ生きていた)うちの母親に「インドに一度ぐらい来てみたらよ、いいとこだよ」というと「そんなとこ行かないよ。汚くて、危ないところだよ」と言って決してインドに来ようとはしなかった。
さて、「インド」は「汚い」のか?色んな場所がある、もちろん山の上はきれいだ。
そんな話でなくても、人はどうせ集合体であるインドの部分しか見ることができないから決してインドを見ることがない。
問題は其々の人が其々の知っているインドとかくうくうさんとかを実際の本当のインドとかと思いこみ、それを基準に行動を決めるということにある。
つまり、だまされているのだが、それに気付いてないことが問題なのだ。
Blueheaded Rock Trush (Male) 23cm
弾丸状態で飛び立つ青い鳥
母親もそんなことを思わずに、最後にインドに来ていれば、だいたい信心深い人だったから本物!の仏教にダラムサラで出会えていたかもしれないのに、と思ったりする。もっともどこにも行く必要を感じなかったのだろうから、それはそれで良いことだったとも思える。
Blueheaded Rock Trush (Female) 23cm
上の似ても似つかぬメス。
この対象への執着の中でも一番の悪者、すべてのボス、基が「私」に対する誤解だと言う。
実は「私」というほどのものはいいのですが感情的になった時の「我」が問題なのです。すべての問題の基は「プライド」にあると言ってるのです。
禅などではこの「我」の立ち上がる状態をわざと作り出すために弟子を殴ったりするようですが、例えば怒った時とかには対象も対象を見る自分の側も確固としたイメージとして捕えられるものです。
その時、間髪いれずに「その我」を分析できれば空が理解しやすいというわけです。
テキストに「対象の基底が破壊され消え去る時、仏の喜ばれる道に入った者と呼ばれる」というが、禅ではこれを「桶の底抜けて」と表現します。
最初から現象の桶には底が無いのです。
底がなくてたまらないから現象として生き続けられるのです。
Spotted Forktail 25cm
最近暗い所にいてしっぽを盛んに振って私を誘い続けるフォークテールくん。
暗くて、中々ちゃんと撮れないからまた誘われる。
解った時、すべての苦しみの原因も同時に解ったのです。
普通始めてこの事実に気付いた時、人はハッとするものです。
自分を含め、すべての有情は等しくこの無明の暗がりの中にあることが明らかに理解でき、過去の自分を憐れむように、すべての有情に対しても等しく非常な慈悲を感じ、必ず、他の有情にこの大いなる誤解について知らせ、苦しみの大海からみんなを救い出すぞ!と決心する。これが本物の勝義の菩提心です。
菩薩の誕生です。
普通、その人はここで号泣します。
二元の思いが解け去り、山見て我山なり、鳥見て我鳥なり、苦しむ人を見て我その人なり、喜ぶ人を見て我喜ぶという状態になると言います。
生まれて初めてみた不思議な動物。
全長80cmほど。誰かこの子の消息が解る人は教えてください。
最後に、「自分もこのように行じたのだ、息子たちよ、この三つの悟りの要点を理解した者は、静かな場所にこもり、努力して、究極の目的を達成せよ」とジェ・ツォンカパは親心から我々にアドバイスされるのです。
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(追記)上のツクラカンでは今日の朝早くから一日中、500人ほどの僧・尼と俗人500人ほどが集まり、「処刑された4人(2人?)の霊を弔い、すべての犠牲者と今も監獄などで苦しみの内にあるチベット人、及びすべての有情の苦しみを救うという供養と祈りの会」が行われました。
特に3時間ほどかけ「薬師如来」のお経が読まれました。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)