チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年10月18日
ダラムサラ・法王ティーチング・その三
今日は台湾チームに対する教えの最後日だったが、実はテキストをすべて終ることができなかった。
これは、法王にしては稀なことだ。
今日「千手観音の潅頂」を授けるということで、昨日は例により「夢判断」のためにクシャ草などが渡された。
私は行かなかったので残念んながらこれを逃した。
もっとも朝、夢判断の終わりに、例により「夢は夢だから気にするな」とおっしゃる。
その後「ロジョン」と「ラムリム」のテキストを説きながら「菩提心」の話を中心にされ、いよいよ潅頂に入った。
目隠ししてマンダラに入り、、、、菩薩戒を受け、、、、と今日もロケット状態で進む。
午前中にすべて終るはずだが、潅頂が終った時点で一時間遅れ。
法王は「ちゃんとテキストは終らないとな、、、ええと、時間がないな、、、」といつになく焦り顔。
それでもテキストに入ったが、しばらくして「ええと、台湾グループの中で今日の午後帰らないといけない者はどれほどいる?手を上げてみろ」
すると、誰も上げない。
「明日はいるのか、明後日からのティーチングに出るものはいるのか?」
全員「いますとも!」
法王「なーんだ、そうか。じゃもう今日はやめよう。続きは明後日だ」
とおっしゃり途中で終ったのでした。
(もっとも、潅頂が終った時点で、これを目当てに家族総出で集まっていたチベット人たちは、腹も減ったしと立ち上がる人が目立ちはじめ、しばらくすると相当のチベット人が消えていた。法王はひょっとしてこの動きを見られて、今日はもうやめたほうがよさそうだ、と思われたのかも知れない?
何度法王に言われても治らない(テキストの講義より)潅頂好きのチベット人たちです)。
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以下、昨日の午前の初めの方で、
「金剛般若経」の最後の有名な一節について説明された部分のみ、参考程度に仮に訳してみました(何れ「本ものの訳」というものも本当には無いわけですが)。
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「現象界というものは、
星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、みるがよい。」(中村元訳)
比喩に「星」というが、
空の「星」は夜になると現れるが、昼間は何もないかのようにその現れを見ることができないものだ。
この譬えは、「もの・ごと(事象、現象)」というものは、「星」が夜には見えても昼間には見えないように、
それを分析しない限りは実際に目の前にあるかのごとく見えるが、昼間の太陽のような真実を照らす空性の智慧の下ではその対象の現れは消え去り、虚空のような一味の(現れのない)現れのみとなる、という意味だ。
すべての「もの」には二つの見方の対象として二つづつの現れがある。
分析智を用いない普通の心に現れる「もの」と、その同じ対象に真理の分析智を用いたのちの(実体視の消えた)現れ、というようにそれぞれの「もの」には、すべてこの二つのレベルの現れが存在するという譬えだ。
それでは、すべての現象には自体がないのに、どうして我々の心に間違って自体があるように現れるのか、といえば、
例えば「目の翳」(チベット語は<ラプリク=眼病ではなく一時的に目にゴミがはいるなどしてはっきり見えない状態>)に侵されていれば、本当の現れを見ることができないであろう。
だからと言って、本当のありようが無いということではない。
ものを見るための「目」自体が何かに冒されているのだ。
このように、すべての存在のありようは「実体を欠いている」にもかかわらず、「無明」の闇に覆われて我々は真実を見ることができないのだ。
チャンドラキルティーの)「入中論」の中で「世俗とは覆い隠されているもの」と言われるように、間違った見方に邪魔されて真実がみえないのだ。
目が何かに覆われて、「本当のありよう」は確かにあるのだがそれをみることができない状態の譬えだ。
「燈し火」(チベット語は<マルメ=灯明>)というは、「現れ」側の話だ。
現象には自体はないが条件が揃うことにより存在を現す。
多くの内外の原因と条件が揃うことにより、ある一つの現象が生じる。
これもこっちからあちらへとイメージや名前を与えただけで、あちら側にその現れがあるわけではない。
しかし、原因と条件が揃うことにより現れた「もの」はちゃんと機能を果たすことができる。
例えば「灯明」という「もの」も、器やバターや燈心があるだけではまだ灯明と言わない、次に火をつけるための条件を揃え火を燈す。
風が無いこととか、バターの具合とかなんとかいろんな条件が要る。
灯明と言っても、それは火だけではない、バターも芯も一体となって働く。
そして、確かに灯明は辺りを照らすという機能を果たすことができる。
様々な条件がそろわないと現れない。
つまり、真実には(灯明は灯明として)「空」だが、ちゃんと機能は果たすことができるということの譬えだ。
つまり最初の三つとは、「星」いう比喩で、真理を分析する智の対象と、世俗の普通の知の対象というすべての現象には二つの面があると説く。
では、「すべての現象の上に真理智の対象である空性があるならば、どうして我々みんなに見えないのか?」と問われれば、それは覆い隠すもの「無知・無明」のせいだと説く。
さらに、「実体がないなら機能をどうやって果たすことができるのか?」と問われれば「機能は果たせる、例えば<灯明>の如しだ」と答える。
と、意味は解ったな?
次に「まぼろし」というは、
では、条件が揃った力によって成立しているだけであるならば、それから利得はどのように得られるのか?と言うならば。
ちゃんと利得、楽苦は味わえるという。
例えばマジシャンが様々なテクニックにより観客の目の前に現す「まぼろし」(マジシャン本人にどう現れるかについては諸説あるが)は観客の心に快不快、驚きの感覚を引き起こすことができる。
本物ではないが、ちゃんと快不快の対象となる。
例えば、我々も映画とか見るとき、映画は作りものだとみんな解っているのに笑ったり泣いたりするだろう。
そのことだ。
そこに実体はなく、映像、イメージでしかないのに利害、快不快の働きをなす。
「露」以下は「無常」についての譬えでもある。
「露」は「無常」に特徴がある。
「露」は存在したかと思うとすぐに消えてしまう。
草葉の先の「露」は朝陽の下ですぐに消えてしまうではないか。
現れたかと思うと、すぐに消えてしまう「現象」は「露」の如しだ。
我々も含め、原因と条件によって成立している「現象」は一瞬一瞬変化し、滅していく。
「水泡」とは「苦の性質を持つ」ということの譬え。
「水泡」というものも「水」の一つの現れにすぎない、我々は「快」だ「不快」だというがすべて「苦」の性質をもつ。
「生じる」ときにも「苦」、「滅する」ときにも「苦」、「住する」ときも「苦」の性質をもつというもの。
たとえば「水」から「水泡」が生まれても大きな水泡であろうと小さな水泡であろうと水には変わりがないが如しだ。
業と煩悩の力に操られる限り、行為は汚れたものとなりその結果として苦しみを得るのみだ。
「夢」「雷鳴」「雲」というは、「過去」は「夢」の如く記憶でしかない、「現在」は「雷鳴」の如く一瞬だ、「未来」は「雲」の如しということだ。
ここで「未来」を「雲」と譬えるのは、「雲」が集まって「雨」が降るように、
「未来」は「現在」まだ成立していないが、それにより苦楽を味わうということだ。
「このようにすべての現象を見なければならない」
、、、、、
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)