チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年10月15日
ダラムサラ・法王ティーチング第一日目
今日からティーチング。
法王は全くお変わりなく健康そうに見受けられました。
とにかく今回は台湾人グループが1000人以上いるということで、その他大勢は中庭まではみ出しどこもぎっしり状態でした。
参加者はおそらく4000人ほどでしょう。
台湾人以外の外人が500人ほどはいます。
今回はとにかく台湾とか、ベトナムとか、シンガポールとか韓国とかが多くて、一瞬ここはどこだろうと思うほどです。
隣の日本人は「何だかチャイナタウンに来たみたいでおもしろいわ」と言ってました。
教えの方は、午前中はテキストに入らず、いつものように「他の宗教の教義と仏教の教義の違いについて」説明されました。
また、「大乗非仏教論」「密教非仏教論」の話もされました。
とにかく論理的分析を第一とし、間違っていれば素直に認めるのが仏教とのこと。
法王は「たとえばこの<金剛般若経>を読むときも私は常に疑うことを忘れない。
中には<これはどうかな?大げさかな?ま、仏のお言葉はありがたや、、、と思うに留める場所もないわけじゃない」ともおっしゃいました。
午後からは「金剛般若経」に入られました。
師はこのように話し出された
「スブーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のように心をおこさなければならない。
すなわち、スブーティよ
<およそ生きもののなかまに含まれるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自ら生まれ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなく無いのでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、{悩みのない永遠の平安}という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。>と。
それはなぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が、{生きているものという思い}をおこすとすれば、もはやかれは求道者とは言われないからだ。
それはなぜかというと。スブーティよ、誰でも{自我という思い}をおこしたり、{生きているものという思い}や、{個体という思い}や、{個人という思い}などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)