チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年9月28日
ソガ・ロプタ/今年冬亡命を果たしたゴロ、テンパ・タルゲの話
昨日ダラムサラの下の方にあるソガ・スクールに行ってきた。
ソガ・スクール(ソガ・ロプタ)は亡命時18歳以上、勉学の意思のある者を全寮制無料で受け入れる成人学校だ。
最初3年制で始まったが、最近5年制に変わった。
主にチベット語、英語、数学を教える。
この学校最初10数年前にできたときには壁も天井もブリキ板作り、床は土間という、まさに難民キャンプを絵にかいたような空間が原野に広がっていた。
夏の暑さ、雨、冬の寒さで全員眠れぬ夜は当たり前の状態だったという。
その上、成人の若い男女が大勢近所に住み合うということにより自然に至る所に争いごとが起こり、その状況にカム、アムド、ウツァン男たちの郷土意識が重なりあい、複雑な状況の溢れる空間でもあったようだ。
しかし、今はそれも昔話。原野の中に今では簡素ではあるがちゃんとした教室や男女なるべく離された寮、職員宿舎が立ち並んでいる。
ここで学ぶチベット人の若者の多くは一度も本土で学校に通ったことがないという。
チベット語も英語も算数も生まれて初めて学ぶのだ、18歳過ぎて、40歳の者もいる。
「勉強」と言うものに触れたことが無い成人を教えるのは大変なことだと、先生方は言う。
このソガ・スクールに久しぶりにわざわざ来たにはわけがあって、ここにいるはずの最近亡命してきた数人から話を聞くためだった。
目指したのは、去年の5月だったかに、アムド、ラプラン・ゴンパで3月以来初めて外国メディアが来た時に、勇敢にも記者団の前にチベット国旗や横断幕を手に走り出て、チベットの本当の現実を訴えた僧侶たちだった。
今年の夏そのうちの6人が亡命を果たした。
二人がこのソガにいるはずだった。
しかし、人権センターから貰った名前が間違っていたらしく、名前を渡して呼び出してもらったが最初に現れたのはまるで人違いの学生だった。
でも、せっかくだからと話を聞き始めると、この人も相当の人と判った。
というわけで、まずその<Free Tibet>の鉢巻きを「チベットが自由になるまで取らない」と誓ったテンパ・タルゲ氏の話を紹介する。
彼は現在33歳、アムド、ゴロの出身。地元のツェナン僧院の僧侶だった。今も僧衣を着ることは学校内で禁止されているので、俗人の服を着ているが、実際は戒律を守り続ける僧侶であるという。
ーーー
テンパ・タルゲ氏は2000年、一度ヒマラヤを越えダラムサラまで来たことがある。
しかし、彼はそのまま、亡命者としてインドに留まらず、もう一度チベットに帰ることにした。
それも多量の土産を背負って例のナンパラ峠を冬に越えたのだ。
土産の中身はダライ・ラマ法王の小冊子、CD、お写真だった。
それぞれ数百部(枚)を背負っていた。
だが、峠を越えたところで中国の国境警備隊に見つかり、もちろん逮捕された。
シガツェ刑務所で厳しい拷問付きの尋問を受け、結局6年の刑、プラス4年半の政治的権利剥奪を宣告された。
最初地獄のダプチ刑務所、次にチュシュル刑務所でその6年間を過ごした。
2006年3月1日、刑期を終えゴロに帰されたが、僧院にも帰れず、監視下に置かれ生活にも窮した。
2008年ラサに逃亡した。そして、3月14日のデモに出くわした。
ラモチェ僧院前での僧侶と警官隊の衝突から始まり、デモは一挙にラサの旧市街全域で自然発生した。
周辺部にいた者ほど武装警官隊の餌食となり負傷、死亡した者が多かったという。
彼はジョカン近くでデモしたのち同郷の友人の部屋に隠れていた。
しかし、18日警官隊に踏み込まれ逮捕された。
その時にはチベット人の青年は見つかれば一言の説明もなく、暴力的にその場で縛りあげられたという。
逮捕され、拘置所で尋問を受けたが、このときに受けた暴力は最初2001年に受けたものとは比較にならないすさまじいものだったともいう。
彼の入れられた拘置所の一部屋には26人のチベット人が押し込まれていた。
その中の二人は銃弾を受け出血が止まらない状態だった。
一人は胸と腹を撃たれており、瀕死の状態だった。
もう一人は足を撃たれていた。
それでも、そのまま他のチベット人と同じように監房に横たえられているだけで、何も特別な治療は受けていなかった。
数日して監視人が「部屋の中に撃たれた者は何人いるか?」と聞きながら各部屋を回った。
「二人いるぞ!」と答えると「これを飲ませろ」と言って錠剤を数粒ドアの近くの者に渡した。
彼は「風邪を引いたわけじゃなし、銃で撃たれたものに錠剤をやってどうするつもりだろう」と思ったという。
18日後、彼を含む160人のチベット人囚人がラサ駅から列車に乗せられ四川省のメヤン刑務所に送られた。
胸を撃たれていたチベット人は一週間ほどしてほぼ死んだ状態で、どこかに連れて行かれたという。
もう一人の足を撃たれたチベット人は彼がそこを離れるときまでそのままだった。
メヤン刑務所に着いて16日目、今度は同じゴロ出身の5人がカムのゾルゲ刑務所に送られることになった。ゾルゲに着くとすぐにアバまで送られそこで解放された。どこの刑務所も一杯になり、溢れたようだった。
そして、今年2009年の2月、再びヒマラヤを越えダラムサラまで来た。
—
今はソガ・ロプタで勉強中だが、彼はこの学校の中でも<ゲルシェンパ=チベットを守る意思の強い人>として有名だということでした。
後二人のインタビューを終え、薄暗がりの中を帰る途中の道の隅々には、立ったままノートを広げて、声を出しながら英語を勉強する大勢の生徒たちがいた。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)