チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年8月10日

続ツェワン・ドゥンドゥプ氏の証言

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tsewanカンゼ地方の人々はその愛国心とダライ・ラマ法王への忠誠心の強さで有名だ。
この地方は北京政府により「チベットの喉下」と呼ばれてきた。
この地方を抑えることができれば、チベット全土を制圧することができるという意味だ。
ツェワンはいう「この中国との国境線とも言える地方のチベット人たちは、他のチベット人たちのためにチベット人としてのプライドをこの最前線で守る責任があると感じている。
他の地方でのデモが終息した後、数か月たってもまだこの地方の人々はカンゼの政府庁舎に向けデモを行っていたのだ」と。

「このときの人々の反応に感動した。俺が長い間胸に秘めていた苦しみや中国政府に対する憎しみを回りのすべてのチベット人たちと分かち合えたのだ」

ツェワンは他の100台あまりのバイクとともにテホルの町に向かった。テホルの町はバイクで一杯だった。停めるところもなく、ただ道端にバイクを捨てて、「チベットはチベット人のものだ!」「ダライ・ラマ法王をチベットに帰せ!」と叫ぶ声の方角に走った。
300人ほどのチベット人が大通りを行進しているところに合流した。
先頭には100人余りの尼僧たちがいた。
だれも、チベットの国旗や横断幕を持っていない。
ただみんな拳を振り上げながら叫び続けていた。

行進に参加しているチベット人には年寄りもいた、若者もいた。
中に6歳の子供も加わっていた。
行進は200人ほどの武装警官に囲まれていた。
彼らは行進中の人の中から一人ずつ引き抜いて、棍棒や電気棒を使って殴りかかった。
それを見つけるたびにみんなで寄ってたかってその人を助け出した。
「こうして、そのとき一人もチベット人は連れて行かれなかった」とツェワンは誇らしげに語った。
「しかし、無防備なチベット人に対し、棍棒で殴りかかる大勢の警官隊を見るのは耐え難いことだった。すぐそばに二人の警官が近づいたことがある。やろうと思えば俺がこの二人を殺すことは簡単だった。法王に対する敬意のみが俺にその行動を取らせなかった。俺に戦う勇気が無かったわけじゃない。法王の言葉に従ったのみだ」

人々は自然に敵意のシンボルである警察署に向かっていた。
その建物に近づくと屋上から催涙弾が飛んで来た。
同時に数人の警官が群衆に向け実弾を発砲し始めた。
他のブループが鉄のゲートの後ろから撃ち始めた。
ツェワンは5人が撃たれ倒れるのを見たという。(後のレポートでは10人)

発砲が始まるとすぐにゲート近くにいた人々は走って逃げた。
しかし、ゲートの真正面にいたクンガという名のチョリ僧院の21才の僧侶が撃たれ倒れて、そこに残された。
ツェワンはそれを見てすぐに彼を助けようと駆け寄った。
「チベットの諺に、<ウサギが禿鷹に捕まり空に釣り上げられた時、ウサギが空に助けを乞うは無駄なこと>というのがあるが、その時自分が法王の加護を祈ったことを思いだす」

弾は肘の内側から入り外側に抜けたもう一人のチベット人が現れ二人で倒れた僧侶を抱えて逃げようとした。
「その時、左脇腹に焼けるような痛みを感じた。撃たれたなと思った。
それから二歩ほど前に進んだところで今度は左肘を撃たれた。血が噴き出した。俺は眩暈を覚えた。ただ、意識が完全に失われる前にかろうじて<この僧を誰か助けてくれ!>と叫ぶことだけはできた」

このすぐ後、ロプサン・ツプテンという親戚の一人がバイクで仲間と共に倒れたツェワンの下に駆け付けた。バイクに引き上げられ、二人に挟まれたまま、全速力でその場を逃げ去った。
ツェワンの意識は消えたり戻ったりした。
「警察の車に追われている時、不思議なことが起こった。
突然辺りが暗くなり、視界が利かなくなった。お陰で我々は遠くまで逃げることができた。
ある村のはずれのマニ堂に一旦隠れた。
止血のために左腕の上部が強く縛られた。
このゴムで縛った跡は今でも傷となって残っている。
竹で即製の担架が作られ、四人に担がれ、すぐに山に向かった」

デモのあった次の日警察はツェワンを探すため、村を一軒づつ虱潰しに捜索した。
その時、彼の家族の家には数台の軍隊のトラックが押し寄せ、家はむちゃくちゃにされたという。
「彼は死んだ」と証言され、国際人権機関も彼を死亡扱いした。

「みんな用心のため、夜しか歩かなかった。6日間山を登り続けた。夜歩くのだが、誰もトーチを持っていなかった。道は険しく時に担架が強く揺れたが、そんなときの痛みは耐え難かった。しかし、彼らは細心の注意を払って俺を運んでくれた」

「それからの一年と二か月間、高い山の上の洞窟に暮らしていた。
一か月ごとに見つからないためにと場所を移動した。
10日ごとに一人ずつ自分の村に帰り10日後に食糧などを持って帰ってきた。
これは仲間の誰かが当局にその長い不在を疑われないようにするためだった。
中国は俺が生きているらしいと知って、賞金を懸け探していた。
居場所を知らせた者には15~20万元の賞金が出ることになっていると聞いた。

左脇腹の背中の方にある黒い傷跡から弾は入り前に抜けた村の人たちは自分の苦況を知って、薬を託す者もいた。中には抗生剤をくれた人もいる。
しかし、ちゃんとした治療をうけることが出来ず、傷は悪化して、二か月後には傷口の膿は腐ったにおいを放ち、ウジさえ湧くという状態となった。
ロプサンは腐った肉の部分を剃刀でそぎ落としたが、その痛みは耐え難いものだった。
痛みに耐えるため、俺は口に木の棒をくわえ力いっぱいそれを噛んで我慢した」

最初の半年は座ったままの状態だったが、身体のいかなる部分も自分で動かすことはできなかった。8か月後にやっと頭を動かすことができた。
生活のすべてを仲間の助けに頼っていた。
11月に入り、気温は下がり、山には雪が降った。
仲間が山を登り降りするのにも困難が生じた。
凍傷になりたどり着く者もいた。
ツェワンは仲間をこのまま危険にさらすことに耐えられず、自殺を考え始めた。
「俺は食べ物と手当を拒否した」が、仲間は生き抜くようにと励ますことを止めなかった。

10か月後、ツェワンは二人に肩を支えられながらも歩くことができるようになった。一年たってやっと自分一人で歩けるようになった。

ある時ロプサンに相談した。「俺はインドに逃げて世界中にチベット人のこの苦しみを訴えたい。そうすべきだと思い、決心した。どうかお願いだから俺をインドまで連れて行ってくれ?」と。

「もちろん簡単なことではないことは判っていた。自分たち二人は指名手配されており写真は至る所にあるという。ラサまでたどり着き、そこでガイドを探し、国境まで行く。途中何か所も検問がある。成功する可能性は薄かった。
それに自分もそうだが、ロプサンも結婚しており二人の子供までいる。
出発すれば、もう二度と家族には会えないかもしれないのだ。
それでも彼は同意した。
ロプサンは言う「ツェワンは彼の話を世界に知らせるべきだと思った。彼を助けることによってチベット人のために役立つことができる、と思ったのだ」と。

カムの山ツェワンはこうして4800mの高山の洞窟に14か月籠って生き延びた。
まともな治療もされないまま、耐えがたい受けた銃弾の傷の痛みに耐え、ツァンパと茶だけで生き抜いた。
ツェワンは言う「自分がこうして今生きていることが夢のように思える。俺は俺を助けてくれた仲間達の意志と勇気と決心の力を共有することによってのみ生き抜いたのだ」と。

ラサまで10日間バイクで走った。
その後、どうやってネパールまでたどり着いたのかについては、彼は詳しく話したがらなかった。多くの人に助けられたとだけ言った。
「言えることはみんな本当に勇気があり、やさしかったということだけだ。いつも彼らに感謝している。もっとも感謝しているのはもちろんロプサンだ。二人は本当に近い友となった。彼は俺の第二の目だった」

今もツェワンの故郷ではチベット人の抵抗運動が続く。7月17日にはヨンテン・ギャツォという男が一人でチャムドのスタジアムで抗議活動を行った。
彼はチラシをばら撒きながらスタジアムを一周した。
その場にいた観衆はみんな歓声を上げたという。
彼の撒いたチラシには、彼の名前と他のチベット人に中国への抵抗運動を訴える内容の文章が書かれていた。
四日後の7月21日、彼は逮捕された。

二日前(8月8日)のRFAによれば、カンゼ警察は今もなお山に逃げ隠れていると思われる5人のチベット人の名を上げ、かれらが期日までに自首して来ない場合は、見つけ次第銃殺するという発表を行った。
http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/chinese-authorities-order-5-tibetans-to-be-shot-at-site-08082009220741.html

彼の今の夢は国連に行って各国代表に自分の証言を聞かせることだという。
「話すことのできない人たちに代わって自分がみんなに伝えたい」という。

去年のような一斉蜂起がチベットで再び起こると思うか?との問いには、
「もしも中国政府がこのまま法王のおっしゃることを聞き入れず、チベット人に基本的人権を与えないなら、必ずまた起こるだろう。そして、もしも法王が亡くなられた時にはチベットは爆発するに違いないと思う」と答えた。

家族と連絡は取れているのか?と聞くと、
「今はあまりに危険で全く連絡はとっていない、、、、もう離婚したし、、、」
と思い口調になった。

終わり

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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