チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年8月8日

ツェワン・ドゥンドゥップ氏の逃避行 その一

Pocket

ツェワン・ドゥンドゥップ氏昨年3月にデモの最中二発の銃弾を受けたまま、14か月、5000m近い高山に逃れ、奇跡の越境を果たした一人のカンパ、ツェワン・ドゥンドゥップ氏の話はすでに先のブログでもお知らせしました。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-05.html#20090530

最近パユルに新たなインタビュー記事が載っていましたが、私も数日前ネレンカンに彼を訪ね、話を聞きました。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=25239&article=The+Will+to+Survive%3a+One+Man’s+Harrowing+Escape+from+Tibet&t=1&c=1

パユルの記事も参照しながら、彼の壮絶で、稀有な話を再び少し詳しくお伝えします。

彼は5月終わりに到着早々の記者会見で見かけたときよりは表情も緩み、身体も少し丸みを帯び、落ち着いた様子でした。
終始笑みを絶やさず、やさしそうな人柄を現わしていましたが、山中での苦境やチベットの状況を話す時には厳しい顔になるのでした。

ツェワンはカム、カンゼ県ダンゴ地区の田舎の農家に生まれた。
学校には一度も行ったことがないが、商才はあったのかラサで衣料店と食堂を経営するまでになっていた。
2008年3月、彼は故郷で家族とともに正月を迎えようとカムに帰っていた。
ラサで起こった蜂起の知らせはカムの田舎にまで電撃的に伝わった。

「時は今だと感じた。チベット人はもうこんな状況の下に暮らすことはできない。何か行動を起こすべきだ。命を失うかも知れないことは判っていた。しかし、少なくともその死には意味があると思った。人々は語り合った。チベットの状況は苦しみに耐える病人のようなものだ。回復の望みがないなら早く死んだほうがましだ、と」

しかし、彼は一般の中国人に対しては全く敵対心を抱いていないという。
「ある中国人は、国に帰っていくら頑張って働いても食うこともままならない、と言ってる。彼らはチベットに来てなんとか生きようとしているのだ。これは俺にも理解できる」

だが、これが中国当局に対してとなると態度は全く異なる。
ツェワンのおじいさんは71歳の時ダライ・ラマ法王の写真を保持していたとして8か月間
監獄に入れられたという。
彼はこのような中国のやり方が2008年の抵抗運動を引き起こしたのだ、という。
「デモに参加する者はだれでもその危険を知っていた。しかし、俺達は沈みゆく船に乗っているようなものだった。何れ船と共に沈んでしまうのだ。それならいっそ海に飛び込んだ方がましだと思った」

「家族と共に見つからないようにして見たヴォイス・オブ・アメリカ放送を通じて法王の非暴力の教えを聞いた。2008年チベット中で起きた衝突においても中国人の犠牲者が非常に少なかったのはこの法王の教えのせいだ」

「法王は俺達にとって太陽のようなものだ。中国がいくらひどい仕打ちをしても、俺達は法王のお言葉に逆らうことはできないのだ。それはチベット人に勇気がなくて、中国の暴力に反撃できないのではない。実際デモを行うということは危険で勇気のいることだ」

彼は同じくヴォイス・オブ・アメリカ放送によって法王の独立ではない「中道路線」を知ったという。
「正直に言えば、俺は独立を望む。しかし、チベット人はどんなことであろう法王のおっしゃることに従うことが大事と思う」

ツェワン・ドゥンドゥップ氏22008年3月24日、ツェワンは山の上の方で、ツォリ僧院に水を引くためのパイプを通す作業を他の100人ほどのボランティアと一緒にしていた。
午後4時頃、下手にあるテホールの町の方から人々が叫んでいるらしい、騒ぎが起こったような音が聞こえてきた。
ツェワンはそのころデモがこのあたりで起こることをひそかに待ちわびていた。
彼はその音がそれだと知った。
下手に目を凝らせば、赤い僧衣の集団が動くのが見えた。
声は女の声が多い、近くのナンゴン尼僧院の尼僧たちだと思えた。
しばらくして、銃声が谷にこだました。

お互い、言葉を交わすこともなく全員シャベルを放り出し、バイクが停めてあった下の僧院目がけて走り降りた。バイクに乗ったり、バイクのないものは走って、全員がデモの起こった町の方へ全速力で向かった。
「チベット人は誰でも僧侶や尼僧に特別の敬意を持っている。銃声を聞いた時、全員が彼らを守るために駆けつけねばと感じた。俺は行けば、残りの一生を監獄で過ごすか、あるいはその場で撃ち殺されるかもしれないと知っていた。でもその時躊躇する気持ちは全くなかった」

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)