チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年7月29日
チベタンゲリラ / チュシ・ガントゥック
ポカラの北、アンナプルナ山塊を越えた向こうにムスタンと呼ばれる地域がある。
ここは今はネパール領だが、地図で見るとよく分かるがそこだけチベット領に飛び出した形の地域だ。つい最近までムスタン王国として栄えていた場所でもある。
この地形の戦略性と地域の住民もチベット系であるということで、ここにチュシ・ガントゥック(カンパ族を中心としたゲリラ組織)はゲリラ戦の拠点を置き、その後CIAの協力を得ながら1972年まで活動していた。
国境を越えラサから西に向かう戦略道路沿いに中国軍の輸送部隊などに待ち伏せ攻撃などしていた。
しかし、襲撃に成功するたびに中国軍はその報復として近くのチベット人の村を襲い村人全員を殺戮したりした。
ラサからも離れており大した効果は上がらなかった。
話は戻るが、CIAは1956年からすでにチベットの抵抗運動を助け始めていた。
冷戦構造の中での話だ。
1956年チベットのカムに潜入した諜報部員は7人のチベット人を選んで密かに彼らをアメリカ、コロラドの訓練基地に送った。
彼らは約一年間訓練を受けた後、ラサの南に2名、カムに5名、夜間落下傘降下によりチベットに落とされた。
その後、その内の一人は法王がインドに逃れられるまで、アメリカと連絡を取り合っていた。
中国が知る前にアメリカは法王がノルブリンカを脱出されたことをいち早く知っていたのだ。
その後もCIAは亡命してきたチベット人の中から志願兵を募り、数十人をアメリカに送った、サイパンや沖縄で訓練を受けた者もいる。
彼らがムスタンに帰り、他のチベット人たちに戦闘を教えた。
CIAは彼らに武器、資金援助も行っていた。
ではあるが、如何にも中途半端だった。
そして、ついに1972人ニクソン大統領が北京を訪問し、中国と握手した時から全ての援助は止まった。
アメリカはこの時チベットを裏切ったのだ。
法王はゲリラに武装解除を要請した。
ゲリラも法王のお言葉に逆らうことはできず、泣く泣く銃をネパール軍に引き渡した。
中には自殺する者も相当数いたという。
山を下り降りたところがポカラだ。
そのまま、ここのキャンプに住み付いた者も多い。
今は例えば最初の7人も全員亡くなり、元ゲリラで生き残るものは少ない。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)