チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年7月18日
内に遊びに来る子どもたち、その三
内に来る子の三人目。
もう21歳ぐらいの立派な娘ですが、12,3年前、彼女が小学校の低学年のころから知っているので本当の子供のようなものです。
彼女、ニマ・ドルマは小学校時代、私の本当の末娘デチェン・ニマの親友でした。
だから一緒によく家に遊びにきていました。
彼女の家は嘗てこのすぐ近くの林の中にありましたが、バラックでした。
彼女の家は貧しかったのです。
両親は一応ネパール人ですが、父親はタマン族、母親はランタン谷の入口シャプルベシ出身のチベット人です。
よくある話ですが、両親は村の貧しい生活を捨て、インドに出稼ぎにでました。
仕事といっても肉体労働しかありません。二人は建設現場で働いていました。
そのうち父親は仕事を覚え、左官クラスになっていました。
ニマ・ドルマが生まれる頃にはダラムサラに住み始めていました。
この辺にはチベット関係の大きめの現場が多く、ネパール人が沢山働いているのです。
しかし、一つ良くないことがありました。
父親は酒飲みで、その上酔うと暴力を振るうのです。
働いた金も酒代に消え、家は貧しい上にも貧しかったのです。
それでも、TCVは比較的安いので、ニマと弟はそのころTCVのマクロード分校に通っていました。
内の子とは家の環境がちょっと違っていたと思うが、二人は仲が良かったのです。
でも、中学に上がったころから、もう家に来なくなり私も忘れていました。
でも、すっかり忘れていた訳ではなく、気になってはいました。
それが、去年の冬に突然家にそのニマ・ドルマが現れたのです。
最初ははっきり言って、見覚えがあるようだが誰なのか分かりませんでした。
でも、すぐに内のニマの友達だったニマと教えられ、その大きくなったさまに驚きました。
昔は背が高くすらっとしていたと思うのだが、今は小柄で子供の頃よりは少しふくよかになっていました。
何か話を切り出しにくそうにしていたので、こちらから「生活はどうしてるの?」と聞いた。
すると「実は助けてほしいと思いここに来た。母が一週間前に大やけどを負い病院に入院した。本当は生死もまだわからない。治療代が払えないの。助けてほしい」とのこと。
詳しく聞いてみると、母親はケロシンストーブという旧式の油圧式コンロに圧を掛けているとき、それが爆発した、、、火の油を全身に浴び大やけどを負った、、特に顔と足の火傷が酷いという。
同じ病室には同じように大やけどを負った人がたくさんいて、中には呻きながら死んでいく者もいると、ニマは恐ろしそうな病室の話をした。
最近はパランプールというここから2,3時間ほど離れた町にいたが、とにかく父親の酒グセは治らず、家にも帰らないことが多いという。
きっと病院でとても払えない請求書を渡され、途方にくれている時、ふと昔小遣いとかくれていた、日本のおじさんの顔を思い出したのであろうか、、、と思い出してくれたことを嬉しく思った。
学校はお金が続かなくて7クラス(中学一年)までしか行けなかったという。
私は「何でその時、私のところに来なかったのか、学校をやめさせることは決してなかったろうに」とその事が残念でならなかったので、もうしょうがないが口にした。
TCVはチベット難民の子供にはタダで教育を与えるが、同じチベット系であってもネパール人への援助はないのだ。
それから、あるニンマ派のリンポチェの奥さんと言う人の家で住み込み家政婦として働いていたという。わがままな老人で大変だったという。
その日は治療費を持ってすぐに病院に帰って行った。
それから一か月に一回ぐらいずつ金が足りなくなると家に来ていた。
結局半年近く母親は入院していた。
それでも死ぬことはまぬがれ家に帰って養生するというとこまで回復した。
でも、問題は父親が毎日酒を飲み暴れて、床に臥す母親にまで手を出そうとするし、家に金目の物がないかと家財をひっくり返したりすることだという。
普段は仕事で遠くに行っており家にいないが、時々帰って来ては暴れるという。
そこで、私は二人にこっそりそのパランプールの部屋を出て、ダラムサラに移ってくるようにと言った。
ここなら、みんなで監視できる。父親も好きにはできないであろう。
ここなら、何とか仕事も見つけられるから、と言った。
しばらくして母親とニマは父親がラダックに行ったすきにダラムサラに移ってきた。
お母さんも昔から知っていた。顔を隠して家に入ってきた。
スカーフを取ると確かに顔から首にかけ、ひどいケロイドが残っておりまだピンク色のまま完治していない部分もあった。
しかし、まあ、まあだ、、、思ったよりましだ、と感じた。
なにより、長い間、歩けなかったといい、まだ足は確かでないが、きっと完治し、また働けるようにもなると期待が持てる状態だったのでひとまず安心した。
「もう大丈夫。ダラムサラで二人で安心して暮らすといい。何も心配しなくていい」と本当はどうなるないな?とも思ったが、大きなことを言って二人を返した。
最初はろくな仕事がなく、必ずしも必要でない家の仕事を手伝わせてそれをニマの仕事にしていた。そのうちルンタ・レストランで働かせればいいしと思いつつもレストランも誰かやめない限りは席がない。町の電話番とかもやっていた。
お金が足りないことは分かっていた。でもニマはいつも本当に困ってギリギリになるまで家には来なかった。
お金を頼むということは、いくら私が気楽な父親代わりの顔をしていても、この子には辛いことだったと思う。
そんなニマも二か月前からやっとルンタ・レストランで働けるようになった。
すると、ニマが急に明るくなった。
ちゃんとした給料の貰える仕事に初めてつけたことがうれしいようだった。
レストランでも明るく一生懸命働いている。
日曜日ごとに家に来て何か掃除や洗濯、料理をしようとする。
何もしなくていいから「本を読め」と言ったりする。
それにしてもと、思うのだ。内の娘のニマは同じ学校に行っていたが、ただ保護者の状況が違っていただけで、親は大変ながら外国の大学に行け、このニマは教育の面でも中学一年までしか行けず、すでに逆に母親を背負って生きて行かないといけないとは、、、、何と言う違い。
でも大丈夫、将来の「幸せ」の可能性は貧しさを知り、耐えることを知っているこの子のほうがきっと大きいはずだからと思うのだった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)