チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年6月27日
ランタン三日目の午後
昼前にキャンジンに着いたので午後はのんびり、ゴンパに行ったり、辺りを散歩したりしていました。
ゴンパに上がる道のそばの草原に、ここでもランタン村で見たのと同じような、男たちが輪になって集まり、激しくつばを飛ばし合っている光景に出合いました。
何を言ってるのか、私には現地語は理解不可能。
チベット語の解る人に説明を聞いたところによれば、論点は主に二つ。
まず、このところの観光客の不増加、または減少により今のゲスト・ハウスの総数が多すぎる状態になってきた。このままでは共倒れする。そこで、これからは村ごとに4軒のみがすべてを管理することにする。ただしこれは輪番制とする。
この際、もう宿は閉めるというものには規模に見合った補償金が支払われる。
結局、ギルドを作るということか?意味は良く分からなかったが、その4軒をどこにするとか、補償金の額とかについて言い争って(議論して)いたようです。
もう一つはトレッカーにも間接的に影響があることなのですが、これまでは外人トレッカーが連れてきたポーターとかガイドには宿側はただで泊めて、食事を与えてきたのだが、これを改め、今度からは彼らからもそれなりの宿代と食費代を取る、というものです。
自分たち外から来たトレッカーの食事代が非常に高いのは、もちろん一つには米を始め、ほとんどすべての食糧を下の町から担ぎあげるために金がかかってる、ということもあるのですが、何よりも連れの食うものの値段も含まれているからなのです。
ということは、連れなしで一人で食べる人の食費は割高で連れの多い人にはお得と言うわけです。
ある宿のおかみさんの話では「アメリカのおばさんなんか、ガイドにポーターを付けてここまで登って来て、今日はお腹の調子が悪いから食事は要らない、とかいってお茶を数杯飲むだけとかいうことがある。そのポーター達は嫌と言うほど食う。たちの悪いポーターやガイドだと、やれチャンを持ってこい、アラを持ってこい、女だ、とか言うやつまでいる。
だから、今度彼らから金を取ることは良いことなんだよ」ということでした。
これはトレッカーにどう影響するか?
まず、ポーターはこれからは「食事付きかそうでないか?」をまず聞いてくるであろう。
今もそう聞いてくるポーターもいるが、これは値段を釣り上げるためのただの手、なのです。これからは本気でみんな聞いてくる。<付き>でない時は日に3~400ルピーは高くなるであろう。
では一方で外人用のメニューの値段が下がるか?といえば、そんな面倒なことはしないように思う。だからトレッカーはこの村令には反対すべきなのだが、、、、
ともあれ、この村の話合いというものは言葉の途切れることは全くなく、草原の上で朝から晩まで二日間行われているそうです。周りには奥さん方が成り行きを見まもっていました。
何はともあれ村は民主的に運営されているようでした。
キャンジン(キャンチェン)のゴンパはこのあたりでは唯一のまともなゴンパだが、外観はただの平屋の農家の屋根に宝塔が一つ載ってるだけというものです。
しかし、中に入ると折しも読経会が開かれていたので、その読経の大声が堂内に響き渡り、周りの古い壁画の尊像も迫力ありで、突然のアドブダの世界だな、、、と思いました。
後もうひとつ驚いたことは早口で読経してる男たちはみんな僧衣を着ていない、どころかごくごくラフな格好で陽気に読み上げている、ということだ。ダラムサラあたりで読経は僧衣を着た僧侶がやるものという固定イメージがあったので、少々変な気がした。
しかし、後に自分も入ってやってみると、この普通の雰囲気がとても気に入ることになるのだ。
なお、このキャンチェンゴンパの由来については、今回貞兼さんにメールでおたずねしたところ以下のように説明されました。
「キャンチェンゴンバの建立者は、ドゥッパカギュパで、当時は瞑想の小屋程度だったろうと思います。さらに今のような規模にしたのは、前便に書いたリンジン・ペーマ・ドルジェ(ミンギュル・ドルジェの息子または甥)あるいはその息子あるいは甥のクンサン・ギュルメー(有髪で頭頂に飾りあり)。この2名によって、実質的な宗教活動が始まっています。18世紀後半。
かつて、両ゴンバには幾多の尊像が安置してありましたが、多くが盗まれました。観光化が進んできてからです。ドゥッパカギュ派のランリーパ(ランリーレーチェン。ミラレーパと同じ歌唱スタイル)像も盗まれましたが、最近みつかったようです。私にとって、もっとも興味をひくのは、正面左側に安置された真鍮の仏塔。近世の碩学リンジン・ツェワン・ノルブの遺骨の一部がおさめられています。」
左の写真:この真鍮の仏塔が左手、右手下には読経中のカンギュル経典群。
この谷を伝説の「秘密の谷」と断定したミンギュル・ドルジェ以降、次第に谷ではドゥッパ・カギュ派からニンマ派への移行が行われたようです。
いずれ、「秘密の谷」というのも、その当時のニンマ派の布教キャンペーンの一つだったのかも知れません。
風本に:「秘密の谷」の多くがチベット高原の周辺部分に存在することと、秘密の谷とはいわないまでもニンマ派の勢力がその部分に進出してきたこと、中央や西チベットでの政治の変動とが奇妙に一致することに気づく。そこに分け行ったテルトンたちの時代の心理が一つの足がかりとなったことは確かであるようだ。
お堂の中の壁画だが、貞兼さんの助けを借りて少しだけ解説すると、
東面する入口を入って入口側の壁、正面に向かって左側にはグル・リンポチェ(パドマサンヴァバ)に調伏され仏教を守るとの誓いをたてた護法尊たち。最下段左から2尊目(女神のような所作)がランタン・リルン峰に宿るこの谷の最高神<ゲニェン・レール>。
反対右手の壁にはドルジェ・レクパ?を中心に仏教パンテオンの末席に仏教を守る存在として描かれた多くの谷の精霊たち。
南面には一般的顕教仏、密教仏それにミラレパなどの祖師像が描かれ。
北面にはナーガルジュナをはじめとする哲学論師と三十五懺悔仏が描かれていました。
正面にはチベット大蔵経カンギュル、テンギュル、ニンマ所縁のタントラ諸像、
そして中尊はと言うと、、、
貞兼さんからのメールに「もしこの尊像が塑像であれば、ミンギュル・ドルジェ。 またもし真鍮製であれば、ミンギュル・ドルジェの息子又は甥のリンジン・ペーマ・ドルジェだろうと思います。大きな目がこのクラン人の特徴です。」
ということです。
ところでゴンパから出ると隣の炊事小屋へ、お茶を飲んでいけというので入った。
中には火が焚かれていた。
しばらくして、ドタドタと入ってきた大柄な女性、隣に座ると、挨拶代りに「結婚しよう、私はお前と結婚したい!結婚だ、結婚だ、お前は明日どこに行くのか、お前と一緒に行こう。どこへでも連れて行ってくれ、すぐに結婚だ」と鼻息が荒い。
前にいたもう一人の女も「そうだ、そうだ、すぐに結婚するといい。ヒヒヒ、、、」とくる。
「アレー、結婚ね、、、、結婚は急ぐと良くないとダライ・ラマ法王もおっしゃってるし、、、お前の言ってることが良くわかんないしね、、、ま、考えとくよ」と
交すが、次々と仲間を引き入れ、結局みんなで私を笑いのタネにし始めた。
今日は早めに退散したほうがよさそうと感じ、部屋に逃げ帰った。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)