チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年6月23日
ランタン・トレッキング第一日目
秘密の谷・ナムゴダカムへ
私が今回、ランタン谷を訪れる大きな要因の一つが一冊の本、貞兼綾子さんの「風の記憶:ヒマラヤの谷に生きる人々」(以下<風本>と略)であることは先にも書いたが、その中ランタン谷の章「豊饒の谷」は以下のように始められている。
「1704年チベット歴8月3日、ドマルワ家のミンギュル・ドルジェは4度目の挑戦で、ようやくランタン谷にたどり着いた。モンスーンも明け、越えてきた後方の白き峰々も、谷を形作る氷と岩の稜線も、群青の空との一銭をくっきり画していた。ミンギュル・ドルジェ29歳の秋であった。」
このミンギュル・ドルジェもそのころ手に入ったガイドブックを手にして旅行していたのだ。その本のタイトルは「秘密の谷ナムゴダカムへの手引書」作者は13世紀のテルトン(ニンマ派のいわゆる埋蔵経典発掘者)、ツェテン・ギェルツェンだと風本の注にある。
ランタン谷は「豊饒の谷」と言うだけでなく「秘密の谷」でもあるというのだ。
風本では続いて、この「秘密の谷<ナムコダカム>」がランタン谷であるということ、自分がそれを発見したのだということを主張するためにミンギュル・ドルジェが顕した一書を紹介して下さっている。
風本説明:ミンギュル・ドルジェは「ナムゴダカムの確証、福利の真髄」と題した一書に、「ナムゴダカム」探索行の模様を次のように回顧している。著されたのはおそらく1720年代、ダライラマ政権の確立をめぐる清朝の政治介入の過程でニンマ派やゾクチェンパ、ボン教徒への迫害が苛烈になった頃と思われる。
以下、風本に訳されている本書の一部:かくのごとく、ニャナンからキロンのレンデ村にいたる眺望できる場所から踏査をかさねて行くと、目標は南方にランタン谷、北にレンデの放牧を生業とする小さな村がある。ナワルンの近くに小さな谷が存在するけれども、(東西南北)四つの門の方角が、「道案内書」に示されているのとは異なる
ベーバリューユルという場所であった。これ以外にこの方角に谷はないと思ってしまうようであるが、「道案内書」をよくよく検討して進めば、東にニャナン、南にヨルモ、西にマンユル、北にペータン、その中心に位置するのはランタン谷、それ以外に地の利を持った谷は存在しない。
愚かであった。仏法の道を極めんとする求道者にとっても、他のどの聖地で修行するよりも、有利かつ早期に達成できるという恩典を有しているにもかかわらず、幸運の薄いものには、(ここに居ながら)、ここがナムゴダカムであるということは心にも思い浮かばないことであった。
祖師パドマサンバヴァは予言書のなかで述べておられる。「この土地が堅牢な秘密の谷の中でもとりわけ選ばれた理由は、入るに易く、チベットにも近いという地の利を得ているが、埋蔵書の多くが未だ明らかにされずに在るのは、この地がひとえに秘密の上にも秘密に護られてきた場所だからだ」と。
祖師など修行を完成された多くの聖人によって浄化され加持された土地だ。谷の上にも中心部にも、それらの証しで満ちている。祖師の瞑想成就の岩屋、自然に生じた仏のイメージ、祖師の足跡や手跡など。
祖師はまた、この地は第十地菩薩界の世界であるゆえに、そのステージに達した者と同等の能力を得ることができるとも述べられている。そういう土地柄を拙僧のごとき先見の明を欠く者は、ランタンとナムゴダカム、ヨルモとペーマツェル、それぞれが同意であるという重要な意味を誤解していた。全く愚かであった。
(中略)
つまりは、「秘密の谷」というのは、有害な侵略を避けるための場所であり、その特性は、そのための強力な土地柄を持っているということにつきる。ランタンが「秘密の谷」でなくば、ヨルモやラッチなどより優れた土地柄を有する谷は何と呼ぶべきであろうか。
本文はこれまで、解説に本当に道案内書の秘密の谷がこのランタンであるかどうか、を考察された後:しかし、こういうことも言えるのではないだろうか。当時、17、18世紀の南西チベットのマンユルや隣接のヒマラヤ地方に、「秘密の谷」を求めるテルトンやニンマ派ゾクチェンパたちによる一つのムーブメントがあって、ミンギュル・ドルジェが「秘密の谷ナムゴダカム」を発見したということが、同時代の修行者や宗門の仲間達の間で一大スクープとして話題にのぼっていたらしいということ。そして、その多くからは疑惑をもたれていたために、そうした者への反論と解明を試みたものだろう。
、、、、、
「ナムゴダカム」とは、「半月形の天の門」という意味である。氷河が削ったU字型のランタン谷の中心に立って天をあおくと、確かに、谷の上に広がる空の形は8日目の月の形に似ている。
以上少々長かったが風本よりランタン谷を巡る歴史のお話でした。
とにかく(信のある人にとっては)行けば「十地の菩薩と同じ能力を持つ」ことができるという「秘密の谷」なのです。
シャプルベシを朝7時に出発し、ひたすらランタン・コーラにそって登る。その日の宿はラマ;ホテル2410m、5時間行程のはずだ。
最初の一時間半ほどは正面から当る強い日差しを遮る木々もな階段続きで相当に汗をかいた。朝、暗いうちに発つべきだったと後悔した位だった。
道はアップダウンが多い。道端には麻と毛せん竹が目立つ。
道はしばらくして森に入った。森は次第に深くなり、巨大な木の枝にシダ
やランの共生する原生林の様を呈してきた。セミの鳴き声が聞こえ、珍しいチョウが舞う。
いろんな種類のシダが茂り、精霊の国に行く前の妖精の国でした。
透明な湧水はどこにでもあって水には困らない.
途中バンブー・ロッジというところで昼食を取り2時頃にはラマ・ホテルに着いた。
ここには10軒ほどの宿がある。
この日は最後にちょっとだけ、木々の上にランタンⅡ6561mを左手前に、右手にランタンリルン峰7225mを望むことができる。(最初の写真)
夕方ラマ・ホテルの裏の崖をド・サンと宿の奥さんが見上げながら「クマがいる」という。
指差す方向をいくら見ても(チベット人との間には良くあることだが)私には確認できなかった。ド・サンが「カメラをよこせ、俺が撮る」というので彼に望遠で撮ってもらったクマの写真が左の一枚。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)