チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年6月22日
カトマンドゥからバスでシャプルベシ
カトマンドゥからデリー空港に夕方5時過ぎに着いたが、機内に外気温44度とアナウンスが流れると、流石のインド人も避暑帰りということもあってか、「オー・ノー!」と一斉に声が上がった。
酷暑のデリーをすばやく抜けてダラムサラに帰ったが、ダラムサラも雨季が始まらず暑いの盛り。
チベットも「30年来の干ばつ」と聞くが、インドも干ばつ状態です。
帰ってくるんじゃなかった、と早くも涼しかったランタンに帰りたい気分。
ーーー
その日、まず私はランタン谷の入口の町シャプルベシ(シャフルベンシ)までのバスのチケットを買うために、リキシャに乗って教えられたバス・センターまで行った。
思ったより遠くてリキシャ代を値切り過ぎたな、、、と思った。
キップ売り場には人はおらず、「明日朝来い」と隣のキップ売り場のやつがいう。
困ったかな、、、、と思いリキシャマンに事情を言うと、「シャプルベシに行くなら他のバス停がある。知ってる。乗れ」とのこと。
そこに行き次の日に出るバスのチケットが買えた。
前から二列目。まあまあだ。とにかく私はバスに酔うので必ず前の席でないといけないのだ。バス代はたったの220ルピー(270円ぐらい)。
このバスが遊園地のマシンのように体験的なものであることは後で知ることになる。
とにかくバスのチケットも手に入れ、喜んでタメールに帰る途中のこと。
タメールの前にはきつい坂がある。リキシャマンは普通ここで漕ぐ事を止め、乗客を乗せたまま、あるいは降ろして、リキシャを押し上げる。
私はサカダワと言う訳ではないが、降りて一緒にリキシャを押し始めた
しばらく押した後、坂が緩やかになったところで、彼が乗れと言う。
急いで飛び乗ろうとした時のこと、残った片足が足の甲を下に後輪に巻き込まれた。
もちろんサンダルだったのでしっかりけがをしてしまった。
足を出すと血が出始めたが中々勢いよくて止まらない。
彼は当たりに落ちていた段ボールをちぎって押さえろという。
通りかかった人が薬局が近くにあるから行けという。
そこで応急処置をしてもらったが、いい加減だな、、、と思いながら見ていた。
とにかく蓋をして一旦終わったことにした。
途中、宿に帰る前にビザを頼むためにツーリスト・オフィスに行った。そこのおやじが足の包帯を見て、どうしたのだと聞く。状況を説明すると。おやじ曰く「だから。他人を助けたりするものじゃない。特に貧乏人を助けると必ず問題が起こる。人を助けるものじゃない」とのたまった。いかにもカースト的考え方というか、インド系と見えるこのおやじ、嫌な奴と思った。
私は傷の事は一旦忘れることにして、夕方からボゥドナートに行って右遶を繰り返した。
帰って、包帯を解いて傷を見ると中には小さな黒い石などが残っていた。洗って薬局でもらった薬で処置して又蓋をした。場所が左足の小指の後ろの方ちょうど骨がちょっと出っ張ってるとこだったので。靴を履くとあたるとこだった。
次の日の朝にはしっかり化膿して長さ2センチ、幅一センチの膿の海になっていた。
バスに乗った後は周りが腫れて靴が履けなかった。
実はこの傷とうとう最後まで治らず同じ状態だった。最初の一日は靴を履かず結局ゴムぞうりで歩き通した。
でもサカダワということで自分のドジを忘れ、まるで何もなかったように思うことにした。
お陰で、歩き始めると最初は痛んだが、すぐに忘れることができた。
バスは相当だった。とにかく道がこれでもかというほどにむちゃくちゃなのだ。バスとトラックとランクル以外は走れない。カトマンドゥからシャプルベシまで100キロちょっとなのに何と10時間かかった。1331mのカトマンドゥから、1600mほどのカカニの丘に登り、今度は500mのトリスリまで下る。ここまでは道は舗装されていて、まあまあだ。そこからは壊れた道を2400mまで上がり、ドゥンチェを過ぎるとまた1400mのシャプルベシまで下る。途中バスのシャフトが落ちて、その修理に1時間。朝、7時に出て結局夕方シャプルベシにやっと到着した。
バスの上にも人や荷物が一杯載る。ヤギが沢山載っていたもの見た。写真にはバスの上にマオパティ(マオイスト共産党)の青年部が一杯乗ってるところ。
ドゥンチェからは右手に目指すランタン峰(登るわけではないが)正面に国境を越えたチベットの山々が見える。
ランタントレッキングの出発点シャプルベシの町はチベットから流れてくる川沿いにある。
ここからチベットの国境までほんの数十キロだ。一日で歩いていけるという。ここの国境はネパール・チベット国境線の中でいちばん高度が低い1814mしかない。越えればキロンの町がある。しかし、この国境を越えてくる難民は今は皆無だ。川が障害になっているのだ。国境には橋が掛っているという。この国境の橋の監視人は昔はチベット人だったから地元の者たちはキロンまでは商売などのために行くことができたという。でも今では警備員は中国兵で少しでも近づくと銃を構えて帰れと言うそうだ。
左の写真:右手の川がランタン・コーラ、左にボテ・コシ、下流にトリスリ・ガンガ
川の名前は国境からここまでを「ボテ・コシ」という。ここで東から流れてくる「ランタン・コーラ」と合流し、名前を「トリスリ・ガンガ」と変えて南のインド平原に下り最後はガンジス河となってベンガル湾に注ぐ。
チベット人は数百年前からボテ・コシの東側、ランタン・コーラの北側を中心に住みついている。ボテ・コシの西側にはタマン族を中心に少数のグルン族も住んでいる。
昔からボテ・コシの東に住む者を「シャルパ(東の人)」、西に住む者を「ヌッパ(西の人)」と呼んでいるという。そして、1959年以降チベット人の難民がキロン経由で大勢この地域を通過していった。中にはここにそのまま住み続けている難民もいる。
シャプルベシには小さいがチベットの難民キャンプが三か所ある。もっともダラムサラなどに比べ生活は断然厳しいように見えた。子供たちは明るく楽しそうに遊んでいたけど。
驚いたことに、この町には中国人もいた。実はここから先国境までの道を今中国政府の援助でつくっているところだという。町には水力発電所もあるが、これも中国政府が作ったものという。いざと言うときの侵略道路になるのだろうか?
古い話だが、この道を通って18世紀の終わりに清朝の軍隊がネパールのグルカ兵と戦いながらこのずっと下のトリスリまで進軍したことがあったという。
これは、チベットと当時のネパールを支配していたグルカが鋳造貨幣の比率に端を発した戦争をしたときのことだ。チベットはこの戦争のために清朝に応援を求めた。嘗てはこんなこともあったのだ、今の日本や韓国がいざと言うときにはアメリカに助けを求めるようなものだろうか?
それにしても、清軍はチベットに北から入ったのか?成都方面から入ったのか?知らないが、ずいぶんと遠くまで歩いてきたものだ。皇帝は「よっしゃ、ラマがおっしゃるなら助けてやろう」と言うだけですむが、実際にここまで中国から歩いて来て、かつ戦わされた兵士には同情する。
バスがシャプルベシに着くころ前に座っていたチベット人が話掛けてきた。彼は国境近くの村に生まれたけど今はデリーで働いている、今回久し振りに郷里の母親に会いに帰ってきたとのこと。どうりで解り易いチベット語を話すと思った。私は足が痛むこともあり、最初はポーターなしで歩くつもりだったが、着いたらチベット人のポーターをインホーマーにもなるしで雇おうかなと思い始めていた。彼にチベット人のポーターはいるかな?と聞くとすぐそばに座っていた夫婦のチベット人に話掛けた。その旦那の方が良かったら自分がやると言って来た。体は大柄で力はありそうだった。やさしそうな顔をしていた。チベット語は現地訛りが強かったが何とか理解できそうだったので、彼に頼むことに決めた。
彼とはその後10日間も一緒に歩いていろいろと話をした。本当にいい奴だった。
彼の名前はド・サン(善良な石)、国境に近い村ブリディンに代々住んでいて、今は10歳の一人息子をカトマンドゥの学校に送っていて夫婦二人で住んでいるという。
今回カトマンドゥでは子供に会って、そのあとサカダワのボゥドナートで五体投地をしていたという。
彼の話だが、母親は彼を含め14人の子供を産んだが、成人したのはたったの5人だったという。ランタン谷と違い旅行者も来なくて村人はみんな貧しいという。彼は学校に一度も行ったことがないと言っていた。しかし、彼はお経だけは読める、常にお経集を懐に入れていて、寺やパドマサンババの聖地と言われるところに来ると必ず長いお経を上げていた。キャンジンでは一緒に読経会にも参加した。地元にラマがいてお経だけは30過ぎて習ったそうだ。
次の日の朝、彼はやってきた。8日朝7時いよいよ出発。ボテコシに掛る吊り橋を渡りチベット人キャンプに入る。ここには比較的立派な学校がある。チベットの亡命政府もこの学校には援助しているという。
続く、
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)