チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年5月31日

天安門/続・特使ケルサン・ギャルツェン氏の話

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87a0f2d4.jpg以下、天安門関係日本の記事二本。
頑張って取材し、書いてくれてると思います。

写真は東京新聞より「片足切断の元塗装工」

東京新聞:天安門事件 20年 今も国から迫害:国際(TOKYO Web)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009053102000079.html

 中国で学生らの民主化要求運動が弾圧された一九八九年の天安門事件から六月四日で二十年を迎える。共産党政権は当時の運動を「反革命暴乱」と位置付け、「暴徒を鎮圧した」という認識を変えていない。急激な経済発展で国民の生活は豊かになり、事件への関心も薄れつつあるが、当時の被害者らは今も真相解明を求め続けている。 (北京・平岩勇司、写真も)

◆左脚切断の元塗装工『罪認めるまで闘う』

 雨の日は失った左脚の先が痛く感じる。まるで「あの日を忘れるな」と言うように。

 一九八九年春、塗装工をしていた斉志勇さん(53)は「腐敗反対」を訴える学生に共鳴し、運動に参加した。六月四日未明、天安門広場近くで左脚に二発の銃弾を受け、手当てが遅れたため切断した。

 少年期は国中が混乱した文化大革命の最中で、小学三年生までしか学校に通っていない。それでも「共産党は人民を守る」と教えられ、信じてきた。

 「熱愛する祖国の軍隊に撃たれ、信じていたすべてを失った」

 勤務先からは「仕事中の事故とすれば補償金がでる」と労災申請書を渡されたが、拒否した。「世界中に学生運動はあるが、中国だけが軍隊で人を殺した。共産党が罪を認めるまで闘う」

 斉さんはその後、昨年ノーベル平和賞候補となった胡佳氏らと民主化活動を続ける。何度も当局に拘束され、つえをけられて倒される屈辱も受けた。四年前には身元不明の男らが自宅に押し入り、斉さんは肋骨(ろっこつ)を折られた。昨夏の北京五輪中も北京から隔離された。

 パートをする妻の収入に頼る苦しい生活。心の支えは事件後に入信した、中国では非合法の地下キリスト教会。「慈愛の教えは私に新たな生命を与えてくれた」

 事件二十年となる今年の六月四日は「必ず北京にいる」と語っていたが、五月二十五日、警察に拘束され、北京郊外に軟禁された。持病の糖尿病の薬もなく、食事もできない状態だが、関係者に携帯メールを送った。

 「主の教えで私の心は平穏だ。私はくじけない」

◆死者数なお不明 当局、正確な情報公開せず

 天安門事件の死者数をめぐり、当初は数千-数万人の説が流れたが、最近は数百人から千人強との見方が強まっている。

 中国当局は「死者は三百十九人」と説明。当時の現場で取材した新華社通信の元幹部は今月、香港で出版した回顧録で「中国赤十字の幹部が七百二十七人の遺体を確認した」と明かしている。

 また、「天安門広場で死者は一人もいなかった」とする当局に対し、丁子霖さんは広場で殺害された市民がいたことを突き止めている。丁さんは「死者は千人以上」とみる。

 事件直後に北京中心部の病院を回った元学生指導者は「死者の合計は千五百人近かった」と証言。いずれにせよ、当局の情報公開がなければ正確な死者数は不明なままだ。

◆『政権転覆が目的』 党、見直し拒む

 天安門事件の背景にはさまざまな要因があった。最高実力者の〓小平氏が一九七八年に改革・開放政策を導入して十年余、西側の民主思想が一気に流入。学生、知識人に刺激を与えた。開放政策に伴い官僚の腐敗、経済格差も問題となり、市民の不満が高まっていた。改革派指導者の胡耀邦氏の急死が民主化要求運動の発火点となった。

 一方、運動は〓氏ら党長老にとって、大衆運動で無政府状態に陥った文化大革命時代の悪夢を想起させた。折から東欧の社会主義体制が不安定になっていた時期でもあり、〓氏らは「運動の目的は政権転覆」と決めつけ、人民解放軍が人民を殺害する惨劇を起こした。

 胡錦濤氏と温家宝氏が国家主席と首相に就任した七年前、「天安門事件は過ちだったと見直すのでは」という淡い期待があった。胡主席は胡耀邦氏を「師」と仰ぎ、温首相は学生運動に好意的だった胡耀邦、趙紫陽両氏の部下だったためだ。

 だが、見直しの動きはない。弾圧に関与した江沢民前国家主席は今も影響力を残す。胡主席自身も〓氏から指導者に指名された立場。〓氏批判につながる歴史の見直しは難しい。

 天安門事件で失脚した趙氏の軟禁中の発言をまとめた本が今月、米国や香港で出版された。「武力弾圧は誤り」「中国は多党制に変わるべきだ」。衝撃的な内容だが、現指導部に耳を傾ける余裕はない。官僚の腐敗や経済格差は二十年前より悪化し、民衆の抗議行動は年間十万件起きているといわれる。胡主席は天安門事件について「社会主義の正しい道筋を堅持した」との公式見解を維持している。

◆真相求め続ける

 もう何千回、涙を流したのだろう。中国人民大学元助教授の丁子霖さん(72)は、天安門事件で十七歳の息子を失った。彼女は悲しみを力に変え遺族会「天安門の母」を結成、犠牲者の実態を独自調査している。

 熱心な共産党員だった丁さん、夫の〓2培坤・元同大教授(75)は息子の〓2捷連君に「国を愛するように」と説いて育ててきた。

 一九八九年春、捷連君は民主化を求める大学生の支援デモに参加した。高校でトップの成績を収めていた彼は「来年は北京大学に進学したい。あそこは民主の揺りかごだからね」と話していた。

 軍が動き始めた六月三日夜、夫妻は「外出してはだめ」とドアに鍵をかけた。捷連君は「いま大事なのは参加することだよ!」と叫び、丁さんの顔にキスをすると、トイレの窓から抜け出した。自転車で天安門広場へ向かう途中、心臓を撃ち抜かれる。同級生に「当たっちゃったみたいだ」と言って崩れ落ちた。夫妻は二日後、遺体の彼と再会する。

 「息子が一体、何をしたというのか」

 丁さんの闘いはそれから始まる。当局が死傷者の名前も発表しない中、遺族を捜し歩き百九十五人の氏名や死亡時の状況を調べた。死者には九歳の少年もいる。国営新華社通信に雇われて広場の写真を撮影中、射殺された学生もいる。「暴徒」など一体、どこにいるのか。「誰一人として暴力行為をしていない。虐殺事件の罪なき犠牲者だ」

 夫妻は党を除名され大学も追われた。軟禁と監視を受け続けてきたが、他の遺族と連名で責任者を追及する公開書簡を毎年発表してきた。

 丁さんは今も同じ夢を見る。

 「息子がドアを開けて家に帰ってくるの。私は『ああ、やっと会えたわ』と抱きしめる。体の感触があるんですよ! 私が『天国の暮らしはどう?』と一生懸命話しかけると、息子はずっとうなずいてる。そこで目が覚めるんです…」

 涙が止まらなくなる丁さん。白髪が目立ち、病気がちの夫の世話も体力がいる。それでも気力を振り絞る。「私が生きている限り、真相を求め続ける。母の愛の力は、共産党などに負けない」

 自宅には、デモ隊の先頭に立つ鉢巻き姿の捷連君の絵が飾られている。祖国の将来を信じて、十七歳のまま笑顔を浮かべている。

※〓は登におおざと

※〓2は蒋の旧字体

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民主化弾圧事件から20年 「天安門」の真実 香港争鳴 回顧録、告発本…出版相次ぐ / 西日本新聞

http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/display/6567/

(2009年5月31日掲載)

 1989年6月4日、中国当局が民主化運動を武力弾圧した天安門事件から間もなく20年。中国政府は、その後の経済成長を根拠に「解決済みの問題」と位置付け、事件の再評価などを求める民主化運動に対し厳しい言論統制を敷いている。だが、一国二制度の下、香港では、当時の学生運動家らの回顧録や告発本の出版が相次いでいる。学生運動に理解を示し、失脚した故趙紫陽総書記の回顧録「改革の歴程(英語版・国家の囚人)」の出版に尽くした同総書記の元秘書、鮑〓(〓は「丹」に「さんづくり」)(ほうとう)氏(76)を北京の自宅に訪ね、出版の狙いを聞いた。
 (北京・椛島滋)
 
 香港の週刊誌、亜州週刊の特集記事「六・四!六・四!」によると、天安門事件20周年を前に香港で出版された関連書籍は計6冊に上る。
 
 「改革の歴程」は、趙氏が約16年間の自宅軟禁中、事件をひそかに回顧した30本の録音テープを英文と中国語でまとめた。この中で、趙氏は「当時の最高実力者、〓(〓は「登」に「おおざと」)小平氏に武力弾圧をやめるよう説得したが、〓(〓は「登」に「おおざと」)氏は軍隊出動を決断した。悲劇は避けられなかった」と振り返っている。
 
 国営通信・新華社の元幹部の回顧録「歴史の大爆発」は、中国当局が319人とする同事件の死者数を727人だったと告発した。このほか当時の学生運動リーダーや元新聞記者たちが、中国当局の監視を逃れ、香港での出版に踏み切っている。
 
 だが中国本土では、こうした回顧録の出版や趙氏の録音テープのネット上での公開を報じた香港紙「明報」が、その後、没収される事態が頻発。中国外務省は、週2回の定例会見の質疑応答を同省サイトで公開しているが、天安門事件に関する外国人記者との質疑応答は、会見録からもすべて削除している。
 
 中国本土のメディアは事件の関連報道を一切行っておらず、25日に北京であった1000人規模の人権擁護デモも報じていない。
   

 ●「歴史の暗部を忘れるな」 故趙紫陽総書記の元秘書鮑〓(〓は「丹」に「さんづくり」)氏に聞く 中国の現状 批判
 
 -今回の回顧録出版の狙いは。
 
 「中国政府は隣国に対し『歴史を忘れるな』と言うが、私は中国政府に『自分たちの歴史を忘れるな』と言いたかった。日本は軍国主義の教訓を学んだが、中国では当時から共産党の1党独裁が続いている。腐敗による社会矛盾が激化している。そのことに警鐘を鳴らしたいと思った」
 
 -趙紫陽とは、どんな人物だったのか。
 
 「趙紫陽は共産党を分裂させようとしている、と〓(〓は「登」に「おおざと」)小平に批判された。だが、党への愛情は〓(〓は「登」に「おおざと」)に負けていなかった」
 
 「しかし彼は、党は民意に従うべきで、大衆を党の友人とみなし、その意見は党の助けになる、特に提案する人を大切に考えた。逆に〓(〓は「登」に「おおざと」)小平は、党は権力を持ち大衆はそれに従うもの、と考えた。だからあの抗議行動を危険分子、動乱と断定し軍で鎮圧すべきだと考えた。20年前の悲劇は避けられないものだった」
 
 -今の中国共産党をどう評価する。
 
 「20年前、学生たちは腐敗打倒と叫んだが、今は誰もできなくなった。当時は酒やたばこを渡すのが腐敗だったが、今は株券や別荘を贈るようになった。大衆が裁判所に訴えようとすると国家転覆罪だとされ、報道しようとしてもダメだ、と止められる。この20年で党の執政能力は大いに高まった。そういう意味で共産党は“改善された”といえるかもしれない。だが、腐敗の上に築かれた一部の権力者の自由、天安門事件によってもたらされた多数の悲しみの上に築かれた自由に、私は興味はない」
 
 -あなたは、中国政府に拘束される心配はないのか。
 
 「懸念はある。しかし怖くはない。回顧録は英語版、中国語版とも海外と香港で出版するだけだ。ただ、大陸でも出版できるなら歓迎するし、そうなれば中国の前途は明るいものになる。ぜひ江沢民元総書記の回顧録と読み比べてほしい」
 
 -今の中国の若者をどう評価するか。
 
 「彼らは中国の歴史の暗部を全く知らない。それが大きな欠点だ。だが利点もある。彼らは今、中国と外国を比較できる。欧米や日本など西洋の制度や観点を知っている。彼らも(今の政治制度について)いずれ選択を迫られる時が来るだろう」

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最後に昨日のケルサン・ギャルツェン氏の話には続きがありました。

【グローバルインタビュー】
ダライ・ラマ特使のケルサン・ギャルツェン氏(下) 15世決定は中国側の幻想 – MSN産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/world/china/090531/chn0905311301004-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090531/chn0905311301004-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090531/chn0905311301004-n3.htm

2009.5.31 13:00

 -なぜ、中国側はこれほど強硬なのか。

 「これは50年前に中国人民解放軍がチベットを占領して以来の安全保障上の問題のほか、中国によるチベットへの理解の欠如が根底にあると思う。また地政学的な問題もあり、中国内の保守強硬派がチベット独自の宗教や文化、言語などの重要性をまったく理解していないことも大きな要因だろう。今後の対話について、われわれはいつ、いかなる場所でも、中国側との話し合いに応じる用意がある。ボールは中国側にあるのだ」

 -中国のメディアが伝えるところでは、ダライ・ラマ側はチベットがかつて統治していた地域、いわゆる「大チベット区」の復活や中国軍と漢民族(中国人)がチベット自治区から出て行くことを条件に挙げており、これについて中国指導部が警戒しているというが、これは事実か。

 「それは極めて重要な点だが、事実とは違う。大チベット区というのは歴史的なものであり、多分に考古学的なものであり、現状とは相いれない概念だ。これはチベットの独立を意味してしまう。ダライ・ラマが求めているものは、あくまでも自治であり、独立とは違う。よって、われわれが大チベット区を要求しているというのは当たらない。ただ、この概念については、対話の際に、中国側に説明したことはある。それから、軍の撤退だが、これはダライ・ラマがかつてストラスブールで宣言した際に、チベットの非武装化を提案したことがあったことが、条件といてとられているのではないか。これはあくまでも提案であり、条件ではない。3番目は漢族の移住の問題であり、例えば、内モンゴル自治区はモンゴル人の自治区のはずだが、居住しているモンゴル人は全人口のわずか18%にしか過ぎない。これでは、自治区の真の姿ではないのではないか。チベット自治区においても、漢族が多数移住しており、チベット人の自治区の本来の姿でなくなってしまうことも考えられる。しかし、われわれは現在住んでいる漢族を追い出そうという考えはまったくない。われわれは9回の話し合いで、中国各地を訪問した。中国の地方の官吏と話していると、極めてオープンで、寛容で親切な人が多い。しかし、それが徐々にチベット人居住区に近づくにつれて、地方政府の幹部らの態度が硬化するなど、極めて神経質な雰囲気になってきていた。これは明らかにわれわれを警戒しているようだった」

 -中国側はことあるごとにダライ・ラマを激しく批判しているが…。

 「これまでの対話で、中国側はダライ・ラマについて『チベット自治区などチベット内部の問題について口出しする権利はない』『ダライ・ラマはチベットの状況について論評する権利もない』などと激しく批判していた。さらに、中国側は『チベットの最大の問題点はダライ・ラマ14世にある』として、ダライ・ラマの特権や宗教的な立場、その肩書などは『一切認めない』と主張するなど、ダライ・ラマの宗教的な存在を一切否定しようとしている。このように、中国側の関心はダライ・ラマに集中しているようだ。しかし、ダライ・ラマは交渉に当たって、われわれ特使に対して『私(ダライ・ラマ)の個人的なことは一切交渉をしてはならない』『一切、私個人のことについて話に応じるべきではない』と命じていることから、私たちは対話の場で、ダライ・ラマ本陣が中国に帰還した際の処遇などについて話し合ったことはない。われわれは、あくまでもチベットの宗教や言語などチベット独自の文化の保護などについて話し合いを求めてきたが、中国側はわれわれの提案にまったく応じようとはしなかった。ダライ・ラマの個人のことについて、2002年以降の中国側との対話では話し合ったことはないが、1980年代初めに、当時の胡耀邦・党総書記がチベットの代表団に対して、ダライ・ラマの中国帰還に関して、『(ダライ・ラマが中国を逃亡し、インドに亡命した)1959年以前の肩書をすべて適用したい』と述べていた」

 -ダライ・ラマ14世の後継者について、中国側は自らが指名しようと動きがあるように伝えられているが…。

 「中国側はダライ・ラマ14世の後継者である15世を決めればすべての問題が解決すると思っているようだが、それは大きな幻想だ。そうなれば、チベット内外のチベット人による大きな抗議行動が展開されるのは火を見るよりも明らかだ。チベット内部では昨年3月以来、小規模なデモが継続的に起きており、チベット内部の反中感情はまったく収まっていない」

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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