チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年5月23日
中国の伝統
このところダラムサラは、ほぼ毎日激しい突風と雹を伴った夕立ちに襲われる。
家が絶壁の上に建っているので強い風に家が揺れることもしばしば、近くのトタン屋根の家の屋根が飛んだりしている。
もっとも嵐には慣れてるし、窓から見てるのは面白いぐらいだ。
却って気温が下がって嬉しいし、、、嵐のあとは山が白くなるし、、、夜には天の川
が洗われた空にくっきりだし、、、
だが、良くないのは電線が切れて停電することです。
昨日の午後から切れてさっきまで丸一日以上切れてました。
暇つぶしに本を読んでましたが、その中、陳凱歌「私の紅衛兵時代」は面白かったというか、中国を知るにはとてもよい参考書の一つだと思いました。
中国の暴力、リンチ、拷問と言った動物的行動が如何に習慣、伝統と化して来たかが理解できたような気になりました。
それにしても、文革物を読むといつも「世界残酷物語」を読んでいるような気がして、ため息が出ます。
本の中に引用されていた毛沢東の言葉をニュースの後、解説としてお知らせします。
以下の記事は今日付のパユルに出てた「China Daily」が伝える中国のお話です。
<問題の天安門事件を前に警官隊と市民が衝突>
記事には二件の衝突事件が報告されています。
一つは江蘇省の州都、南京の伝統ある南京大学で今週月曜日に起こった事件。
最初は些細なことで、道端で学生が屋台を出していたところを当局の役人に襲われたというのです。
この役人というのは南京都市管理局の者たちだというが、彼らは日ごろから貧乏人や道端で屋台を開いている者たちに乱暴を働くことで有名だった。
数千人の怒った学生たちが道に出て5時間に渡り町の交通を遮断したという。
町の人々は「南京一大きな大学で数年来無かった騒ぎが起きた」と話している。
このデモに参加した学生は主に大学の「航空宇宙科」の生徒だという。
学生たちは中国語と英語で書かれたプラカードには何と「我々はガンディー主義に基づいて<非暴力・非服従>の抵抗運動を行う」と書かれており、さらに「社会的弱者を助け、調和ある社会を築こう」という2004年以来の中国政府のスローガンも掲げられていた。彼らはデモの様子を携帯電話で撮影し、様々なネットに流したという。
これに対し当局は「誰も脅されてもいないし、暴力も受けていない」と反論している。
もう一つは甘粛省白銀(バイイン、蘭州の北北東100キロ)での話。
事の起こりは、目撃者の話によると、「交通警官が自転車に乗っていた21歳の若者を引き倒し顔面が血だらけになるまでリンチした」と言う事からだとか。
それが約1000人の市民が市街に繰り出し、警官に石やレンガを投げ、三人の交通警察官アシスタントが殺されたという。
その他、当局によれば警官隊との衝突により10人の警官と役人が負傷したという。
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中国の学生がガンディー・ジーを持ち出すとは面白い現象ではあります。
何れ、中国では毛沢東が自ら率先して学生を扇動した時に始まり、この伝統のままに政変は学生からと相場が決まってるのかも知れません。
チベットの学生とは僧侶のことです。
ここで陳凱歌氏の本に戻りますが、彼は自分の家が若い同級生の紅衛兵によって略奪された後こう語っています。チベットの状況も理解しやすくなると思われるので、少し書き写して見ました。
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P102ー
家宅捜査や差し押さえをやった側の人間も、後になってみれば確かにおかしいと思ったことだが、憲法に個人の財産を守ると明記してある共和国で、公民が、ましてやまだ公民でもない未成年が、他の公民の財産を勝ってに焼き払い、略奪しても、処罰されなかった。そればかりか、かばってもらえたのだ。それはいったいなぜだったのだろう?それは、この家財没収が、はるか昔からの中国の伝統だったからだ。乱世の時代の、暴徒たちの「打ち壊しによる貧民救済」から、治世の時代の、皇帝の「上意による差し押さえ、没収」に至るまで、目的は違おうとも、そのやり方は同じだった。どちらも、没収することに意味があるのだ。紅衛兵の行動は、伝統を発揮し、古い芝居を焼き直したものにすぎない。没収の目的は、経済的に被害者を追い詰めるだけでなく、思い出の品を破壊して、精神の柱を失わせることにあった。事件後に多くの老人が亡くなったのも、拠り所を崩されたからだ。
毛(沢東)は、二十年代に行った有名な「湖南省農民運動の視察報告」の中で、はっきりと述べている。「革命は客を招いて御馳走することでもなけてば、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなに穏やかで、おとなしく、うやうやしく、慎ましく、控え目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうち倒す激烈な行動である」。また、こうも言った。「連中(敵)を地面に打ち倒し、さらに上から足を踏みつけ、永遠に起き上がれないようにし、永劫に身動きもできないようにする」。この大盗賊ばりの言葉は、紅衛兵の群れによって金科玉条とされた。それどころか、それは文革の時にとどまるものではなかった。
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こんな指導者が今また人気を吹き返しているとか?
こんな歴史と社会を知ってチベット人なら誰しも中国人のことを「ニンジェ(可哀そうに)」と言うことでしょう。チベットの伝統は「ニンジェ(慈悲、可哀そう、愛)だからです。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)