チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年5月20日

今度はカンゼから勇者二人亡命に成功/チベットの遊牧民が消えれば日本に黄砂が降る

Pocket

3945b4ed.jpgこのたび、今度はカンゼདཀར་མཛེས་のデモを先導した二人のカンパ(カムの男)が亡命に成功しました。

マデ・ゴンポ氏མ་འདས་མགོན་པོ་41歳とツィスンབརྩི་སྲུང་僧院の僧侶ツェリン・ジグメ氏ཚེ་རིང་འཇིགས་མེད་は昨年3月18日のカンゼ大デモを先導したとして指名手配され、一年の間山に逃げ隠れていたという。

以下はRFAがデリーに到着したゴンポ氏にインタビューしたものです。

http://www.rfa.org/tibetan/sargyur/two-tibetans-from-kardze-escape-to-india-05182009225211.html

http://phayul.com/news/article.aspx?id=24750&article=Two+more+Tibet+protesters+escape+to+India

ゴンポ氏曰く:
チベットの他の地方でも抗議の火の手が上がったので、我々も法王の長寿を祈願する行進を行ったまでだ。
カンゼ中心部のタチュ・ドから歩き初め二つ橋を渡ったところで、5台の警察車両と2台の軍隊のトラックが到着し、我々に襲いかかった。
その時チベット人は1000人以上いた。
15人が先導者だ。

その内5人は逮捕された。
2人は銃で撃たれた。
私と他の者たちは逃げることができた。
しかし、家には決して近づけない。
私はニャロンやその他の遊牧民のいる山々を転々とした。
時には二、三日何も食べるものがないこともあった。
病気になって熱にうなされたこともあった。

そのうち遊牧民とうまくやれるようになった。
彼らは食べるものをくれた。
ある者はカンゼまで様子を見に行ってくれたものもいる。
でもカンゼから帰ってきた彼は「カンゼではチベット人は撃ち殺されている。帰れるわけはない」と言った。

2008年の5月7日にはカンゼ警察はカンゼ地区から自分とツェリン・ジグメ、その他3人、ダゴ県の4人、セタ県の27人を指名手配した。
情報を知らせた者には1~2万元の賞金が与えられるとされた。
これはテレビで放送され、賞金は今年に入ってさらに上げられたと聞いた」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

チベット 遊牧民のテント続いては、日本の話です。
内モンゴルやチベットの遊牧民たちを強制定住政策により、以前の草原が砂漠化しそこから黄砂が発生し、北海道を襲うという因果の話です。
(少し長いです)

ーーー

草原から黄砂 中国・内モンゴルで発生 (5月18日 東京新聞・中日新聞『こちら特報部』)

ユーラシア大陸中央部で発生する黄砂は、この時期、偏西風に乗ってしばしば日本にも飛来する。元来、黄砂はゴビ砂漠や黄土高原、タクラマカン砂漠などで発生していたが、その中心は今や中国・内モンゴル自治区の草原地帯に移りつつあるという。なぜ、草原から黄砂が? 原因を探ると、誤った遊牧民政策という「人災」の側面が浮かび上がってきた。 (外報部・浅井正智)

●北海道への飛来が増加

近年、被害が顕著となり、国際的な関心が高まっている黄砂だが、北海道江別市の酪農学園大学で黄砂の発生メカニズムを研究するブホー・オーツル教授(44)=内モンゴル出身=は、ある事実に注目している。
「かつてはほとんど見られなかった北海道での黄砂が、今世紀に入ってたびたび見られるようになった」ことだ。
黄砂は九州や関西など西日本に降ることが圧倒的に多い。しかし、気象庁によると2000年以降、北海道でも計34日間の黄砂を記録している。
特に02年は17日間(延べ75地点で観測)という多さだった。
ゴビ砂漠や黄土高原は北海道よりも緯度が低く、黄砂が偏西風に乗っても北海道には達しない。衛星写真で黄砂の流れを分析したブホー教授は、意外な発生源を突き止めた。ゴビ砂漠や黄土高原よりも更に北に位置する内モンゴル、つまり自身の故郷だったのである。

●「遊牧民族政策の誤り原因」

内モンゴルは砂漠を抱える半乾燥地帯だが、新たな発生源は以前から砂漠であった場所ではなく、本来は草原だったことも分かった。
この10年間、毎年現地調査を行った結果、教授が得た結論はこうだ。
「遊牧民に対する誤った定住化政策のため、緑豊かな草原は砂漠に変わり、黄砂が起こるようになってしまった」

チベット 遊牧民●ヒツジ移動できず・・・定住化推進で急速に砂漠化

中国当局は内モンゴルや新疆ウイグル自治区、チベット自治区などで、「遅れた生活条件を改善する」名目で、遊牧民の定住化政策を進めている。その際、遊牧民に土地を分配し、それぞれの土地を柵で囲うという措置を取った。
草原は、砂の層に10センチほどの薄い表土が載り、その上に草が生えているという構造。ヒツジは新鮮な草を求めて移動する習性があり、広い草原で放牧すれば、草は一度ヒツジに食べられても、また、すぐ生えてくる。しかし「柵で自由な行動を制限されたヒツジは、同じ場所を掘り返し、草の根まで食べてしまう。すると、草は生えてこなくなり、草原は急速に砂漠化する。その砂漠からはやがて黄砂が発生する」とブホー教授は砂漠化のメカニズムを説明する。
なお悪いことには、人々は生産性を上げるため、より多くのヒツジを飼おうとする。「過放牧」が起き、草原の砂漠化に一層拍車がかかってしまう。

●当局は人災認めず「過放牧」主張

特定非営利活動法人(NPO)「内モンゴル砂漠化防止植林の会」によると、内モンゴルで牧草地として使用可能な草原の面積は、1960年に82万平方キロだったのが、99年には38万平方キロに激減したという。
緑が消えた面積44万平方キロは、日本の国土(38万平方キロ)をはるかにしのぐ。
「草原の砂漠化は共産党による人災だ」と教授は断言する。しかし当局は失政を認めてはいない。逆に「過放牧が砂漠化の原因」として放牧を禁止し、遊牧民を草原から締め出している。放牧を放棄させられた住民は7万人以上とされる。彼らは生きるために農業に活路を見いだしていく。草原がまた掘り起こされ、そこにもやはり草は生えなくなる。
「草原を耕すな」―。遊牧民の間にはこんな言い伝えがあるという。ブホー教授は現地調査の際に地元の人たちを集め、「困難でも遊牧生活に戻る努力をすべきだ」と説いた。しかし、背に腹は代えられない地元の人々は矛盾を感じつつも、砂地でも育つ豆やトウモロコシを栽培し、生計を立てている。

チベットの草原●「3000年の放牧文化 破壊」

モンゴル民族の放牧の歴史は3000年といわれる。遊牧民たちは自由に草原でヒツジを放牧していた。「放牧は自然の仕組みの上に成り立ってきた。しかし当局の政策は、少数民族の生活や文化、感情を考えることはない」と教授は批判する。「長い歴史を持つ遊牧民の文化は、共産党政権の数十年で破壊しつくされようとしている」

●開発で有害物質、付着し日本へ

近年、変化したのは黄砂の発生場所だけではない。黄砂の成分も変わってきた。とりわけ有害物質を含む黄砂が問題視されており、環境省が2002―05年に行った「黄砂実態解明調査」でも、大気汚染物質が黄砂に付着して日本に飛来している可能性を指摘している。

●排煙や排水 垂れ流され

ブホー教授は現地調査の折、排水が放つ異臭に思わず鼻を覆ったことがある。南京市郊外から移転してきた工場が、未処理で垂れ流す有害な排水が異臭の“犯人”だった。
北京や上海など沿岸の都市部に比べて経済的に遅れている内陸部を開発するため、「西部大開発」の名の下、西部辺境地域に工場を次々に誘致している。教授によると、こうした工場のほとんどが、環境保護を考慮せず排煙や排水を野放図に流しているという。
「排水が垂れ流された場所が砂漠化して黄砂になったり、上空の排煙が黄砂に付着すれば、有害物質が黄砂として飛んでいくことになる」
教授は故郷を訪れるたびに「少年のころに見た草原が消えていく現状に深い悲しみを感じる」と話す。広がっていく砂漠を目の当たりにすると、絶望感と無力感にもさいなまれる。できるのは「これ以上砂漠を拡大させないこと」くらいだ。

●国際社会が解決を迫れ

そのために何をすべきか。ブホー教授はこう強調した。「地球の自然環境は人類共通の財産であり、決して中国一国の問題ではない。国境を越えて出ていく黄砂の被害を抑えるため、国際社会が中国に圧力を強め、解決を迫ることが不可欠だ」

☆同地出身の研究者 酪農学園大・ブホー教授☆

ブホー・オーツル 64年、中国・内モンゴル生まれ。95年、中国科学院博士課程修了。中国科学院リモートセンシング応用研究所副教授、北海道環境科学研究センター特別研究員などを経て、現職。理学博士。07年に日本国籍取得。日本名は星野仏方(ぶほう)

<デスクメモ>
この原稿で、数字とグラフが好きなコンサルタントたちを思い出した。生産性を上げようと力んだものの、手法を間違え、とんでもないことに―というのは、なにも自然相手ばかりではない。果実を得る部門の陰に、種をまき肥やしをまく部門があることを軽視した「成果主義」がそうだった。 (隆)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)