チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年5月13日

王力雄さんの「唯色事件透視」

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244f6c2a.jpg今日はウーセルさんの旦那さんの王力雄さんの「唯色事件透視」と題たエッセイです。

「思いつくまま」様が去年1月に翻訳されたものを転載させて頂きます。
「思いつくまま」様ご苦労さまでした。

ウーセルさんが2003年に「チベット・ノート」という随筆を出版したことで、本は発禁となりウーセルさんは当局から「思想教育」を行なわれ、「自己批判」し「関門を通過する」よう迫られました。

その状況を世に訴え、彼女を救うために書かれた文章ですが、中国政府の政策を批判し、チベットに対する鋭い分析、提案などが沢山含まれています。
ウーセルさんの泣ける手紙も有ります。

長~~~いです!

http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/d/20080122

http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/36717e1833957b1a2c68912ff4ce4059

http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/d/20080125

王力雄:チベットの直面する二つの帝国主義――唯色事件透視(1)

原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ee0508bb3fd152dc37ea15e99c94f31

政治的帝国主義の文化圧制

 その悪名と文明社会による拒否に対応して、今日では単純な領土拡張と資源の略奪は帝国主義の主要形態ではなくなっている。たとえ占領と殖民を続けていても、経済援助など現地の民族に役立つという外套をまとい、文明上の優越と物質的恩恵授与者を自ら任ずる。この時代には、帝国主義は文化の面でより具体的に表現される

 現在のチベット問題に関する論争において、文化が一つの焦点である。外部の批判に対して、中国政府の列挙する多くの実例が説明するのはそのチベット文化保護――寺院の修復、文化財保護、チベット語教育推進、二言語使用の規定、途絶えた芸術の救済などである。しかし、国際社会とチベット人亡命者はこの面で中国を批判し、同様に多くの実例を挙げる。双方の結論はまったく正反対である。私は、この視点から文化を議論するのは一種の逸脱であると思う。なぜなら、民族文化は他でもなく、民族の自己表現だからである。この表現とは単なる歴史の再話や伝統表現だけでなく、より重要なのは自民族の現実の境遇の体験、思考と訴えである。たとえ歴史と伝統の表現であっても、自民族自体から発せられ、かつ民族の現実の意識と結合していて、はじめて生きた文化となる。でなければ、民族の自我を失い、現実とのつながりを断たれ、文化は抜け殻や操り人形となり、形式は具えていても生命は失われる。

 例を挙げれば、たとえ民族の文字を非常によく保存していたとしても、民族の文字で民族の真実の体験を訴えられず、帝国統治者の声の再話しかできないとすれば、その文字にどれだけの文化的意義が残っているだろうか? よって、民族文化が保護されているかどうかの判断の主要基準は、伝統の保留ではなく、まして投資額の多寡でもない。

 この観点から見ると、中国当局のチベット文化の破壊と圧制ははっきりとわかる――それが他にどれほどのことをやったとしても、それはチベット民族の自己表現を許さない。すべての表現が中国当局の統制のもとに行われ、いかなる逸脱も処罰される。チベットの女性作家唯色の境遇がまさにその例証である。唯色は漢語で著述するチベット人女性作家である。1966年にラサで生まれ、四川省のチベット地区で成長し、1988年西南民族学院漢語学部を卒業した。甘孜州報の記者になり、1990年にラサの雑誌「チベット文学」編集部に異動した。『チベットは上る(西蔵在上)』、『真紅色の地図(絳紅色的地図)』、『チベットノート(西蔵筆記)』などの著作がある。唯色に厄介をもたらしたのは『チベットノート』である。『チベットノート』は随筆で、2003年に広州の花城出版社から出版された。一方で好評でたちまち重版されたが、一方では当局の注意を引いた。まず、中国共産党統一戦線部がこの本を「深刻な政治的誤りがある」と判断した。すると、チベットのイデオロギー担当者がすぐに『チベットノート』を審査するよう命じ、同時にチベットで『チベットノート』を販売することを禁じた。その後、広東省新聞出版局に『チベットノート』を全面的に販売禁止にするよう要求した。唯色の所属職場のチベット文学芸術界連合会(文連)は『チベットノート』に対して次のような結論を下した。「宗教の社会生活における積極的な役割を誇張、美化し、一部の文章の中でダライラマに対する崇拝と敬慕の念を表明し、一部の内容は狭隘な民族主義思想を表現し国家の統一、民族の団結の観点と言論にとって不利である。一部の内容はチベットの改革開放数十年の間に勝ち取った巨大な成果を無視し、道徳的流言の旧チベットに対する懐旧の情に浸りすぎて、間違った価値判断をし、正しい政治原則にそむき、現代作家が担うべき社会的責任と先進文化建設のために担うべき政治的責任を失っている」。中国新聞出版総署の副署長石峰はつづけて出版工作会議の席で『チベットノート』を重点的に叱責し、この本を「十四世ダライラマ、十七世カルマパを賞賛し、宗教を崇拝、宣揚するなどの深刻な政治的立場と観点の誤りがある。一部の文章は政治的誤りに踏み込んでいる。たとえば、『ニマツレン』、『タンツォンと彼の息子』などの随筆である。前者は著名な宗教家ニマツレンが国際会議の席でダライラマの支持者と会ったときの困惑を描き、ダライラマの祖国の分裂とチベットの独立を煽るという本質に対する作者の認識があいまいである。後者はチベット反乱鎮圧に対する誤解を吐露している」(2004年2月23日、中国発行英才網の『図書出版ニュース』第22号参照)。上述の『チベットノート』に対する叱責は、全面的に帝国意識によってチベット民族の自己認識を否定するものである。「宗教の崇拝と宣揚」を「深刻な政治的立場と観点の誤り」と規定することは、いかなる社会においても不可思議である。唯色自身はチベット仏教の信者であるから、その宗教指導者のダライラマとカルマパを賛美するのは本来理にかなったことである。植民者だけが民族抑圧のためにそのような罪状を持ち出しえる。また、「数十年の間に勝ち取った巨大な成果」を称賛せず、「道徳的流言の旧チベットに対する懐旧の情に浸」ることが、「間違った価値判断をし、正しい政治原則にそむ」くことであり、作家としての「社会的責任」と「政治的責任」の喪失だという主張は、帝国主義的な横暴と屁理屈そのものである。『チベットノート』が中国の検閲制度の下で出版できたというのはある意味で奇跡である。広東が中国で一番の商業化した環境であり、比較的ゆるく自由な土地であったからかもしれない。新聞出版総署に名指しされた「ニマツレン」という随筆は、被圧迫民族の重苦しさと無力感を深く表現している。あるウイグル人の読者が不正確な漢語で唯色に送った電子メールの中にこの文章が呼び起こした共感を知ることができる。

 私は今あなたの本を読んでいます。ニマツレンがノルウエーにいたとき少女が彼に話し終わった後、私はとてもつらくなりました。自分がひどく泣くのを抑えることができませんでした。何回も読み直しました。彼が少女の質問に答えるときのことを考えたら大声で泣くのをこらえられません。私は一人で長いこと泣いていました。まるで何かが私の心に押し込まれたようで、私の弱い心臓はとても耐えられません。私は大声で叫びたい。でも、私にはその勇気がありません。私はニマツレンよりもずっと惨めです。

『チベットノート』が販売禁止になったとき、唯色は北京魯迅文学院で雑誌編集長高級研修班に参加していた。チベット文連は彼女を『チベット文学』の副編集長にしようとしていたようだ。しかし、問題が起きてからチベット側はすぐに彼女の学習を中止させラサに召還した。専門の「教育支援グループ」を組織し、彼女に対して「思想教育」を行い、彼女に「自己批判(原文:検討)」し「関門を通過する(原文:過関)」よう迫った。括弧の中の言葉は中共の専用語彙である。それは精神を統制する方法と手段であり、イメージ的には「いじめ(原文:整人)」である。その核心は人を強権の前に跪かせ、人格の独立と尊厳を放棄させることである。自己否定が絶え間なく繰り返され記録されて、それが十分に共産党の要求を満足させてはじめて「再び真人間になる(原文:重新做人)」ことが許可される。それ以降は脱線する勇気がなくなるだけでなく、共産党の「思想教育」に感謝しなければならない。このやり方を中共は数十年続けてきて、すでに組織の本能となっており、必要とあれば自動的に発動される。多くの人は「思想教育」の対象になると屈服し、関門通過を請い願う。これはすでに中国で長年行われてきたことなので、人々は慣れきってしまって、恥ずかしいこととは思わない。唯色がそうしたとしても、もう編集長にはなれず、あるいは農村に送られて思想改造を迫られるかもしれないが、すくなくとも毎月の給料は保証される。このことは体制外の空間が狭いチベットでは非常に重視される。チベット語で言えば、給料があれば家に乳牛がいるようなもので、毎日牛乳が飲めるのだ。

 しかし、唯色はそのように「関門を通過する」ことはできなかった。なぜなら彼女はまず自分の信仰を守らなければならなかったからだ。「十四世ダライラマを賛美した」と叱責されたからには、十四世ダライラマを攻撃して始めて「関門を通過する」ことができる。少なくとも民族工作を主管する中共政治局常務委員李瑞環が言った「ダライラマはチベット独立を図る分裂主義政治集団のもとじめであり、国際反中国勢力の忠実な道具であり、チベットに社会混乱をもたらす根源であり、チベット仏教正常化の最大の障害である」という言葉を反復しなければならない。だが、唯色がどうして自分の宗教リーダーに対してこのような言葉を吐けようか? ダライラマがチベットで社会混乱を起こし、チベット仏教の正常化を妨害していると言うのは、白を黒と言いくるめることではないか? 宗教によっても良心によっても、彼女はそのようなことはいえなかった。仏教において、上師を攻撃するのは最大の罪である。また、いったい誰がダライラマを追い出し、数十万人のチベット人を殺し、チベットのすべての寺を破壊したのか? 彼らこそチベットに社会混乱をもたらし、チベット仏教の正常化を妨害する張本人ではないか。チベットの前中国共産党書記の陳奎元が「寺院整頓」をしていたとき、すべてのチベット僧侶に李瑞環のダライラマに対する批判を直筆で書くように強制し、書かなかった僧を寺院から追放した。しかし、チベット語の「である」と「ではない」はほんの少しの違いで、一部の僧は目立たないように「である」の上に点をつけて「ではない」にし、「関門を通過」しようとした。しかし、唯色はそうはできなかった。彼女は漢語で著述する作家であり、漢語は点一つで「ではない」に変えられず、字が一つ多くなり、ごまかして「関門を通過」することはできない。当局は毎日の波状攻撃により、彼女と彼女の家族に「思想工作」(実質は人に対する精神的虐待)を加えた。巨大な精神的圧力と朝から晩までの威嚇に耐えられなくなったころ、彼女に彼女が反対していた青海チベット鉄道工事現場で「教育を受ける」よう命令が出た。彼女はこの体制に対抗したりうまくあしらったりする力が自分にないことを知っていたので、出奔を選択しチベットを離れた。去る前に彼女はチベット文連の最高意思決定機関である中共党グループに一通の手紙を残した。手紙は、「私は永遠に仏教を信仰するチベット作家である」と題されていた。

王力雄:チベットの直面する二つの帝国主義――唯色事件透視(2)

原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/20fcb8d99fa707d8f346d5c06a19b11b

(唯色の手紙)
文連党グループ宛:
 『チベットノート』に対する叱責は、おもに宗教とチベットの現実に対する見方に集中しています。私が「関門を通過」するということは、私の信仰が誤りであると認め、私自身の目でチベットの現実を見るべきでないと認め、将来の著述において宗教を放棄し、チベットの現実の描写は当局の口真似をしなければならないということです。私は、この「関門」は通過できないし、通過したくもないというしかありません。私にとって、この「関門を通過する」ことは作家としての天職と良心に背くことです。今私がラサにとどまって受け入れようもない「教育」を受け続けることは、何の結果も生まないし、皆さんに余分な負担をかけるし、文連も(唯色の思想改造の)任務を果たすことができません。したがって、最良の選択は私がしばらくラサを離れて、外地で当局の最終処分を待つことだと思います。私は私の選択によって生じる一切の結果に責任を負う覚悟です。唯色 2003年9月14日

 現在までのところ、唯色はすでに以下の処罰を受けた。1、「自発的退職」の名義で仕事を奪われ、収入を失った。2、住宅を没収され、母の元に身を寄せている。3、医療保険と養老保険を中断され、すべての社会保障を失った。4、パスポート申請が不許可になった監獄に収監されなかった以外は、奪いうるものはすべて奪われたと言えよう。自由な社会で生活している人は、また今日の中国内地で生活している人でさえ、彼女が受けた処罰がチベット人にとって何を意味しているか、明確には理解できないだろう。中国の内地社会はすでに多くの階層に分化し、当局の統制の外にもかなり広い生存空間が生まれており、多くの人が体制に依存しなくても生存し発展していける。チベット社会は近代化が完全に北京政府の財政によってまかなわれているため、階層分化のしようがない。よって、僧侶以外の文化人と知識人はほとんどすべて体制の中にいる。言い換えれば、体制の中に身をおいてはじめて文化人となれるのであり、体制の中にいなければ生存でさえも保証されない。

 過去のソ連、東欧、そして今日の中国大陸には異論派の公的知識人が存在するのに、チベットでは、チベット民族が苦難に耐え、国際的な支援も精神的指導者もいるにもかかわらず、民間の下層民衆や僧侶による世に知られることもない反抗のほかには、地元の異論派公的知識人が現れてこないことを、私は以前不思議に思った。その一つの重要な原因は、チベットの知識人には体制を離れて生存できる空間がないので、体制は知識人に対して生殺与奪の権力を持っているということである。すべての文化人を養っている体制は、すなわちすべての文化人を管理している体制である。体制から離脱することができないので反抗もできない。現在のチベットの文化抑圧はおもに体制の統制によって行われている。当局の唯色に対する処罰は一種の見せしめであった。

文化帝国主義の唯我独尊

 現代の帝国主義は軍事と政治だけではなく、また一握りの帝国権力者の行為だけでもない。文化的でもあり、帝国の民衆も参加して、政治帝国主義から文化帝国主義に拡張される。政治の帝国が政変で崩壊する可能性があり、あるいは制度の変革で終わるとしても、文化帝国主義にはこのような「激変」はない。なぜなら文化帝国主義はすべての統治民族構成員の内心に存在し、集団的潜在意識となり、容易には変えられなくなっているからだ。文化帝国主義はまず唯我独尊の傲慢さとして表れる。その傲慢は集団および個人、自覚的および非自覚的な形態においてさまざまな場所に浸透する。コンガ空港からラサに行く途中にあるチューシー(Quxu)県の町には、典型的な文化帝国主義の特徴を持つ「チベット援助プロジェクト」である「泰州広場」がある。広場の敷地面積は巨大で、無数の良い畑を飲み込んだ。それは財力をひけらかすこと以外にどんな必要性があるのか理解に苦しむものである。広場全体が漢民族風で、亭や楼閣、石橋、流水を配置しているが周囲の環境とまったくそぐわない。広場の中央には金属フレームの上に大きなステンレスの球をのせたオブジェがあり、主流イデオロギーの科学と進歩を象徴させている。飾り壁には中共指導者の画像と中共イデオロギーのスローガンが書かれている。広場の建設費は相当高かっただろうが、地元住民とはまったく関係なく、大体地元住民のために作ったものですらない。私はその広場を一度歩き回った。地面の白いセメントレンガが反射する日光で目が痛くなり、足元はなべ底のように熱かった。芝生は鉄柵で囲われ、立入禁止の立て札があった。人造河川は深いコンクリート製の通水溝で、人と水とは隔絶されている。巨大な広場には2つだけ石のベンチが遥か離れて対称をなしている。単なる形式で、人が休むためのものではなく、さえぎるものなく直射日光にさらされていた。私が行ったのは日曜日で、休みの人は多いはずなのに広場には人影はなかった。周囲の広い大通りもゴーストタウンのようにがらんとしていた。この広場は、帝国の高所に立って人を見くだす文化的傲慢と財力の誇示を体現しており、地元民族と文化はまったく眼中にない。地元の文化と関係も発生しなければ、考慮したり遠慮したりすることもない。単に地元住民の羨望と劣等感を煽るためだけの、文化帝国主義の模範であり方向指示器である。それが象徴するのは赤裸々な文化的暴力と占領である。

 チベットを統治する中国官僚には、文化的な傲慢さが随所に現れている。最もよく聞くのは彼らが地元民を怠惰、保守的、無学、能力がない、科学を知らない、商品意識と市場意識に欠けるなどと非難し、自分がいかにうまく地元民の意識や態度を改めさせ、勤勉を奨励し怠惰を罰したかなどを誇ることである。あるチベット自治区政府で農業担当をしている「チベット援助」幹部は、かつて自分で撮った写真を私に見せて、チベット農民の「怠惰」を証拠立てようとした。畑にたくさんのこぶし大の石ころがあるのに片付けないのは怠けているからだろう? しかし、夏のチベットの農耕地帯は激しい雨が降り、表土を押し流してしまう。また普段は日差しが強烈で、畑の水分が急速に蒸発する。石を畑に残しておけば、土押さえになり土壌流失を防げるし、激しい日差しでも石の下に水分を保存できる。したがってこれはチベットの伝統的土壌保全方法なのだ。しかし漢人官僚の頭の中には、チベット人が自分より賢いかもしれないなどという意識は微塵もない。現職のチベット自治区中共政法委員会書記で公安庁長の楊松はかつて次のように言った。「ダライラマは数十年チベットの様子を見ていないのに、何の資格があってチベットを語るのか? 私はチベットのすべての県を回ったから、私のほうが彼より発言権がある」。この発言が誠実かどうかはひとまずおいておこう。ダライラマが数十年チベットを見ることができないのは帝国主義の結果であるから、この発言はまず常識が欠けている。チベットをくまなく回って得られるのは情報であるが、データがすなわち「理解」であるとはいえない。真実の理解は文化による。しかし帝国官僚は地元民族の文化に対して偏見に満ちており、越えがたい溝がある。楊松の言説は彼の文化に対する無関心をはっきりと表現している。このように浅薄では最も簡単な現象についても解答できないだろう。多くの植民者は一生を植民地で過ごしたとしても植民地人民を理解できない。マンデラが監獄に27年間閉じ込められていたからといって、彼に南アフリカを指導する資格がないといえるだろうか? このような傲慢さは官僚の中にあるだけでなく、チベットに住む各種の漢人はみんな自分たちはチベット人より優れていると思っている。リンタク引きや果物売り、建設請負グループの単純労働者でさえ、チベット人について話すときは軽蔑した口調になり、彼らを愚昧で後進的であるとみなす。チベットに取材旅行に来たある女性作家は、ほとんど本業に手がつけられず、全精力を地元の経済発展の指導に注いでいると語った。彼女が老婆心からどうやって市場経済を発展させるか忠告しても地元官僚が関心を持たないことを、彼女は彼らの保守性と怠惰さに帰結させていた。しかし私から見ると、詩や散文を書く文人がチベットに行ったらなんでもできるように思うというこの思い上がりは、帝国主義的な文化的優越感と唯我独尊由来という以外に他に解釈のしようがない。私は彼女が善意であると信じるが、このような善意は私にとって慙愧に耐えない。

 1980年代に志願してチベットに入った大学卒業生に何人も友人がいるが、彼らは以前の「一生を共産党の手配に任せて」チベットに送り込まれた人々とは違い、また後の利益を求めてチベットに入った人々とも違う。後にも先にも例のない世代として、彼らは現代チベットの歴史に消えることのない業績を残した。しかし、文化帝国主義の視点から分析すると、彼らもまた同様に帝国の構成員であり文化侵略の共謀者であった。彼らは以前のような政権装置のネジではなく個人主義者ではあるが、自らをフライデーの主人であり啓蒙者であるロビンソンとみなし、チベットを彼らの文化的優越性を証明する道具や背景としか見なかった。彼らはチベットにいても終始チベット人とは隔絶し、同類の漢人の小グループの枠から出なかった。彼らの多くがチベットの農村の牧場や神聖な山や湖を歩き回ったが、やはり外来の新し物好きや、フィルムや文字でチベットを占有しようとする宝探しに過ぎなかった。「乾杯、チベット」と題された油絵があるが、それは23人の人物でこの小グループを表現している。そのうち3人がチベット語を話せず漢語によって著述する漢チベット混血作家であるほかは、残りすべてが内地からの入植者である。この絵は宗教的受難画風のスタイルによって彼らの「チベット入植」の崇高さと犠牲を誇張している。しかし絵の作者於小冬の例を見ても彼らがどのように現地の宗教と文化を扱ったかがわかる。「於小冬は教室を改造した宿舎に住んでいた。部屋はすごく大きくて、大きなタルチョ(チベット仏教の祈りの旗)でいくつかの小部屋に仕切っていた……。小冬はあの白と黒交互の大きなタルチョは神聖な河辺や山頂にだけ立てられると言った。かれは大変な手間と時間をかけて、チベット暦正月にチベット人がタルチョを立て替えるときに「ついでに」このタルチョを持って帰った」(張子陽『チベット人文地理』創刊号、86ページ)。年越しのときに神聖な山河に神の加護を祈るタルチョはチベット人の極めて大きな敬虔さと期待がこめられているのに、盗んできて装飾や部屋のしきりに使うとは、いかなる文化的理解や尊敬によるのだろうか? まったく相通じない、まったく尊敬のない気持ちでなければこんなことはできない。これは於小冬一人の行動ではなく、彼らの小グループの日常的な習慣である。もしも彼らのチベットコレクションを見る機会があれば、ほとんどみんなが山ほどの盗品を持っているだろう。私は自分自身を文化帝国主義の影響の外にあると言おうとは思わない。時として、それは個人の願望にかかわらない。イギリスに住んでいるチベット人学者ツレンシャガ(次仁夏加の音訳)の私の文章に対する批判に次のような一説がある。「中国の知識人に客観的に、事理にかなったようにチベット問題を考えるよう求めることは、一匹のアリにゾウを持ち上げさせるのと同じで、彼らの能力と視野の及ぶところではない。それが中共官僚であれ、自由主義を信奉する民主活動家であれ、あるいは異論派の作家であれ、情況はみな同じである。彼らの意識は彼らの民族的偏見の影響を受けないわけにはいかない。彼らの想像もすべての植民者が有する独りよがりという束縛を脱することはできない」(『血染めの雪国――王力雄に対する回答』、林猛訳)。私はこのあたかも過剰に憤慨しているかのような言説を理解できる。中国で最も民族問題を重視している民主派の人々であっても、やはり文化帝国主義の意識はある。その典型は「大一統」の考え方(王者による天下統一を重視する観念)である。民主主義理念を推し進めるときでさえ、彼らは自覚的あるいは無自覚に唯我独尊で、上から見くだす態度を取り、自らが少数民族の申し立てを裁くことができると自認し、民主主義の追求だけを許し、独立の追求を許さないというベースラインを引く。被圧迫民族の立場に立って考え理解しようとは思わない。

 漢人民主派はその多くが中国に民族抑圧が存在することを認めず、専制政府の抑圧に帰納する。漢民族の人民も同様に圧迫されているという理由で、少数民族に対して漢民族と一緒に中国の民主化のために闘うよう要求し、自民族だけの目標を追及すべきでないと主張する。しかし、事実は違う。一方で、専制政府の抑圧は民族ごとに大きな違いがある。たとえば漢民族の学者が『中央宣伝部を討伐せよ』という檄文を書いたり、漢民族の記者が共産主義青年団中央を批判する公開書簡を発表(「氷点」事件のこと)したりしても、彼らの体制内の地位には影響しない(職場を首にはならなかったということ)。しかし、唯色が本の中で一言ダライラマに対する敬慕の念を書き、ニマツレンの困惑を書いただけで、すべてを奪われる。これで同じ抑圧といえるだろうか? 漢民族地区の少数民族の人々には共通の感慨がある。漢人が恐れずに発表する言説がもし少数民族から発せられたら、とっくに監獄に送られているだろうということだ。もう一方で、漢族の民主活動家には、口には出さない共通認識がある。将来の民主中国では独立を望む少数民族に対して戦争を発動することも辞さず、国家の統一を守るということだ。これはすなわち専制政権による全民族に対する共通の抑圧ではなく、漢民族による少数民族に対する抑圧である。専制政権の抑圧の下にある漢民族の一般庶民もまたしばしば民族問題については自覚的に帝国に追随する。とりわけ民族混住地区の漢民族庶民、たとえば新疆建設兵団が内地から募集した出稼ぎ労働者は、帝国の指揮下に地元民族に対する鎮圧に参加するだけでなく、少なからぬものが非常に積極的に行動する。一見公平に見えるつぎのような見方がある。共通の人間性を強調すべきであり、異なる民族性を強調すべきではない。人為的に民族衝突を煽り立てないように、客観的な基準、法律及び民主的手続きに基づき平等に扱うべきであり、民族の違いによって違った扱いをすべきではない。しかし、いかなる基準、法律、民主的手続きも純粋に客観的なものはなく、文化と密接に結びついている。文化帝国主義は政治の民主化と同時に消滅するものではなく、多数民族の多数派の中に長期間存在し続ける。そのような状況の下で民族の区別をつけないということは、結果として多数民族に主導されるということであり、少数民族にとって実質的に不平等となる。とりわけ多数民族と少数民族の人口差が大きい状況の下では、代議制民主主義は少数民族の権利をいっそうなおざりにすることになる。その場合少数民族が民族主義を堅持しなければ、少数民族の文化は多数民族の文化によって窒息させられてしまい、同時にまた民主主義の旗と近代化言説の前に反抗の権利をも失ってしまうだろう。

王力雄:チベットの直面する二つの帝国主義――唯色事件透視(3)

原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2a7949a0595c162a8c0bb53b8aa3e721

サイードの鋭い分析にあるように、現在の世界の民主社会には依然として広く文化帝国主義現象が存在する。そのような帝国主義は政治的圧制も暴力的手段も必要とせず、自由民主制度が形成する「主流」に依拠するだけで、異文化を周縁に追いやり、それを枯れさせついには消滅させることができる。多くの人がグローバル化に反対するのは、このような「主流」に反対するからである。こうした状況の下では、少数民族の文化的抵抗は民族主義の支えを必要とする。政治的な民族主義に転化しなければ、民族主義は文化的抵抗においては積極的な役割を果たしうる。とりわけ暴力と衝突に訴える民族主義に転化させてはならない。公平な社会はこのような文化的民族主義に適切な位置を与えるべきである。

文化帝国主義の解消は民族表現によって決まる

 民族文化の最良の保護方法はもちろん独立民族国家を建設することである。しかし独立の難度と対価は高すぎる。とりわけ、民族間の実力格差が大きいときはほとんど不可能となる。しかし、独立を民族文化保護の手段とみなし、民族文化の保護だけを目的とするのであれば、独立するか否かは重要ではない。一つの国家の中で少数民族文化の保護を実現することは、政治制度の面で相応のメカニズムが必要であるのみならず、多数民族の帝国主義的意識の解消が必要である。なぜなら、国家の政治メカニズムの変更は多数民族の支持の下でのみ可能となるからである。

 単純に多数民族の自発的覚醒によって文化帝国主義を解消することを期待することはできない。それが可能であるとしても、非常に長いプロセスが必要である。少数民族は一方で自らの文化による感化と、意志の表出、忍耐強い説得によって積極的に多数民族の文化帝国主義を解消させなければならない。このことは、少数民族に高い自己表現能力を要求する。

 表現能力にはたくさんの側面がある。私が強調したい側面は、多数民族の言語である。それについて人は疑問を持つだろう。なぜチベット人は漢人の言葉を学ぶ必要があって、漢人はチベット人の言葉を学ばないのか? これは確かに不公平である。多数民族は文化的傲慢さと必要性の低さから、一般に少数民族の言語を学ばない。しかし、少数民族が平等を追求するために多数民族の言語を身につけることを拒絶したとすれば、自己表現能力を失ってしまう。帝国システムの中では、表現空間とメディアはすべて多数民族の言語によって占められているからだ。少数民族の言語を学び、自ら進んで少数民族を理解するよう多数民族に求めることは、確かに尊厳ある要求ではあるが、叶えられる可能性は大きくない。このような要求に固執すれば、少数民族が損をする。しかし考え方を変えて、相手の言語に習熟することを積極的な攻撃ととらえて、相手の発明した飛行機や軍艦を学習し使用するのと同じように考えれば、尊厳問題に煩わされることもない。

 表現とは自分で考えることではなく、他人に聞かせることである。沈黙して自民族の文化を堅持することは一種の受動的抵抗に過ぎない。それは最終的には多数民族文化の拡張を阻止できず、飲み込まれる運命を回避できない。暴力も文化帝国主義に対しては効果がない。たとえ満洲人のように中国を征服しても、やはり中華文化帝国に滅ぼされてしまう。文化帝国主義に反対するには文化自体を使うしかない。自民族文化の展示、感化により相手をひきつけることで初めて相手に文化帝国主義的意識を放棄させ、尊重を生み平等を確保することができる。このような自発的攻撃は自民族文化の最良の保護となり、また自民族文化の発展を促すことになる。この視点からすると、民族の表現がより重要になり、表現能力に対する要求も高くなる。そしてこの種の表現能力はかなりの程度は相手の言語を美学的レベルで使うことができるか否かによって決まる。

 歴史的要因によりチベット人にはこのような人材が多く育っている。なかでも漢語で著述するチベット人作家と詩人は数百人にも上り、チベット人の「漢語作家群」と称されている。その中で最良の人々、たとえば唯色、梅卓、色波、阿来、扎西達娃は、漢語の能力は多くの漢民族作家よりも高い。チベット民族の中ではこの現象に対してさまざまな評価がある。ある人は植民地主義の結果であるという。確かに、これら作家の状況を見てみると、植民地主義の色彩が相当鮮明である。まず、「漢語作家群」の多くが「四省チベット人地区」で育っている。四省チベット人地区は中国政府の意図的なチベット分割統治の結果であり、チベットの中国辺境地域を青海省、甘粛省、四川省と雲南省の4省に分割して併呑したものである。四省チベット人地区の漢民族化の程度は高く、チベット語教育は遅れている。上述の何人かの作家はまったくチベット語ができないか、会話ができるだけである。梅卓のほかはみな純粋のチベット民族ではない。唯色と色波は四分の一が漢民族の血統であり、扎西達娃は漢民族とのハーフ、阿来は回族(漢語を話すイスラム教徒のエスニックグループ)とのハーフである。彼らはみな漢民族風の名前を持っている。梅卓を含めて配偶者もみな漢人である。もう一つの特徴は、阿来が普通の農民の出身であるほかは、残り数人の両親はいずれも中共の幹部だということである。唯色、色波、扎西達娃の父(もしくは母)は共産党が最初にチベットに軍を進めたときに康巴チベット人地区で徴兵した先頭部隊のメンバーである。問題は、単純にこれらの作家を恥とみなすのか、あるいは彼らを民族の財産であり武器であるとみなすのかということである。もしも民族表現が文化帝国主義に対抗しそれを消滅させるのに役立つことを認めるのであれば、この問題の答えは難しくない。実際、チベット民族が持つ表現能力はすでにかなりの成果を上げている。とりわけウイグル民族と比較するとその違いは明らかである。

 わずか2~30年前は、漢人のチベット文化に対する認識は人の皮をはぎ、目玉をえぐる「もっとも暗黒、もっとも野蛮」な社会というものだった。それが現在では、数千数万の漢人がチベットを聖地と憧れ、チベットの文化と宗教に傾倒している。この変化はかなりの程度チベット民族の自己表現が推し進めたものだ。一方で、亡命チベット人の国際社会における数十年に及ぶ絶え間ない努力の結果が、西側の架け橋を通じて開放後の中国に流入したが、もう一方での、チベット本土での漢語を使う文化界、宗教界の人々の功績も忘れてはならない。しかしこの両方向の表現がウイグル民族にはない。ウイグル人の日常生活において漢語の必要性はチベット人より高い。なぜなら新疆は多民族地域で、共通言語の必要性がより高いからである。現実にも漢語のうまいウイグル人を多く見るが、漢語で著述するウイグル人作家や漢語で布教するウイグル人宗教者を見たことがない。この点はチベット人と大きく異なる。この現象を解釈すると、ウイグル民族の文化的な守りの堅さが原因だろう。ウイグル知識人は期せずして一致して、公共の場では漢語を排除する。60~70年代に(共産党によって)改革された新しいウイグル語は今では文字の上で廃棄されただけでなく、当時口語の中に吸収された大量の漢語語彙も徐々に英語語彙に置き換えられた。この置き換えは組織的になされたものではなく、民族主義の社会的雰囲気が自発的に推進したものである。監獄の中においても、ウイグル人の囚人が漢語語彙を使うと他の囚人に嘲笑される。一人の私のウイグル人の友人は子供のころから北京で育った。あるとき両親は彼を新疆に送って、ウイグル語を学ばせようとした。しかし、彼のウイグル語が下手だったため、他のウイグル人の子供に民族性を失ったとみなされ、誰も彼のウイグル語学習を助けてくれなかっただけでなく、しばしば軽蔑され排斥された。その友人は結局ウイグル語がうまくならなかった。そのような社会的雰囲気の中では、当然誰も漢語で著述する作家になろうとはしないだろう。

 新疆はチベットに比べて漢人ははるかに多いが、民族言語の保存、言語同化の回避という点では、ウイグル民族はチベット民族より成功しており、民族の凝集力も高い。しかし、民族表現の角度から見ると、成功しているのはチベット民族である。ウイグル人は第一に、漢人に向けて表現しようとしない。たとえ政治的迫害の心配のない国外においてさえ、亡命ウイグル人は漢人との対話を拒否し、漢人関係の活動には参加しない。第二に、美学的レベルに達する(漢語)表現能力に欠けており、限られた漢語表現もほとんどが政治的要求とスローガンであり、漢民族に対して感化力と説得力を持たないばかりか、かえって反発を引き起こす。

 一つの典型的な現象は、中国内地の一流書店にはチベット民族関連の書籍がたくさんあって、よく売れているのに、ウイグル民族関連の書籍はほとんどなく、顧みる人がいないということである。ウイグル民族の人口はチベット民族より多く、同じように悠久の輝かしい文化を持っているのに、何でこんなに違うのだろうか? 1980年代中国の漢民族地域の出版社はウイグル民族とイスラム文化に対する興味を持ったことがある。しかし、何冊かの漢人の書いた本にイスラム教徒が不満を持つ内容があり、ウイグル民族を含むイスラム教徒の激しい抗議とデモが発生し、ホメイニのラシュディに対する殺害命令の模倣まで現れ、作者と編集者を脅迫したので、それ以降内地の作家とメディアはイスラム教関係の内容を避けるようになった。そしてウイグル人にも自分たちの漢語作家はいない。このようにして囲いができてしまい、いよいよウイグル民族に関する漢語出版物が少なくなり、漢民族のウイグル民族に対する理解も少なくなった。そうして興味と市場を引き寄せられなくなると、漢語メディアはいよいよウイグル民族に関心を向ける動機を失っていった。現在の局面は漢人がまったくウイグル民族の歴史や文化について知らず、新疆問題に対する認識も当局の宣伝の枠内にとどまっている状況である。大多数の漢人はウイグル民族について理解していないし理解しようともしていない。恐怖と敵意だけである。しかし、このような状況はウイグル民族自身にとって実はもっとも不利である。チベット民族は、宗教の包容性(また漢民族の宗教とも通じる)、ダライラマの積極的な漢人との和解路線、それに加えて多くの漢語で著述するチベット文化人がいることで、漢民族との間の文化交流が密接であり、絶え間なくチベット文化を漢民族に紹介し、それが話題となり、流行になったりして、大勢の「チベットファン」を生んでいる。美学的レベルにおける文化表現もまたチベット政治問題を漢人の視野に持ち込み、漢人が徐々にチベットの立場を理解し同情するようになって来た。このような柔によって剛を制する力は他の少数民族にとっても参考となるだろう。かつて、チンギス・ハーンの大軍は無敵を誇ったが、チベットは(モンゴル人の侵攻によっても)滅びなかっただけでなく、逆にそれ以降モンゴル人はチベット仏教に帰依した。それは他でもない文化の力であった。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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