チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年4月27日
僧トゥプテン・ツェリン・83歳の証言
今日の朝方、一人の老いた僧侶に話を伺いました。
83歳になられる僧トゥプテン・ツェリン氏はルンタ・ハウスに長年住まわれています。
物静かで敬謙で、みんなから<ゲンラ(先生、師)>と呼ばれ慕われています
嘗て1987年に、この元政治犯の集まるルンタ・ハウスにおいて、特にゲンラを今も有名にしている事件がありました。
それはゲンラとトゥルク・ユーロ・ダワ・ツェリン・リンポチェと言う有名なゲシェでありガンデン僧院のリンポチェでもある人が、ラサでイタリアの放送局のインタビューに答えチベットの現状を訴えたことから始まります。
顔を出して放送されたのです。
これは二人とも承知のことだったといいます。
もちろん、その後7月に逮捕されます。
この事件が、次に起こった文化大革命以来初めてといわれる、大規模な市民蜂起の引き金の一つになったのです。
1987年9月27日デブン僧院の僧侶たちはもちろん、「チベット独立」「法王が御帰還されますように」と叫んだが、「ユーロ・リンポチェとトゥプテン・ツェリン氏を解放せよ!」とも叫んだのだ。
このデブンの僧侶たちのあとに従いラサ市民数千人がパルコルを一杯にして中国の圧政に対する抗議行進を行ったのだ。
それから一連の大デモが数年間続くのです。
ユーロ・リンポチェは他のことでも有名です。
皆さんもご存じの<チメ・グディ(不死九目紐)>別名<ランツェン・タクパ(自由ミサンガ)>と呼ばれる白黒に編まれたミサンガをダプチ刑務所で考案し、初めに作ったのはリンポチェだと言われているのです。
それほど、そのころ有名だったリンポチェなのです。2002年に亡くなられました。
最近RFAではリンポチェの書かれた自伝が連続的に紹介されています。
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ゲンラはチベット人としては高齢で病気がちですが、最近は比較的お元気で毎日コルラ(リンコル)しているそうです。
トゥプテン氏は拘留、労働改造所を含め21年間、獄に繋がれていたのです。
以下僧トゥプテン・ツェリン氏の証言です。
詳しいことはすでに「9-10-3の会」からチベット語の自伝が出版されているということで、短めに話して頂きました。
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私は1926年、ラサの北ダムシュンの遊牧民の家に生まれました。
7歳になったとき、ラサのセラ僧院に送られました。
59年に中国が来るまでずっとセラ僧院で勉強や仕事を続けていました。
中国が来た時には私はセラの一つの学堂(セラ・ツェ)の会計係り(チャンズー)をやっていました。
中国軍が攻めてきたので仕方なく我々は抵抗したのです。
もちろん、我々は僧侶であり、一般的には相手に害心を抱いてもいけないことは知っているが、あっちが仏教を破壊するために来たのだ、殺しに来たのだ、守ろうとしただけだった。
しかし、全く手に負えなかった。
法王がインドに逃れられた後、銃弾と砲弾が雨のようにセラ僧院に降ってきた。
逃げるしかなかった。
ラサの東、ペンボ・ルンドゥップまで来て中国軍に逮捕された。
高名なリンポチェも数人その時一緒に逮捕された。
毎日<教育>と言う名の精神的拷問と肉体的拷問が続いた。
2か月後に解放され、村に帰された。
ダムシュンに少しいたが、僧院のことが気になり間もなくしてラサに向かった。
セラ僧院は閉鎖され、私の僧房は無残に破壊されていた。
そのまま、ラサにいたが、自分は嘗てセラ僧院の会計係りであっと、ということで中国から目を付けられていた。
それでなくても、60年から数年の間は、どこにも食べるものが無く、多くのチベット人が餓えて死んでいった。
私もどうやって生きていたのか不思議なほどだが、みんなが助けてくれて生き延びたのだ。
67年、インドに逃れようとした。
しかし、ギャンツェの近くのタンというところで捕まってしまった。
グツァ刑務所に送られ尋問と拷問を受けた。
自分はセラ僧院の会計係りであっと、ということで7年の刑を言い渡された。
刑期が確定した後ウディドゥ刑務所に送られた。
ウディドゥ刑務所の第一監房という政治犯専用の監房だった。
ちょうど、文化大革命が始まったころだった。
毎日、朝は毛沢東語録を暗証させられる。間違えば殴られる。
その後、労働だ。冬と夏には石切場で働かされ、春と秋にはレンガ工場で働かされた。
常に厳しいノルマが課され達成されないときは、リンチされた。
夜は、今度は中国の新聞の勉強をさせられる。
いつも、アメリカ、日本、ロシア、インドの悪口ばかりだ。敵だ、粉砕せよ、ということばかりだった。
食事は全く足りなくて、みんな常に腹を空かせていた、春になり外に草が生えるようになると、みんな競って何でもいいから口に入れていた。
度々タムジン(文革中の集団批判集会)が刑務所内でも行われた。
ここの時はほぼ全員、死ぬほど殴られた。
グループごとに分かれ、仲間を一人一人吊るしあげるのだ。
何でもいいのだ、やらなければ自分がやられる。
逆らえば、死刑も有り得る。
実際私がその監舎にいた間に同じ監舎100人の囚人の内8人がタムジンの結果死刑にされたのだ。
理由というのも、仕事をさぼった、共産党を十分賞賛しない、ダライ・ラマ法王を非難しない、とかいうものだった。
私はほとんど観念していた。
生きて監獄から出れるとは思っていなかった。
ダライ・ラマ法王のお陰でここまで生き延びてきたが、これも私の前世からの因果の結果だ。
ただ、今は耐え。
死んでのち観音の浄土に生まれ変わりますようにと祈るばかりの日々だった。
7年後1972年に刑期は終わった。
しかし、その後もさらに7年間、シャモ(黒帽・反革命主義者の印)とされ、同じウディドゥ刑務所の下にある労働改造キャンプで同じように、石とレンガの仕事をさせられた。
79年に解放された。
毛沢東が死にそのころから、少しだけだがチベットには束の間の自由が戻ってきた。
農地と牧草地がもとの持ち主に返された。
僧院も再開され始めた。
しかし、表向きはそうだったが、実際にはチベット人にはほとんど何も権利が与えられていなかった。
そんな中1987年友人であった、ユーロ・ダワ・ツェリン・リンポチェとともにイタリアのテレビに出ることになったのだ。
それは、イタリアに逃げていた仲間のゲシェがイタリアから撮影班をラサまで連れて来ており、彼にインタビューに出るよう頼まれたからだった。
リンポチェと共に、チベットの現状、監獄の現状について話をした。
もちろん、逮捕されることは判っていた。
それでも顔を出したのだった。
数か月後の7月、逮捕された。
我々の解放をデブンの僧侶たちがデモで訴えたという事は、後にダプチ刑務所に送られ、仲間から聞いて初めて知った。
最初、シトゥ刑務所に留置され尋問、拷問をうけた。
12月にユーロ・リンポチェには刑期10年、私には6年の刑が言い渡された。
ダプチ刑務所に送られ、そこで6年を過ごした。
ダプチ刑務所がどんなところかという話は、他にこのルンタ・ハウスには沢山の経験者がいるから彼らから聞いて知っているだろうから、詳しくはもう話さない。
ひどいとこだった。
93年に出所した。
僧院に帰りたかったが、それは許されなかった。
ラサにいたがまた、見張られる毎日だった。
生活にも窮し、97年インドに亡命することを決心した。
ダム経由で国境を越えた。私はその時すでに71歳だった。
険しい山道では度々地元のシェルパに背負ってもらった。
6日間歩いてその後バスでカトマンドゥまで今度は無事に逃げることができた。
ダラムサラに来て法王にお会いでき、もういつ死んでもいいと思っている。
今は静かにチベットに自由が戻ってくる日を願い、祈るばかりだ。
中国はチベットを解放した、進歩させたと言うことばかり言っている。
だが、我々は何かから解放してくれなどの頼んだこともないし、必要もなかった。
昔はもちろん、僧院に入るのも自由、商売をするのも自由だった。
どこに行くにもパスなど必要なかった。
誰であろうと、インドに巡礼にいくことも、ネパールに行くことも、中国に行くことも自由だった。
遊牧民はもちろんどこへでも行けた。
地震があっても家が壊れることもなかったしだ!
今はどうだ、遊牧民は牧草地を取り上げられ、道端で酒を飲んで暮らしている。
中国は、チベットは嘗て乞食ばかりだったという。
確かに乞食のような者もいた。
仕事が無く、食を乞う者はいた。
みんなそんな人にはツァンパを与えた。
しかし、乞食を特別下に見たり、汚れた者だなどとは思わなかった。
誰だって、そういう境遇に会うことはあるからだ。
しかし、今はどうだ、私がラサにいたころ毎年特に旧暦4月にはラサは乞食で溢れるほどだった。
パルコルには途切れることなく乞食が列を作って布施を待っていた。
本当にみじめで汚い乞食ばかりだった。中には中国人もいた。
中国が発展を自慢するなら、なぜこんなにも乞食が多いのか?
毎年こんなにも沢山のチベット人が今もヒマラヤを越えてインドに逃げてくるのはどうしてなのか?
満足で豊かな生活がチベットにあるならどうして、わざわざ危険な道を辿ってチベット人は逃げてくるのか?
中国ほどうそつきな国はないと思う。
監獄の話をしよう。
中国はかつてチベットの監獄ではひどい拷問が行われていたという。
だが、私は自分で見て知っているのだが、中国が来る前にはラサには二つの監獄しかなかった。セラ僧院の近くのナンツェ・シャとポタラの下のシュー・レグンだ。
しかし、この二か所を合わせても囚人は15~20人ぐらいしかいなかった。
全員殺人犯とか窃盗犯だった。
監獄の監視は厳しくなく、囚人も結構自由に出入りしていた。
拷問道具を中国が見せるが、あれは中国から持って来られたものでチベットではただの見せものだったものだ。
私は毎日RFAのニュースを聞いている。
本当に悲しいニュースばかりだ。
チベットの若い者たちは本当に勇気があると思う。
この世は無常だ、私も老いた、今はもう法王を信じて時が来るのを待つしかない。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)