チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年4月24日

プンツォク・ワンチュクの証言/中国の「国家人権行動計画」

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ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵まず、最初に一つの証言を報告します。

証言の主、プンツォク・ワンチュク氏は現在9-10-3Movement of Tibetの執行委員の一人で、ルンタハウスに住んでいます。

彼へのインタビューは2002年に行われ、ルンタの高橋さんが纏めて下さったものです。
1999年から2003年まで続いた、ルンタの会報・季刊「ルンタ通信」の2002年第7号に抜粋が載せられたことがあります。

少々長いですが、どうかお読みください。
すべて真実と信じます。
例えば1998年5月1日のダプチ刑務所内での受刑者たちの抗議については他にいくつもの同様の証言を何度も聞いているからです。

すべて真実です。
今も監獄の中の状況はまったく変わっていません。
今も拷問は日常的に行われています。

次に最近中国が発表した「国家人権行動計画」を資料として載せます。

中国の「発表」とか「目標」とかが如何に空疎で、ただ人を騙す目的で作られだ露骨なブラック・ジョークであることが解ることでしょう。

中国はもちろん「真実」も「正義」も十分に知っています。
知らないでその逆の「嘘」は付けないから。
嘘を隠す子供はいつも怯え、自信がないので、ちょっとした真実の指摘に対しても、感情的になり大袈裟に反応してしまう。
一回ついた嘘を守るためにはその先どもまでも、嘘をつき続けなければならなくなる。
罪は隠され続ける。

早く誰か、その子を楽にしてやってほしい。
でないと、これからも何億もの人々が苦しめられることになるから。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵2<プンツォク・ワンチュクの証言>

私は、1973年にチベットの首都ラサの南に位置するロカ地方の村で生まれました。両親は農業を営んでいます。家は決して裕福な方ではありませんでしたが、14年間も学校に通わせてもらいました。村のほとんどの子供たちが2年か3年しか学校に通えない状況の中、両親は教育の大切さを身に染みて知っていたのでしょう。私は村では珍しく、21才まで教育を受けることができました。大変ありがたく思っています。学費を工面してくれた両親のことを思うと今でも胸が痛みます。もう何年も会っていませんが、元気にしているでしょうか。

14年間も受けた教育ですが、チベットに何が起きたのか、という真実の歴史を教えてもらうことはありませんでした。ダライ・ラマ法王のことや仏教のすばらしさ、そして中国政府がチベットにどんな残虐なことをしたのか、そういったことには全く触れられないまま、私は随分と長い間学校生活を送りました。チベットに何が起きたのか、真実に初めて触れたのは、17才のときでした。ある教師が、自分の部屋に何人かの生徒を集め、チベットにこれまで何が起きたのかを自分の体験を通して語ってくれたのでした。当局に見つかると逮捕されるような行為でした。信頼のおける生徒だけが選ばれ、教師は中国の残虐行為について詳細に語ってくれました。その日を境に、私は変わっていきました。チベットの自由を再び手にするために、自分ができることを何かしなければという思いは年を重ねるごとに強くなっていきました。

1994年のことでした。仲間や教師たちと一緒に独立要求のポスターを500枚ほど刷り、村中に貼りました。数日後の6月25日、明け方3時頃、7人の警官が突如学生寮に押し入り、私を含めた4人の生徒と二人の教師を逮捕しました。あっという間の出来事でした。私たちは村の公安警察署に連行され、厳しい尋問と拷問を受けました。3人の生徒たちが2週間で釈放され、続いて2人の教師たちも2ヶ月で釈放されましたが、私は今回の「国家反逆罪」の首謀者として、村の留置所に6ヶ月拘留されたあと、5年の懲役刑を受けました。刑が確定すると、1994年12月1日にラサのダプチ刑務所へと移送されました。そこでは、政治囚が収監されている第5棟に入れられました。ダプチ刑務所には当時全体で1600人の囚人が服役していましたが、そのうち290人が政治囚でした。また、女性の囚人たちは第3棟に収監されていました。

◆ ダプチでの生活

ダプチ刑務所では、ビニールハウスでの野菜栽培の仕事が割り当てられました。それぞれ厳しいノルマが課せられ、達成できない場合は、拷問を受けたり、独房に入れられたり、また囚人たちが何よりも楽しみにしていた月に一度の家族との面会を禁止させられたりしました。ビニールハウスでの作業のほかにも、刑務所内の改装や建設工事の作業をしなければなりませんでしたが、そのなかでも政治囚の私たちは、一般の刑事囚よりも重労働があてがわれました。作業中は常に看守の厳しい監視の下におかれ、割り当てられたすべての仕事を終えるまで、食事を摂ることさえも許されませんでした。一日の終わりには、重たい石などを一時間以上休みなく運んだりするような重労働のため、背中の皮がすりむけ、赤く腫上がっていた囚人もいました。

1995年3月になると、こうした労働はなくなり、代わりに一日中軍事訓練が行われるようになりました。それは今までの看守に代わって、人民軍事警官の監視の下で行われました。訓練の内容はジョギングや行進が主でしたが、暑い日の照りつける中、一日中意味もなく立たされたり、50回以上ものスクワットを立て続けにやらされたりすることもありました。訓練の途中で休んだり倒れたりすると、人民軍事警官から棒やベルトで殴られるのです。時には罰として一日中食事を与えられないこともありました。極度の緊張状態が続くため、労働よりも何倍も辛いものでした。

1988年ラサ、デモ C/R 9-10-3◆ 友人たちの死 

1996年2月28日、すべての囚人と看守たちが集まる毎年恒例の集会がありました。この集会では、看守たちが一年を通してそれぞれの囚人がどのように働いてきたか、そして態度はどのように変わったかを報告することになっています。看守たちはここぞとばかりに政治囚たちを激しく非難し、責め立てるのが常でした。この日のミーティングでは、私を含め、プチュン、ティンレー・ガワン、サンゲ・テンペルの四人が日頃の態度が悪いとして槍玉に挙げられました。プチュンとティンレー・ガワンの二人はミーティングの最中に激しく殴られ、そのまま独房に入れられました。私とサンゲ・テンペルはミーティングの終わった午後三時に改めて呼ばれ、別々の尋問室に入るように言われました。尋問室では、看守からひどい剣幕で怒鳴りつけられました。
「お前の態度は何だ。このダプチ刑務所に入所してから、自分の態度がどのように変わったのかをここに書け」
もちろん書くことなどありません。「何も変わっていません」とだけ書きました。
「変わっていないというのか。だったら、なぜ変わっていないのか、その理由を言え」
看守はさらに声を荒げましたが、私は静かに返事をしました。
「私は何ら咎められるようなことはしていません。それなのに、自分はこうしていわれもない罪を償わなければなりません。中国政府が私や他のチベット人たちに対して人権侵害という罪を犯し続けているのではないですか。態度を改めるべきは私ではありません。中国政府の方だと思います」
すると直ちに看守が私の足を蹴りつけて、床に倒すと首の後ろを『ダユック』で激しく殴りつけました。ダユックはホースの中に砂を詰めたもので、拷問道具として刑務所で使われているものです。殴られて私は気を失いかけましたが、その間も看守は殴る手を止めませんでした。朦朧とする意識の中で、まわりの看守たちがサンゲ・テンペルのことについて話し合っているのを耳にしました。それは彼をどのように拷問するのが一番よいだろうか、というぞっとする内容でした。散々殴られた後、私は独房に入れられました。独房の中でもサンゲ・テンペルのことが心配でなりませんでした。

暗闇の中で10日を過ごした後に再び尋問室に呼ばれ、長時間、尋問と拷問を受けました。翌日、再度尋問室に連れ戻され、拷問を受けた後で刑務所長への手紙を書かされました。
「私はまともな教育を受けたことが無い者です。チベットが長い間独立国であったと信じています。どうか、チベットが中国の一部であったという真の姿を教えてくれる先生を派遣してくれないでしょうか。お願いします――囚人プンツォク・ワンチュクより」
屈辱的なことでしたが、私にはもう逆らう気力も残っていませんでした。独房の中で一人、わずかな食事に耐え、寒さに身を震わせながら、私はチベットの仏教修行者ミラレパのことを思い起こしていました。ミラレパは着の身着のままで、イラクサを食べ、人里離れた山中で何年も瞑想をした仏教行者です。彼が耐えた修行を思い、私はミラレパに対する強い信仰心を起こしました。

一ヵ月後にようやく独房から出ることができ、監房に戻ると仲間たちが暖かく迎えてくれました。けれども、変わり果てたサンゲ・テンペルの様子をみた途端、涙が溢れて止まりませんでした。温和な僧侶だった面影はどこにもなく、顔が紫に変色して腫上がり、誰だかわからないほどです。仲間からサンゲ・テンペルに何が起きたかを聞かされ、私は心が砕かれるような思いがしました。彼は何を聞かれても沈黙を通し、看守らに一切協力をしなかったらしいのです。するとダユックで顔を散々打ちつけられ、タバコの火を顔に押し当てられました。続けて看守が二人がかりでサンゲ・テンペルを押さえつけ、体のあちこちを殴り続けました。サンゲ・テンペルが耐え切れず床に倒れると、今度は足で背中を踏みつけ地面に体を押しつけて、ダユックで滅多打ちにしたのでした。監房に戻されたときには、サンゲ・テンペルは返事もできないような状態でした。同室のロプサン・ゲレックが看守にサンゲ・テンペルを病院に連れて行ってくれるよう懇願したのですが、逆に看守からダユックで激しく殴りつけられたとも聞きました。

二ヶ月経っても、サンゲ・テンペルの容体は回復しませんでした。何度も頼んでも、病院で治療を受けることは許されません。そして5月5日の夜中のことです。サンゲ・テンペルは昏睡状態に陥ってしまったのです。同室の者たちは大声をあげて、サンゲ・テンペルを病院に連れて行ってくれるよう、看守に懇願しました。看守たちはいよいよサンゲ・テンペルが死ぬかもしれないと、その状況の深刻さに気付いたのか、ようやく病院に連れて行くことに同意しました。それから数時間後、彼は満足な手当ても受けられないまま病院で亡くなってしまいました。死後の鳥葬の際に分かったことですが、サンゲ・テンペルの遺体は激しい拷問のために肋骨がいくつも折れていたそうです。

すぐにでも病院で手当を受けていれば、命を落とさずに済んだかもしれないのにと私たちは大変悲しみました。このあまりにもひどい仕打ちに、サンゲ・テンペルの家族のためにも何かをしなければと、以下の内容をしたためた嘆願書を刑務所長に送りました。
「刑務所内のミーティングで全囚人に対してサンゲ・テンペルの死を公表し、その死因を明らかにし、そして政治囚の全員が葬儀に参加できるように取り計らって欲しい」

しかし、当局からは何の返事もないまま、5月8日に刑務所長のみが鳥葬に参列し、葬儀はひっそりと執り行われてしまいました。11時に、第5棟のみで行われた集会で、刑務所長はサンゲ・テンペルの死について冷たくこう言い放ちました。
「サンゲ・テンペルは脳内出血が原因で死亡した。慢性疾患であり、病院ではなす術がなかった。したがって中国政府は彼の死に対する一切の責任はなく、またこの決定に対して反論をしたものは厳しく罰せられるであろう」
こうして、私たちの要求は何一つ受け入れられることなく、サンゲ・テンペルの死は闇へと葬られてしまいました。あんなに辛い状況の中でも周りの人々への気遣いを忘れたことのない優しい僧侶だったのに、悔やんでも悔やみきれません。

こうして刑務所で亡くなってしまった友人は彼一人ではありません。激しい拷問の末、その次の日に亡くなったデプン寺の僧侶ケルサン・トゥトップ。そしてやはり拷問の結果、病に伏し、病院での手当てもろくにうけられないままなくなったデチェン・サンガック寺の僧侶パッサン・ダワ。二人とも、サンゲ・テンペルと同様、死因は明らかにされず、家族には自殺や病気で亡くなったと伝えられました。家族は一体どんな思いで遺体を引き取ったのでしょうか。

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵3ダプチ刑務所でのシュプレヒコール

1998年5月1日はメーデー(労働節)です。私たち囚人は全員刑務所内の広場に集められ、中国国旗の掲揚をせねばなりませんでした。中国国旗が揚げられるのに合わせて、中国国歌を斉唱するのです。メーデーは共産党にとって大切な日でした。静粛に執り行うために、看守たちも目を光らせていました。厳粛に国歌が歌われている中、突如としてカルマ・ダワとソナムが立ち上がり、独立要求のパンフレットを撒きながら、「チベットに自由を!」と叫び始めました。その声に共鳴するかのように、広場の人垣のあちこちから「チベットに自由を!」と叫ぶのが聞こえました。政治囚だけではなく、刑事囚も一緒に叫んでいました。誰も予期していなかったことでもあり、また大人数が一斉に叫んだため、看守たちもすぐに反応することができず、私たちはそのまま「チベットに自由を!」と叫び続けました。一時間近くも叫んでいたでしょうか。ようやく事態を収拾した看守たちにより、囚人たちのほとんどがそれぞれの監房へと戻されました。私たち第5棟の政治囚たちは、建物内に戻されたものの、監房ではなく入り口の床に座らせられました。そこで6人の囚人が殴られ、独房へと連れて行かれました。このときにシュプレヒコールを最初に叫んだ2人の囚人は、刑期を9年も延ばされました。

3日後の5月4日、国際ユースデイの朝、看守たちは再び国旗の掲揚と国歌斉唱をさせるために、60人の政治囚を含めた総勢400人の囚人を中庭に集めました。周りには人民軍事警官が配置されており、さらに門の外にはトラック4台分の武装兵士が待機していました。他にも、刑務医や清掃員といった者たちまでが金属棒や電気棒などを手にいました。午前10時になると国歌が流れ、国旗掲揚がはじまりました。そのとき、ナクチュのカマル寺の僧侶ロプサン・ゲレックが一歩前に出ると、右手を高くあげ、大きな声で堂々と叫びました。
「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳!」
ほかの囚人たちも直ちにロプサン・ゲレックに加わり、再び大きなシュプレヒコールが起きました。人民軍事警官は空に向けて銃を放ち、それを合図にしていたかのように外で待機していた兵士たちが中庭に一斉に入ってきました。600人もの警官や兵士たちが声を上げた約100人の囚人たちを囲み、鉄パイプや電気棒で激しく殴りつけたのです。恐ろしい光景でした。

看守たちは15台ものビデオカメラで私たちの顔や行動をすべて記録していました。それを証拠として、その後、かなりの数の囚人が独房にいれられ、グツァ拘置所やサンイップ刑務所に輸送され、そこで尋問されました。シュプレヒコールが収まると、私たちはひとまずそれぞれの監房に戻され、外から鍵をかけられました。私たちは一様に興奮しており、気持ちをなかなか収めることができませんでした。その日の午後2時頃のことです。ロプサン・チョペルがトイレで首つり自殺を図りました。残された遺書には「私は600万のチベット人のために死ぬ。どんなことがあっても絶対に中国国旗に敬礼などはしたくないのだ」と書かれていました。そして、そこにはダプチ刑務所の仲間たちと来世で再び会いたい、という一文がありました。最初に遺体を発見したのは彼と同室だったロプサン・ダワでした。ロプサン・ダワの泣き叫ぶ声で仲間がトイレに駆けつけ、変わり果てた姿のロプサン・ダワを目にするや否や、第5棟は再び混乱に陥りました。私たちは
「ロプサン・チョペルは中国人に殺されたのだ!」
と叫びました。部屋から出ることができない者たちもドアの鉄格子から拳を出し、叫んでいました。看守たちは発砲して脅したが、それでもひるむことなく、看守に向かってシャツを脱ぎ捨て「打てるものなら俺の胸をうってみろ!」と叫ぶ者もいました。

私たちは一人づつ呼び出され、5人から6人の兵士たちによって袋叩きにされました。水を床にまき、その中に立たせられると、電気ショックが与えられました。中でもリンジン、ツェワン・ドンドップ、ガワン・ツォンドゥ、ドンドル、ロセルの5人がひどく殴られました。特にドンドルは二時間にわたって、歩くことができなくなるまで殴られました。またガワン・ツォンドゥとリンジンは鉄パイプでひどく殴られ、大怪我を負い、病院に運ばれました。

第5棟には、当時72歳だったタナク・ジグメ・サンポという政治囚がいました。小学校の教師だったジグメ・サンポ氏は、1960年から約30年もの月日を刑務所や労働キャンプで過ごした老人で、1983年から懲役28年の刑を受けてダプチ刑務所で服役していました。仲間たちから大変尊敬を受けていました。ジグメ・サンポ氏は、状況を説明し冷静な対応を看守に懇願したのですが、それを聞いて逆上した看守はジグメ・サンポ氏を殴り倒したのです。とっさにダワがジグメ・サンポ氏をかばおうしましたが、彼も殴りつけられました。

この騒動の最中にガワン・スンラップとジグメの二人が銃で撃たれました。そしてその日の夜から朝方にかけて、デモに参加した囚人たち全員を順番に呼んでは殴り続けたのでした。しかし翌日、もっとひどい仕打ちが私たちを待っていたのです。

拷問道具 C/R 9-10-3◆ 拷問、そして自殺未遂

翌日、私は再び呼び出されました。看守たちは、私を刑務所内の作業場に連れていくと、両足を縛りました。無意味な質問が繰り返され、その間私の首は声が出せないほどロープできつく縛られていきました。質問が終わり、ロープが緩められましたが、私はなにも答えませんでした。すると看守は私のズボンからベルトを抜き取り、それがちぎれるまで激しく殴り続けました。そして、考え直す時間を15分だけ与えるといって私を監房にもどしました。15分後、彼らは再び戻ってきて私を別の部屋につれていき、今度は動けないように全身を木の板にくくりつけました。そして薄暗い部屋にうつぶせに寝かされ、拷問が始まりました。この時点で、私はこの部屋から生きて帰れないのではないかと、死を覚悟していました。そして何を聞かれてもただ「チベットに自由を!」と繰り返し叫び続けました。看守たちは私が気を失うまで鉄パイプで何度も何度も殴りつけ、気を失ったところに水をぶちまけて、体中に電気棒を当てて電気ショックを加えました。口の中や鼻、ついには性器にまで電気棒を当てられ、苦しさのあまり声もでませんでした。それでも私は意識が回復するたび、必死に叫び続けました。そして拷問が終わると独房に入れられました。その夜、のどの渇きをおぼえ、コップに手を伸ばしたのですが、あまりの寒さと痛みで、水を飲む前に気を失ってしまいました。暫くして意識を取り戻すと、やっとの思いで水を飲むことができましたが、同時に胃の中のものを全部吐き出してしまい、その上に倒れこんで再び意識をうしなってしまいました。薄れていく意識の中で、看守が殴りつけながら吐きつけるように言っていた「今お前のおかれている状況は全部、お前のしたことに対する当然の報いなのだ」という言葉が再び聞こえました。チベットでは、自由を求めた報いとはこんなに残酷なものなのでしょうか。

次の日の朝、独房の小窓から薬が投げ込まれましたが、それを飲みこむことすらできないまま、独房の床に横たわっていました。ほとんど反応しない私をみて、さすがに看守たちも緊急を要すると判断したのか、私を独房から引きずり出すと、病院に移送しました。私の耳はまったく聞こえない状態で、4日間は目も見えませんでした。そのまま病院のベッドで一ヶ月間寝たきりの日々を過ごしました。

一ヵ月後、体はまだ完全に回復していなかったのですが、退院の手続きが取られ、再びダプチ刑務所へ移されました。看守たちは、再び私が政治的な活動を行わないようにと今までの第5棟の監房ではなく、刑事囚たちがいる棟の監房に移しました。そして囚人たちに私を見張るように命じました。体が完全に回復していないのに関わらず、何度も部屋から連れ出され、尋問室で拷問を受け続けました。その度に5月4日の抗議計画への関与を否定し続け、チベットの自由を叫び続けました。次はいつ呼び出されるかと看守の足音にも脅え、いっそ死んでしまったほうがどんなに楽だろうかと思うようになりました。来世にいかなる生き物に生まれようとも、これ以上の苦しみや地獄は味わうことはないはずです。

7月11日、私は自殺をはかりました。常に同室の囚人たちに監視されていたため首をつることはできず、また薬を入手することもできなかったため、こっそり手に入れた4本の針と、インクのビンを割って集めたガラス片を飲み込みました。その夜、一晩中、体が引き裂かれるような激しい苦痛に襲われ続け、朝が来ると大量の血を吐きました。それを見た囚人たちは直ちに看守たちを呼び、私は病院に運ばれました。死ぬことはできませでした。

ひどい拷問を受けたのは私だけではありません。この5月に起きたシュプレヒコールの後、2人の政治囚が拷問のため亡くなりました。ガンデン寺の僧侶ガワン・テンキョンは5月6日に病院で息を引き取りました。ガンデン寺の僧侶ケドップも亡くなりました。彼は後ろ手に縛られ吊るされたまま何時間も殴られ、両肩が折れるまで殴られました。病院に運ばれることもなく、そのまま刑務所で亡くなりました。そして21人の囚人が1年から5年の刑期延長を言い渡されたのでした。また、5人の尼僧も亡くなりました。尼僧の遺体を引き取りに来た家族には「自殺」したと伝えられたそうです。

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵4◆  釈放

1999年6月16日の朝、ついに5年の刑期を終える日を迎えました。私は事務所に呼ばれ、刑務所長から3時間にわたって中国政府の方針や歴史観について聞かされました。
「お前もずいぶんこの刑務所で学んだだろう。最後に5年の刑期の間にいかに態度を改めたか、そしてチベット自治区についてどのように考えを変えたか言ってみろ」
刑務所長は自信満々のようでした。釈放の日であるわけですから、普通ならばチベットは中国の一部ですと答えるべきだったのかもしれません。でも私はそうは答えませんでした。
「私の考えは少しも変わりません。チベット自治区は中国の支配下にあるべきではありません。争いを通して自由を勝ち取るのではなく、ダライ・ラマ法王がおっしゃるように対話と非暴力を通してチベットの自由を勝ち取らねばならないと思っています」
刑務所長はそれを聞くと顔色を変えました。
「チベットの独立はあり得ない。そんなことよりも自分の人生のことを少しは考えろ。釈放されるのだから、今後は態度を改め、そして今後二度と刑務所に戻らないように行動するように。さもなければ次はここで死ぬことになるだろう」
そう警告すると、私を殴りつけました。そして監房に戻り、出所する準備をするようにといわれました。やっと釈放されるときがきたのです。監房をでて、第5棟の建物のドアから出て歩き、刑務所のゲートに近づいたとき、ゆっくりと後ろを振り返りました。すると仲間たちが第5棟の窓から大きく手を振っているのが見えました。それはあまりにも辛い光景で、私は溢れる涙を止めることができませんでした。

釈放された後の9ヶ月を故郷のロカ地方の自宅に戻って過ごしました。釈放されたといっても、静かな日が待っているわけではありませんでした。公安警察は毎週のように家に来ては、理由も言わず家宅捜査を始めたり、私だけでなく家族にまで尋問をしたりしました。家族に迷惑を掛かるのを避けるために、実家を離れてラサの友人宅に身を寄せていたのですが、再逮捕の危険を感じて、ついにチベットを離れる決心をしました。2000年10月30日、ラサを発ち、車でネパール国境まで向かい、国境からは歩いてネパールに入りました。ネパール人になりすまし、中国側の検問はなんとか通過できましたが、ネパール側の検問でつかまり、そこで5日間留置されました。幸運なことに国連難民高等弁務官の助けを得ることができ、留置所から釈放され、無事にインドのダライ・ラマ法王が住む町、ダラムサラまでたどり着くことができました。2000年12月4日のことでした。その3日後には、ダライ・ラマ法王にお会いすることができました。まるで夢のような出来事でした。

今はこうしてダプチ刑務所から出て、インドで自由に暮らしていますが、決してダプチ刑務所は過去のことになってしまったわけではありません。拷問の後遺症のために、右足首が曲がらず、杖がなければ歩くこともままなりません。腰痛もあります。大きな音には敏感に反応してしまいますし、そして、今でも毎晩のようにダプチ刑務所の夢をみるのです。

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Lhasa 1989 C/R 9-10-3中国が初の「国家人権行動計画」を発表…09-10年

2009/04/13(月) 18:32

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0413&f=politics_0413_010.shtml

  中国国務院は13日、同国初の「国家人権行動計画」を発表した。2009年から10年にかけて、社会の各分野における人権問題で、政策上の具体的な行動目標を定めた。原文は約2万2000文字の長大なもの。以下は、その要旨。

●前文
  人権の十分な実現は、人類が長期にわたり追い求める理想だ。中国人民と中国政府は、長期にわたり、この目標のために奮闘努力する。

■中国政府は、人権問題に関する仕事を不断に推進する。

・就業の権利
  2009年から10年にかけて、国家は国際的な金融危機の負の影響を除去するために努力する。就職促進法を実行し、都市部における高等教育機関の卒業者と農民工(※)の就業問題を重点的に解決する。(※:現金収入を得るため、都市部に出て臨時工や契約従業員として働く農民)

・基本的生活を営む権利
  全国の住民、特に低収入層の収入を徐々に向上させる。最低生活保障制度を完全なものにし、基本的水準の生活を営む住民の権利を守るべく努力する。

・平等に教育を受ける権利
  義務教育、農村部での義務教育事業を優先させた上で、職業教育や高等教育のレベルの向上に注力する。校外教育の推進に一層努め、国民が平等に教育を受ける権利を保障する。

・医療と衛生の権利
  全国で基本的医療衛生制度の枠組みを作る。中国を全住民の基本的医療衛生保険制度が確立した国家のひとつになる。

・震災から復興の権利
  中国は2008年に発生した四川大地震の被災地域の復旧を、3年間をかけて重点的に行う主要任務と決定した。2010年までに被災者住民の生活水準を復旧、あるいは地震発生前以上に引き上げる。全員が住居を持ち、仕事に就けることを保障する。

・環境に関する権利
  環境に係る法治主義を強化し、大衆の権利を保護する。違反企業の閉鎖を進め、大衆の健康を保障する。違法行為や事件は厳しく処罰する。

・農民の権利と古関
  都市と農村の戸籍の二重構造の打破に努める。「新農村」の建設を進め、農民の合法的権利を守る。戸籍制度の改革を進め、農村から中小都市への戸籍の移転の条件を緩和する。

■住民の権利と参政権の保障

・秩序ある政治参加の権利
  各階層、各分野における住民の政治参加を、秩序をもって拡大する。住民の参政権を保障する。

・意見発表の権利
  報道・出版事業で各種のパイプを整備する強力な措置を講じ、住民の意見発表の権利を保障する。

ダラムサラ難民一時収容所・子供の絵6・自白強要の厳禁と慎重な死刑執行
  刑事事件捜査での自白の強要、違法な身柄拘束を厳禁する。死刑執行は厳格に制限し、慎重に実施する。死刑判決までの、審査過程を順守し、再審査の手続きを完成させる。法執行と司法の監督のメカニズムを確立し完成させる。

・身柄拘束者の権利と人道的扱い
  身柄拘束者の取り扱いを監視する法を完成させ、その権利の人道的扱いを保障する。

・公正な裁判を受ける権利と国家補償の見直し
  裁判の合法性、速やかな進行、公正な審理について有効な措置を講じる。裁判でのはっきりとした事実の認定、疑いのない証拠の採用、審理進行の合法性を保証する。国家賠償法の改正を行い、賠償請求者と請求可能な事案、賠償義務を持つ公的機関の範囲を拡大する。賠償までの手続きや算出法も改正する。国民及び法人、その他の組織が国家賠償を請求できるようにする。

・国家機関・関係者を批判する権利
  国民が国家機関と関係者を批判、提案、告訴する権利を保障する。団体、社会組織、メディアに、国家機関と関係者を監督する機能を発揮させる。

■少数民族、女性、児童、高齢者、身体障害者の権利

・家庭内暴力の防止と女性の権利
  女性に対する一切の家庭内暴力を禁止する。予防、制止、保護が一体化した家庭内暴力に対抗するためのメカニズムの設立を探究する。

・国家公務員中の女性の割合
  市以上のレベルの地方政府で、女性公務員の比率を向上させる。5割以上の省・市レベルの行政区画で、トップを女性にする。

・少数民族の政治参加の権利
  少数民族の、民族自治地域の行政と国政への参加を拡大する。全人代の代表(議員)に、55の少数民族がすべて含まれるようにする。人口が特別に少ない民族でも、最低1人の代表を出すようにする。

・児童の権利、胎児の性別判定の厳禁
  「全国児童発展綱要(2001-2010年)」が定めた目標を完全実現させる。「児童の権利を最大に」との考えにもとづき、児童の生きる権利、成長する権利、社会参加の権利を保障するよう努力する。(遺伝病などに絡む)医学的な理由以外の胎児性別の判定と性別にもとづく人工中絶を禁止する。児童の養育放棄などの犯罪行為を厳重に取り締まる。(編集担当:如月隼人)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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