チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年4月12日
続・ヒマラヤ逃避行 ツェテン・ドルカの場合
もう一人、ヒマラヤ越えにより凍傷で足の指を失った女性の話を報告します。
先日4月4日、ルンタ・レストランで話を聞きましたが、実は彼女=ツェテン・ドルカの事はずっと前から知っていました。
ダラムサラまでたどり着いた後、ドルカは一緒に峠を越えて来た9歳の娘と一緒に、私の家のすぐ近くの長屋の一部屋を借りて住み始めました。
仕事はそのころ町の福祉事務所が始めた、ごみ収集の仕事です。
今も彼女は毎日朝7時から夕方4時までトラックに乗ってゴミ収集・回収の仕事を続けています。
トラックで回収といってもゴミは決まった場所にまとめて分別して置かれているという訳ではなく、一軒ずつ歩いて回収しなければならない場所も多いのです。
足が悪いのに、大変だと思います。
事情を知って、2001年ルンタ・プロジェクトでドルカの娘テンジン・ドルマの里親を募集しました。
これに応えて下さった、東京の立野綾乃さんが以来ずっとドルマの養育費を支援してくださっています。
さて、ツェテン・ドルカは2000年10月に幼い娘を連れてラサを発ち、途中一か月歩いて、凍傷になり、最後は警察に捕まりカトマンドゥまで連れて行かれました。
以下彼女の話です。
私の名前はツェテン・ドルカ、ラサで生まれ現在38歳です。
家はラサのツクラカンのすぐそばでした。今もラサには両親と姉、弟がいますが、この一年間は全く連絡を取っていません。
あちらが、掛けてこないようにと言われたからです。
23歳の時結婚しました。
夫は結婚して間もなくラサでデモに参加して逮捕されました。
3が月ほどして解放されましたが、すっかりやせ細り、様々な拷問を受けたと話していました。
娘が一人生まれましたが、その後夫とは別れました。
子供が8歳になったとき子供の教育の事を第一に考えて亡命を決意しました。
ガイドには二人分で4000元払いました。
ラサでその夜決められた場所に行ってみると、およそ30人のチベット人が集まっていました。寒くて暗いトラックに乗せられ、ディンリまで走りました。
ディンリからチョモランマに向けて歩き始めました。
昼間眠り、夜歩きます。山を何度も越えました。
ガイドは何度もあの山を越えたらもう大丈夫だと何度も嘘を言いました。
でもそうでも言わないともう子供たちは疲れると歩こうとしなくなるからでした。
結局峠まで20日ほど掛かりました。
峠に近づくに従い雪が深くなってきました。
数日前に降った雪のようでした。
峠の前では私は子供を連れていたのでみんなから遅れてしましました。
グループは二つに分かれ、峠に着いた頃には10人位が一緒でした。
峠は曇っていましたが、雪は降っていませんでした。
しかし、雪は膝の上までありました。
私は子供を背負いながら一歩一歩進みました。
時々突然穴に落ち、頭まで埋まったりしました。
ガイドは峠を越えると安心したのかチャン酒を飲み始めました。
ガイドをするどころか、酔っ払って雪の上に大の字になって寝たりしていました。
みんながガイドを引きずって行くほどでした。
峠を越えて確かザンブ*という場所で最初に寝ました。
*彼女は地名などはっきり覚えておらず、はっきり言って実際にどのルートを通って越境したのかは特定できませんでした。
幸運にもそこでヤッパ(ヤクと共にチベット・ネパールの峠を越えて交易を行う人たち)
に出会いました。彼らは何張りかのテントを張っており、自分たちもその中で眠ることができました。
次の日、雪はさらに深くなり腰までの深さでした。
子供の手を引いたり、背中に背負ったりしていたので、また最後になってしまいました。
足はもう感覚が無くなっていました。
次の日トプテと言う村のようなところに着きました。
人はいませんでしたが小屋の中に入ることができました。
そこで靴を脱ごうとしましたが、靴が完全に凍って固まっており、脱げません。
結局、ナイフで半分に切って脱ぐことができました。
足の先が赤く腫れてきました。足の先に火がついたように痛み始めました。
ガイドはもうネパール側に来たから大丈夫だといって、なかなかその先に進もうとしませんでした。毎日チャンばかり飲んで結局4日間そこにいました。
私の足は益々痛くなり、腫れてきました。
そこから再び下りはじめましたが、私は右足に靴を履くことが出来ず、簡単に布を足に巻いただけで歩くしかありませんでした。
それから何日歩いたのかよく覚えていません。
私はみんなに自分のこどもを連れて先に行ってくれ、と言いました。
自分は杖をつきながらゆっくり歩くことしかできないので、みんなの足手まといになっていると感じたからです。
みんなは先に行き、私は一人で足を引きずりながら歩きました。
足は益々腫れ、痛みも堪えがたいものがありました。
途中で一人の現地人が助けてやるから金をよこせと言って来ました。
お金はほとんどありませんでした。代わりにネックレスやイヤリングを手渡しました。
しかし、彼はしばらくして姿が見えなくなりました。
其のあと警官がやってきました。
彼が知らせたようでした。
警官に捕まり、ドラカールという町まで連れて行かれました。
警察署の中の留置場に数日入れられました。
それから、彼らは私を車に乗せてカトマンドゥまで連れて行きました。
その後、ネレンカン(カトマンドゥにある難民一時収容所)に送られました。
結局警察に捕まり私は助かったのかもしれません。
そのころネレンカンには私のように凍傷になった人が10人ほどいました。
一緒のグループにいた17歳の男の子は踵が凍傷になっていました。
みんな一緒に病院に連れて行かれ、手術を受けました。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)