チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年4月11日

日本語訳・「チベットの文革」ウーセル女史のブログより

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私が昨日ウーセルさんのブログを紹介し、誰が翻訳してくれないかな?とお願いしたのに、さっそく答えて、まず<宇宙犬>さんが要約を送ってくださいました。
その後今度は<カズ@憧れの大地>さんが全訳を送って送ってくださいました。
本当にありがとうございます。

以下、中国語の全文、全写真と共にその日本語訳を掲載いたします。

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u-seru photo 02009年4月9日 星期四
大开杀戒的西藏文革(20张图片)
殺生戒を踏みにじるチベットの文革(写真20枚)

这些文字,这批图片,我曾经在之前的博客“绛红色的地图”上发表过。那天是去年4月24日。
再贴一次。贴多少次都值得贴,历史是不能忘记的,因为历史在重演……
ここに掲載した文と写真は、以前のブログ「深紅色の地図」で発表したことのあるものである。あれは昨年の4月24日のことだった。
今回、再度ここに掲載する。歴史は忘れてはならない。なぜなら、歴史は繰り返すから…

u-seru photo 15·唯色·
ウーセル:

继1957年—1959年整个藏区发生藏人武装反抗中共政权被镇压之后,文化大革命期间,中共军队又在西藏各地大开杀戒。
1957年―1959年の間にチベット全土で絶えることなく発生したチベット人による反中共政権武装反抗が鎮圧された後、文化大革命の期間中、中共軍は各地で殺生戒を踏みにじる。

当时,首先是杀“叛乱分子”。如1969年3月起,西藏昌都地区、拉萨市郊县、日喀则地区、那曲地区等地相继发生暴力事件。这一系列事件被称为“反革命暴乱事件”,在当时被定性为“再叛”(1957年—1959年的反抗被认为是第一次“叛乱”),虽然有说法认为这不是“再叛”,而是文革当中造反派组织之间的武斗,但军队是以“平叛”名义镇压的。所谓平息“再叛”实则屠戮的军事行动结束之后,便是大规模的逮捕、关押和处决。领导尼木县藏人进行抗争的尼姑赤列曲珍成为西藏人人皆知的“反动分子”。大概是1970年2月上旬,当天拉萨人几乎倾城而出,全被带往公审大会的现场“拉萨体育场”和位于南郊流沙河的刑场,去接受触目惊心的“阶级教育”。身穿暗红色氆氇藏袍的赤列曲珍,身体瘦弱,被公审批斗,随后她与17名藏人被第一批公审处决。这批照片正是当时被公审和处决的现场。
ウーセル女史のブログより、チベットの文革1当時、まず行われたのが「反乱分子」の殺害だった。例えば、1969年3月に端を発した、チベット・チャムド地区、ラサ市近郊の県、シガツェ地区、ナクチュ地区等の地で相次いで発生した暴力事件がある。これらの事件は「反革命暴乱事件」と呼ばれ、当時「再叛」(1957年―1959年の反抗が第1次”叛乱”とされる)と位置づけられた。これは「再叛」ではなく文革期間中の造反派組織間の武力闘争だとする見方もあるものの、軍隊は「叛乱平定」の名の下で鎮圧を行っていた。いわゆる「再叛」平定は実際のところ、殺戮の軍事行動が終了した後、即ち大規模な逮捕・拘禁・処刑だった。ニェモ県でのチベット人抗争を指導した尼僧チ・リエ・チュ・チェンはチベット人に知らぬもののいない「反動分子」とされた。1970年2月上旬あたりだったか、この日ラサ中の人々が公判大会の「会場」と南郊外の川原の処刑場に連れ出され、目も覆わんばかりの「階級教育」を受けさせられた。暗い赤色のプル(チベット産毛織物)のチベット民族衣装をまとったチ・リエ・チュ・チェンは、体はやせ衰えていた。彼女は批判闘争にかけられ、その後彼女と17人のチベット人に第1回の公判判決が言い渡された。この写真はまさにその時の公判と処刑の現場のものである。

u-seru photo 16名为“拉萨体育场”的“波林卡”,其大片空地成为可以集合上万人的公审大会会场。而杀人的刑场则有好几处,如色拉寺天葬台附近、献多电厂旁边的天葬台附近、蔡公塘天葬台附近、古扎拘留所旁边的天葬台附近、南郊流沙河一带。要说明的是,在天葬台附近实行死刑,并非可以将死者按照西藏传统葬俗就地天葬,因为天葬的习俗属于“四旧”,早已被禁绝。在解放军军人的枪声中,一个个“现行反革命分子”一头栽倒在早给他们草草挖就的坑中,而后被盖上尘土算是埋葬于泥土之下,有的人甚至脚掌还露在外面,被野狗撕咬。
u-seru photo 19「ラサ競技場」の名を持つ「ポ・リン・カ」。その広大な空き地は数万人を収容できる公判大会会場となった。殺人の刑場としては具合のいい点が幾つかあった。南郊外の川一帯は、セラ寺の鳥葬場に近く、シェンド発電所隣の鳥葬場に近く、蔡公塘の鳥葬場に近く、グツァ刑務所隣の鳥葬場に近いのである。説明しよう。鳥葬場近くで死刑を実行するのは死者をチベット伝統の葬儀の習慣に則って鳥葬に付すことができるからではない。なぜなら、鳥葬の習慣は「四旧」の一つとされてとうに禁止されていたのである。解放軍軍人による銃声の中、彼らが前もって掘っていた穴の中に一人の「先発反革命分子」が倒れ、その後土で蓋をされる――即ち土の下に埋葬された。中には手が外にむき出しになっていて野良犬に食いつかれた者もいた。

u-seru photo 17当时,除了杀“叛乱分子”,还要杀“叛国分子”。当时由于不少人因不堪文革的恐怖与贫困而逃往邻近周边国家,有些人不幸被抓获便以“叛国分子”的罪名予以严惩。有一个叫图登晋美的年轻人,是拉萨中学高66班的学生,他与他的女朋友华小青(半藏半汉)在逃亡时被捕。华小青在监狱里遭到管制人员强奸,当晚自杀。图登晋美被公审处决。他的一位同学至今忘记不了当时惨不忍睹的情景:“枪毙图登晋美那天,我们看见了。把他游街的时候,我们亲眼看见他五花大绑,背上插一块牌子,脖子上捆着绳子,人已经快被勒死了。其实人已经勒死了。到刑场的时候,他已经死了,脸肿得很大,惨白。那时候他可能才20岁的样子”。
u-seru photo 18当時、「叛乱分子」殺害のほか、「叛国分子」殺害も行われていた。当時、文革の恐怖と貧困に耐えられず近隣国に逃れる人々が少なくなく、不幸にして捕まり「叛国分子」の罪名で罰せられる者がいた。トゥ・ドン・チン・メイという名の若者――ラサ高校66班の学生――とその恋人の華小青(チベット人と漢人のハーフ)が逃亡の際に捕らえられた。華小青は獄中で所員に強姦され、その夜自殺した。トゥ・ドン・チン・メイは公判にかけられ処刑された。彼の同級生の一人は当時の目を覆いたくなる光景を今も忘れられずにいる。「トゥ・ドン・チン・メイが銃殺されたあの日、私たちは見ました。彼が街中を引きずり回されている時、私たちはこの目で、彼ががんじがらめに縛り上げられ、背中にプラカードを掛けられ、首に縄をかけられて今にも絞め殺されそうになるのを見てしまったのです。その実、彼はもう絞め殺されていました。処刑場に着いた時にはもう死んでいたのです。顔は膨れ上がって青白くなっていました。あの時の彼は、20歳になったばかりの年頃のようにすら見えました」

u-seru photo 10曾与中共合作却在文革时沦为“牛鬼蛇神”的贵族官员桑颇·才旺仁增的小儿子,也因“叛国”之罪而被枪毙。他是个瘸子,约20岁。与其一起逃亡的两个年轻藏人也被枪毙。也是先在“拉萨体育场”召开公审大会而后被处决。据说他在被枪毙之前已经被打死,有的人说他是自杀的,但就这样,他的尸体还是被枪毙了。

u-seru photo 6かつては中共の協力者だったのが文革時には「妖怪変化(文革時に旧地主や旧資本家、学会の権威などがこう例えられた)」におとしめられた貴族官員サンポ・ツェワン・レンゾンの息子も「叛国」の罪で銃殺された。彼は20歳前後の足の不自由な青年だった。彼と一緒に逃亡を試みた2人の若者も銃殺された。やはり「ラサ競技場」で公判にかけられた後判決を受けた。聞くところによると、彼は銃殺前に既に撲殺されていた。ある者は自殺だと言う。いずれにせよそれにもかかわらず、彼の遺体はなお銃殺にかけられたのである。

在所谓的“叛国分子”中,甚至只因有外逃的打算也会招致杀身之祸。如在山南加查县与曲松县之间的波塘拉山修公路时,几个家庭出身成份属于“领主”或者“代理人”的年轻人,不堪生活艰难和精神压抑,言谈中流露出越境逃往印度的想法,被一位同伴告密,修路队的领导立即上报,从拉萨派来解放军军人将这几个年轻人全部逮捕。不久,16岁的东觉和14岁的次多被公审枪毙;18岁的索朗勒扎在狱中被打死;1950年代期间,被中共盛赞的“爱国上层人士”擦珠活佛的外甥约16岁,被判刑20年,后来获释之后还是去了印度,从此不归。
いわゆる「叛国分子」の中には、海外に逃れようと計画しただけで殺害の憂き目に遭う者もいた。山南地区ギャツァ―チュスム間のポータンラ山での道路工事の際、「領主」或いは「代理人」に属する家庭出身の何人かの若者が苦しい生活と精神への圧迫に耐えられず、国境を越えてインドに逃れようかという考えを会話の中で吐露したところ、一人の同僚に密告され、道路工事班の指導者が即座に上へ報告し、ラサから派遣された解放軍軍人がその何人かの若者を全員逮捕した。程なくして、ドンジュ(16歳)とツドゥ(14歳)が公判にかけられて銃殺され、ソォラン・ルジャ(18歳)が獄中で撲殺された。1950年代の間、中共に「愛国上層人士」と讃えられた活仏ツァワの外甥(16歳前後)は20年の判決を受け、のちに釈放された後インドへと去り、それ以来戻っていない。

为了起到杀一儆百的作用,当时盛行的作法是,一是将宣判死刑的布告到处张贴,被处决者的照片或名字上画有一个醒目的红叉;二是举行群众性的公审大会,被处决者的亲属必须站在最前列,公审之后便由警察和士兵押上卡车沿街展示,再赴刑场予以枪毙,有些人还未到达刑场就已被拴在脖子上的绳子活活勒死。其亲属既不允许收尸,还要上交子弹费,而且还要公开表态感谢党消灭了“阶级敌人”。很多人在狱中不堪折磨而自杀,也有很多人受酷刑而死。
u-seru photo 5一人を殺して大勢の見せしめにする効果を挙げるため、当時盛んに行われていた方法に以下がある。
1. 死刑判決の布告を至る所に貼り出し、判決を受けた者の写真或いは名前の上に人の目を引く赤い×印を描く。
2. 群衆の面前で公判大会を行い、判決を受ける者の親族は必ず最前列に立たせ、公判後は警察と兵士の手でトラックに乗せられ沿道にさらし者にされ、再び刑場に戻って銃殺に処す。中には刑場に着く前に首にかけられた縄でしめられて死んでしまう者もいた。親族は遺体を引き取ることを許されず、それどころか銃弾代を支払わされ、挙句には党が「階級の敵」を消滅させてくれたことに対して公開で感謝の意を表しなければならなかった。多くの人は虐待に耐えられず獄中で自殺し、また酷い刑罰を受けて死ぬものも多くいた。

u-seru photo 21970年和1971年被枪毙的人之多,据我曾经采访过的前西藏造反派“造总”司令陶长松说,其中只是因1969年的所谓“再叛”被法院判决枪毙的就有295人。后来这295人中,有些人被认为杀错了,予以平反,并先后给其家人“安慰费”200元和800元,对此,前“造总”司令陶长松讲了一句令人难过的话:
1970年及び1971年に銃殺された人の人数について、私が以前取材したチベット造反派「造総」司令の陶長松が語った。銃殺された人のうち1969年のいわゆる「再叛」で法廷から銃殺の判決を下された者は295人。後にその295人のうち、誤って殺されたと認められた者が出て名誉を回復され、その家族に200元、800元の「慰謝料」が支払われた。これについて、元「造総」司令の陶長松は聞くに悲しい話を語った。

u-seru photo 13“藏族人太老实了,枪毙他们的时候说‘托几切’(藏语,谢谢),给他们200元的时候也说‘托几切’,给他们800元的时候还是说‘托几切’,这些藏族人实在是可怜啊。”
「チベット族の人々は極めて従順で、彼らを銃殺した時、『トゥジェチェ』(チベット語で『ありがとう』)と言い、200元を支払った時にも『トゥジェチェ』と言い、800元を支払った時もまた『トゥジェチェ』と言っていた。彼らチベット族の人々は実に可哀想だった」

u-seru photo 4而我采访过的曾经在调查“再叛”工作组担任负责人的多吉认为远不止这个数字。他说,1970年办“毛泽东思想学习班”时,杀了一批人,“光是边坝、丁青两个县就有100多人……第一批杀了,本来还要两批、三批的杀,杀它个几百几百的,因为都已经判了死刑,但第一批杀了后,第二批就不准杀了,可能发现有扩大化的趋向。73年我们去边坝落实政策时,准备要杀的、已经关在监狱里面判了无期徒刑的、判了15年、18年至少也是10年以上的,光是我去的那个乡就有好多人。”另外一位曾在当地工作的藏人也说:“说边坝再叛,一次公审枪毙就是90多人”。

u-seru photo 12私が以前取材した「再叛」調査グループの責任者ドゥジェは、この数字をはるかに越えていると考えていた。彼が言うには、1970年に「毛沢東思想学習班」をやっていた時に多数の人々が殺された。「バンパル、テンチェン2県だけで100人以上に上った……これが第1弾の処刑で、既に死刑判決が下されていたために本来なら2度、3度の処刑でその度に数百人が殺される予定だった。ところが第1弾の処刑後、第2弾は認められなかった。拡大化の傾向が見えていたのかもしれない。73年に私たちが政策を実施しにバンパルに赴いた時、死刑執行を待つ者、既に獄に繋がれて無期懲役の判決を下された者、15年、18年、最低でも10年の判決を下された者は、私が訪れたあの郷だけでも多数いた」。その他、現地で働いていたあるチベット人もこう語っている。「バンパルの再叛と言えば、1回の公判で銃殺されたのは90人以上だった」

但绝大多数被枪毙的人至今没有获得平反。一位历经当年“红色恐怖”的藏人感叹道:“这么多的血案啊,让我们藏人寒透了心。我们受到的伤害太大了,已经对共产党失去信任了。所以87年和89年的所谓‘骚乱’,其实是跟这些伤害有关的。”
しかしながら、銃殺された大多数が未だ名誉回復をされていない。当時の「赤の恐怖」を経験したあるチベット人はこう吐き捨てる。「こんなにたくさんの殺人事件で、私たちチベット人の心は恐怖に打ちひしがれている。私たちが受けた傷は深く、共産党への信頼も無くなった。だから、87年、89年のいわゆる“騒乱”も実際のところ、これらの傷害と関連しているのだ.

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发贴者 Woeser 时间: 下午3:41
标签: 记录与纪实

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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