チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年3月31日

尼僧チュドゥンの物語

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アニ・チュドゥンダラムサラの家は小さいけど二階建てで、一階にはよくチベット人とかが住みついたりする。
毎年冬になると、尼さんが3~4人住みつく。
もう15年ぐらい前から恒例となっている。
冬には下から朝晩読経が聞こえてきて家が尼寺化する。

みんなノルブリンカの近くのドルマ・リン尼僧院の尼僧で、チベットではラサのセラ僧院の北にあるチュプサン尼僧院の尼僧であった。
冬には僧院が休みとなる。
どこにも行くところのない彼女たちは冬にここに来て、春に法王の法話を聞いてから尼僧院に帰るのだ。

みんな若かったが、、、もう全員30半ばだ。
長い間、一緒の家に住んでいたが、当然一人一人にインタビューしたことなどなかった。

最近、その中の二人に話を聞いたので報告する。
全員チベットにいた時には何らかの形で政治活動を行っている。
ヒマラヤを越える時、苦労していることもいっしょだ。

今日はジャンジュップ・チュドゥン37歳の話を紹介する。
彼女は4人の中で、もっともお銚子者だ。
彼女に起こったことは20年前の話ではあるが、去年や今年の状況もほぼ同様だ。
デモを行い、拷問を受け、ヒマラヤ山中を二か月間歩いてやっとカトマンドゥに辿り着いたのだ。

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アニ・チュドゥン2私はラサ近郊メト・クンガで1972年に生まれました。
母は自分がまだ子供のころ、産後の病気で亡くなりました。

家は農家でしたが、ヤクなどの家畜もたくさんいました。
兄弟は6人です。
学校には4年間通いましたが、そのあとは家の仕事の手伝いをしていました。
いつのころからか尼になりたいと思うようになりました。

17歳の時ラサのチュプサン尼僧院の尼になった。
尼僧院には当時200人ほどの尼がいた。
僧院に入ったが、そのころは寺再建の仕事ばかりが多くて、勉強はあまりできなかった。
その上中国人のグループが来て「愛国教育」のクラスを始める。
朝から晩まで、共産党を讃え、法王を非難することを強要される。
そんな状況の中、尼僧たちはこっそり話す機会があればいつも、インドに逃げることか、デモを行うことを話し合っていた。

その頃、セラ僧院に勉強のために通っていた。
そこでガリ尼僧院の一人の尼と知り合いになった。
二人で一緒にデモをやろうということになった。

1990年8月、ノルブリンカでシュドゥン祭が行われた。
ノルブリンカ前には大勢のチベット人が詰めかけていた。
中国政府の役人も沢山来ていた。
この機会を捉えてデモをしようと決めていた。

1988年ラサ C/R 9-10-3 MT 4自分たちが到着する直前に二組がすでに声を上げていた。
ミチュリン尼僧院からとセラ僧院からのグループだった。
どちらもすぐに警官に取り押さえられ、殴られていた。

二人して大きな声でスローガンを叫び始めた。
「チベット独立!」「ダライ・ラマ法王に長寿を!」と。
数十メートル歩いたところで、大勢の警官に囲まれ殴り倒された。
そして、グツァ刑務所に連れて行かれた。

中庭に並ばされたが、その時他に尼僧ばかり10人が先に並ばされていた。
手を上げろ、と言われそのまま数時間その姿勢を取らされた。
下ろすと殴られる。
それから、一人一人長いロープで手を縛られた。
ロープの一端が目の前にあった大きな木の高い枝に投げ掛けられる。
落ちてきたロープの端を二人掛かりで引っ張る。
すると尼僧たちは木の枝に宙釣りとなった。
ロープは幹に巻かれて固定される。

チベットで中国が使用する拷問道具そのままの状態で殴られる。手足だけでなく、棍棒を使ったり、電気棒で殴られた。
そのたびに悲鳴が上がる。
数人ずつこれを受けた。
目の前で他の尼がやられるのを見ているのは耐え難いことだった。

次の日からも毎日尋問が行われた。
いつも質問は同じで「誰に唆されたのか?後ろに誰がいる?」だった。
「チベット独立とはどういうことなのか?」と訊かれたりもした。
最初の一か月は毎日、殴られ、電気棒でショックを与えられた。
4か月グツァに入れられた後、出された。

しかし、チュプサン尼僧院に帰ることは許されず、家に居るしかなかった。
一年もすると私は又、デモをすることを考え始めた。
しかし、家族には決して話すことができなかった。
今度はチュプサン尼僧院の一人の仲間とデモをすることを決めた。
前の日にこっそり家を出てラサに向かった。

その日の夜はツクラカンの前で寝ることにした。
夜そこにいる時、ツクラカンの僧侶と話をした。
ところが、偶然その僧侶は自分の兄の知り合いだったのだ。
その僧侶はすぐに、兄に私がデモをしようとしていることを知らせた。
兄が来て、デモはもうしないように、二度目に逮捕されたらタダでは済まないだろう、と言って私を説得し始めた。

私は拒否し続けたが、結局その日は兄の家に連れて行かれた。
次の日、兄と家の者たちが相談して私をインドに送ることに決めたという。
その次の日にはもうすべてが手配され、私は強制的にトラックに載せられたのだった。

1992年の春。
グループは60人。二台のトラックに分乗した。
セラ、ガンデン、デブンの僧侶が20人ぐらい、それに10人位のカンバがいた。
子供は4,5人で6歳の子を連れた夫婦、8歳、9歳、、、14歳ぐらいの男の子がいた。
尼は私を入れて2人だけだった。

カン・リンポチェトラックはまずラサから北に向かい、ダムシュンからナムツォ(湖)の北を通って、西に向かった。
そのまま10日ほど走って、カン・リンポチェ(カイラス山)の近くまで来てトラックを降りた。
それから、南に向かって歩き始め、プランの近くまで来た。
ネパールに抜ける国境はそこからすぐだと聞いた。

しかし、そこで中国の兵隊に見つかってしまった。
彼らはガイドと一人の僧侶をどこかに連れていった。
次の日兵隊が来て「彼らを解放したかったら、おとなしく来た道を帰れ」という。
仕方なく一旦来た道を帰ることにした。

次の日には二人は解放され、自分たちに追いついた。
ガイドが帰ってきたところで、再び南に向かって歩き始めた。
国境を越える道は大したことはなかったが、ネパール側に入ってからが長く、大変だった。

ヒマラヤ2ネパールに入ると、低地では雨、高地では雪だった。
昼となく夜となく歩き続けた。
歩きながら眠るという状態だった。
道は分かりにくく、ガイドもはっきり知らないようだった。
だいたいガイドは年を取っていて元気がなかった。
途中でグループは二つに分かれることになった。
元気のいい僧侶たちが別に行くと言い出した。
私もそのグループに加わった。

大きな街道を行くと警察に捕まるということで、街道を避け村も避けながら森の中を行く。
何度も高い山を越えなければならなかった。
食糧も尽きた。
僧侶たちがこっそり村に行って、食を乞うた。

一つ高い雪山を越えた時は本当に大変だった。
急な斜面を腰まで雪に埋もれながら登った。
雪と風で前がほとんど見えない。
体の感覚が次第に無くなり、死ぬかも知れないと思った。

それでも、何度も若い僧侶たちに助けられて、峠を越えることができた。
次の日には晴れて今度は雪目で目がほとんど見えなくなった。

それから先も長かった、クマのいる森の中には何度も冷たい雨が降り、全身ずぶ濡れでそのまま眠った。
足の裏には大きなまめができては潰れた。
流れの速い川を何度も流されそうになりながら渡った。

19歳の少年が森の中で消えた。
探してもいないので、そのまま先に進んだ。

後で聞いたところでは、もう一方のグループの中で50歳ぐらいの男性が死んだという。

結局二か月歩き続け、やっとカトマンドゥ行きのバスが出る町(ジュムラ)に辿り着くことができた。

全員ボロボロで憔悴し切っていた。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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